51葉 聖域からの逃走・上
「【ハウフェイク】。やったにゃ。うまくいった」
シカモアは久しぶりに手にしたスカラベの杖で神獣の毛束に幻惑の魔法をかけた。
「これでこの毛束がこの杖に見えるはずです。でも、油断は禁物。もっと念入りな偽装を。【イブフェイク】、【シュトフェイク】、【レンフェイク】」
毛束に次々と魔法を重ねていく。
「体だけでなく、心臓、影、名前まで偽装しました。私の技量じゃ魂までは偽れないけど、ここまでやれば、なんとか誤魔化せるはずです。杖からなら魔法を使えることは安心しました。しかし、間違いなく戦闘力は低下しています。極力戦闘を避けた方がいいでしょう」
周りで見ているくちばしの生えた雲がめぐぇめぐぇと奇怪な声で鳴いている。
彼らは神獣の上位眷属・滝幕楽。
今日はハチミツパーティでため池にいる生き物は彼らのみ。
ため池中の綿幕楽を体に収めて飛び去った夢婦屯を見て、改めて人智では及ばない生き物だと感じた。
眷属たちに杖の偽装工作を見られているがシカモアは焦らない。彼らが神獣とあまり高度なコミュニケーションを行わないことを事前に調査済みだからだ。
脱走に必要な道具は揃った。あとはタイミングだ。
夢婦屯もいないし大量の綿幕楽もいない。
故に絶好の機会になり得ない。脱走にはあと一ピース足りない。
それならとシカモアは杖を構えながら眷属たちの元へ向かう。
「さぁ滝幕楽さん達。今日はこの杖を使って遊びましょう。行きますよー」
ここから逃げるためには霧を突破しなきゃいけない。
弱体化した私では霧や砂漠にいるモンスターから逃げ切ることさえ無理かもしれない。
戦闘の勘を取り戻すため、そして障害になり得る上位眷属の力を図るために、シカモアはスカラベの杖に力を込めて、呪文を唱え始めた。
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・・・・・・
・・・
「はぁはぁ・・・。今日は・・・これで・・・おしまい・・・。みんな・・・満足しましたか・・・?」
くちばしの生えた綿雲たちは元気に中空を泳ぎ回っている。
まだまだ元気が有り余っているようだが、シカモアの体力は限界だった。
「全く・・・私の力じゃ・・・魔法も物理も・・・まるで効きません・・・」
神獣の上位眷属と言えどまだ赤ん坊。
倒してしまってもまずいので、最初は手加減して影の玉を飛ばしていた。
しかし、綿毛に吸われて全くダメージにならない。
ちょっと悔しくなって徐々に威力を上げていく。
それでも眷属たちはよろめきすらしせず、とぼけた顔でこちらを見ている。
雲のような綿毛に影を固めた魔力弾はすべて吸い取られてしまっていた。
久々の魔法使用に高揚していたシカモアはつい勢いで、主力攻撃である高密度の魔法弾【シュトケプリ】を放ってしまった。
流石にまずかったかと焦るシカモア。
この攻撃は急所に入ればアメミットだって一撃で倒せるほど威力なのだ。
着弾と同時に綿毛から霧が吹きだして、眷属たちを覆う。
ただそれだけだった。漆黒の塊は霧に溶け消えてしまっていた。
魔法は効かない、ならば。
少女は綿雲たちに駆け出し、【リルート】の魔法を杖にかける。
ベクトル操作の黒魔法によって、杖に伝わる運動エネルギーが内に閉じ込められ増幅される。
杖を振るい、眷属を打つインパクトの瞬間、魔法を解く。
石壁を砕くほどの重い一撃。
そのはずなのだが、眷属はノーリアクション。
杖先は厚い綿毛に埋もれていた。
その結果にもめげずに様々な攻撃を試していった。
結果、持ちゆるすべての攻撃手段で無傷という悲しい事実が判明してしまった。
シカモアは膝を付きうなだれ、滝幕楽たちははしゃぎ足りないとばかりにご機嫌に彼女の上を泳ぎ回っていた。
杖をいままで集めてきた秘密の道具置き場に隠した後、疲労と精神的ショックのためかいつもより早く寝てしまった。翌朝目覚めてすぐに朝帰りの夢婦屯と綿幕楽を迎えることとなった。
それからの数日間、シカモアは眷属たちのお世話を手伝う傍らで脱出計画に必要な仕込みや物資の調達と作成を密かに行っていた。パーティの日以降、夢婦屯は夜間の霧の制御を滝幕楽たちに任せてため池からいなくなっていたため、夜の間は神獣の目を気にせずに準備を進めることができた。
決行は昼下がり。
シカモアはそう決めていた。
夜間に獣が潜む霧へ侵入するのは無謀すぎる。かといって朝に決行すると砂漠地帯を昼に進むことになる。
それは、大空を飛べる神獣には確実に気づかれることを意味する。
人質の私はすぐに連れ戻されてしまうだろうとシカモアは考えた。
霧を抜けた時、日が暮れるくらいが丁度良い。
夜のドゥアト砂漠を行くのは、いままでの常識では自殺行為だ。
だが、この周辺の猛獣が霧の中に住みだしたということであれば霧の周囲であれば猛獣は少ないだろうと判断した。仮に猛獣に出会っても、霧に侵入したときのように、見つかっても襲われないかもしれない。
計画に必要なものは既に揃っている。
あとは機会を待つだけだ。
「シカモアちゃん、明日はタイジュちゃんの種まきがあるの。いつもより帰り遅くなるから」
この機は逃せない、シカモアはそう思った。
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・・・
翌日、彼女は日課になってしまったサザナミチガヤの収穫をしていた。
いつものように慣れた手つきで穂を次々と綿幕楽の毛で作った網袋へ入れていく。
いつものように袋の周りに綿幕楽たちが集まってくる。
ある程度チガヤの穂が袋に溜まると腰に引っかけていたスカラベの杖を手にする。
いつもとが違う行動だが綿幕楽たちはお構いなしでチガヤ入りの網袋に夢中だ。
袋の口を杖の先端に引っかけると、少女は渾身の力で袋を霧の中へと放り投げた。
袋を追って霧へ侵入する綿幕楽の一団。
「我が影よ、太陽からわが身を隠し給え【シュトベール】。混沌よ、向かい来る者の道を惑わし給え【リルート】」
シカモアは自らの影を黒い靄に変え、身体に纏わせる。
さらにベクトル操作の黒魔法によって、影の靄は霧や水滴を弾くバリアへと変化した。
ぐめぇと悲鳴が聞こえる。
今だ。
シカモアは霧の壁に向かって駆け出した。
シカモアの作戦とは、綿幕楽を囮にして霧を抜けることだった。
いままでお世話してきた綿幕楽たちが犠牲になるかもしれない作戦を実行するのはシカモアとしても複雑だった。しかしそれ以上に里を守る使命の方が大事だ。
彼らの無鉄砲な性格、注目を集める不思議な性質、チガヤの穂の水をため池に注ぐ役割。
お世話の傍ら観察を続けて得た知識をフルに使った作戦。
その結果次に起こることも想定通り。
それは、ため池中の生物の殺到。
霧の中の獣たちは競うように綿幕楽たちへと向かい、それに気づいた上位眷属は慌てて駆けつける。
さらに野次馬の綿幕楽が追加で霧に侵入し、霧内は騒然となった。
シカモアは度々振り返りながら霧の中を走る。
これも想定通り。侵入時にもなぜかそうだったように霧の中でもマクラたちだけは見ることができる。
少女は悲鳴をあげる綿幕楽をコンパス代わりに聖域の外側であろう方向に進み続けた。
湧いてくる悲しい気持ちを無視しつつ、少女は走り続けた。




