52葉 聖域からの脱走・下
もうどれだけ走っただろうか?
すでに綿幕楽の影は見えない。
徐々に呼吸が乱れてきたシカモア。
彼女は自分の犯したミスに気付き焦っていた。
神獣から垣根と呼ばれる霧の壁。
この長さを考慮していなかったのだ。
侵入時は方向が分からず彷徨っていたにも関わらず、横断できた。
あの時は霧のせいで正常な判断ができなくても生還できた。
万全の状態ならば、今回もうまくいくだろう。
そう勝手に思っていたのだ。
そして、それは完全に油断だった。
しかしシカモアは止まらない。
もう後戻りもできない。
里を守るために、敵がどれだけ強大でも、たった一人での戦いでも、私は生き抜いて見せる。
その決意を胸に、先の見えない濃霧の中を彼女は走り続ける。
杖を強く握る。
今、彼女にはこの状況を打破する魔法は思いつかない。
でも、母から託されたこの杖を握ると魔法など使わなくても元気が湧いてくる。
故郷が私を待っている。
視界は開けた。
星の明かりがここは霧の外だと教えてくれる。
灰黒の砂の地平は闇に溶けているが、夜目が利く少女にはくっきりと見えていた。
風に煽られ砂が舞う。
少女は思わず震える。
霧でびしょ濡れの体から砂漠の夜風は容赦なく体温を奪う。
咄嗟に綿幕楽の毛の編み物を羽織る。
しかし、こちらもびしょ濡れで風除けとして機能しなかった。
神域の温和な環境に慣れていた体が徐々に魔境の厳しさを思い出し震える。
脱走劇の本番はここからかもしれない。
編み物が吸っていた水を水筒に移しながら少女はそう感じた。
絞る前に【リルート】をかけて正解だった。
手で絞るだけで日干しした後のようにカラカラに絞ることに成功した。
急いで編み物を羽織ると顎に手を当てて思案する。
夜が明ける前にここで稼げるだけ物資を稼がなければ。
そして神獣に見つかる前に離れないと。
必死で計画を練る彼女は前方からやってくる影への警戒を怠っていた。
正確には、疲弊した脳が新たに問題が起こることを嫌い、無意識にその情報を拒絶していた。
影が自分に向かってきていると少女が気づいたときにはもう遅かった。
それは異様な姿だった。
最初は巨大なサソリに見えた。
その上にはヒトが乗っていた。
いや、ヒトの上半身が載っていた。
違う、ヒトの上半身がサソリから生えている。
まさに異形。
尋常ならざる相手であった。
「ごきげんよう、子猫ちゃん。尋ねたいことがあるので少しよろしくて?」
凛とした声で異形は声をかけてきた。
気品を感じる若い女性の声だ。
その言葉には有無を言わさぬ力強さがあった。
「貴方、その霧の中から出てきましたわね。お尋ねしますが、その中には一体何があるのかしら? もしかして、耳ざわな声で話す妖精がいませんこと?」
優しい口調が却って警戒心を煽る。
逃げ出したくなる気持ちを抑えてシカモアは声を絞り出す。
「妖精は・・・いませんでした。いたのは羊の頭を持つ大きな鳥です」
異形は不自然なほど美しく微笑む。
「子猫ちゃん、秘密や嘘は女性を美しく飾り立てますわ。ですが程度が低ければ、それは途端に下品で悪趣味なモノになり果てますの。ここにアイツがいないのは道理が通りませんわ。そう! 絶対にッ!」
やばい。
この異形からも夢婦屯と同じくらい強大な力を感じる。
まさか霧の外にも新たな神獣がいるなんて。
「黒竜の復活に加えて獣人の扇動、ですか。100年前と同じ手とはなんとも美しくない。霧に隠れてこそこそ何をしてるかと思えば・・・進歩がないとはこのことですわ」
異形の眼が鋭く光る。外骨格の下半身から生えた大きな鋏を高々と上げ、星明りを反射している。
その瞬間、少女は動いた。
「黒き日輪よ。立ちはだかるものを瞳を奪い給え。【シュトケプリ】」
飛び上がって魔法弾を放つ少女。
魔法弾は異形に着弾後、爆発を起こし周囲の星明りを根こそぎ奪う。
少女は反動と爆風で後方に飛ばされるが、その勢いに乗って姿勢を反転。
着地後に異形に背を向け逃げだした。走りながらも後方に左手を向ける少女。
「これで足止め。【シュトスピア】・・・あっ、しまった」
致命的なミス。
走りながら魔法を放つために、咄嗟に重心のブレが少ない杖のない手を使おうとした。
彼女は自分魔から法の力が失われていることを十分に理解しているつもりだった。
当然、何も起こらない。
動揺で力んでしまい、足が砂に掬われる。
少女は転んでしまった。
「あら、驚かせてしまったかしら、臆病で美しくない子猫ちゃん。でも、あの参謀気取り妖精の手先である以上、貴方を見逃すわけにはいきませんの。せめて来世は美しく生まれ変わってくださいね。心からお祈りしますわ」
魔法弾を受けても表情一つ変えない異形の女。
その微笑みを絶やさぬままに。
8本の足を鮮やかに操り、瞬時に距離を詰める。
恐怖で動けないシカモアの頭めがけてその鋏は振り下ろされた。
少女は死を感じた。
何も見えない。身動きもとれない。
不思議と温かくて、心地良い。
これは、この感覚は・・・以前感じたことがある?
「シカモアちゃん。勝手にいなくなっちゃダメ。心配したのよ。相談してって言ったでしょ」
そう。初めて夢婦屯の背に乗ったときだ。
シカモアは自分が死んでいないことに気付いた。
おそらく、神獣の綿毛に包まれているのだろう。
「貴方、何者ですの? ワタクシの邪魔をしてただで済むとお思いで?」
「この魂の感じ、蠍ちゃん?」
「その呼び方は美しくないですわ。ワタクシの女神様から頂いたこの体には誉美針という美しい精霊名が・・・あら。よく見れば貴方、お、牡羊ですの? 受肉にはまだ時間がかかるはずではなくて? どうしてそんなに魔素に満ちた肉体を?」
「そんなこと、今どうでもいい。私の友達を潰そうとした。私、怒ってる。とっても怒ってる」
激しい魔素の大渦。
シカモアにはそう感じ取れた。
ゴロゴロ、バチバチという音ともにその渦はより大きく激しくなっていく。
「お仕置き。<危寝具の接吻>」
稲光と雷鳴。
神獣の厚い毛越しにそれらが伝わってくる。
とんでもない破壊力を持っていることは容易に想像できる。
「ひぐっ。これはちょっと堪えますわね。い、いいでしょう。今日のところはこのくらいにしておいてやりますわ。牡羊、この霧の先で姫浜矢がまた美しくない図り事を企んでいるのは主見通しなのですからね。今度はこうは行きませんからね。それではごきげんよう」
「待ちなさい。私の精霊名は夢婦屯。夢で婦女子と屯すると書いて、夢婦屯・・・行っちゃった」
しばらく沈黙が辺りを包む。
少女は神獣の毛に抱かれたまま、どうしようかと考える。
現状を正しく把握できない。でも、動くこともできない。
悩んでいるうちに神獣はいつもの少女のような口調で話してきた。
「もしかしてシカモアちゃんって獣人なの?」
予想外の質問。思わず声が裏返る。
「はい? 見ての通り、そうですが・・・」
「そんな気はしてた。通りであの日からおかしいと思った。ということは、あの日の会話、寝たなんて嘘で聞いていたのね」
「・・・はい」
「ごめんね。怖い思いさせてしまってごめんね。大丈夫。この作戦であなたの仲間の血は流れない。あなたの里もなくならない。マヤちゃんはああいう物騒な言葉選びが好きなのよ」
神獣は悲しそうな声色でそう謝った。
シカモアは今の言葉から得られた情報を精査する。
思えば私たちの里ではこの神獣の伝承など一切聞いたことがない。
つまり、神獣からしても獣人は口伝でのみ伝わった存在なのだろうか。
つまり、私が獣人という認識がないから夢婦屯はあのような会話を私が聞いている傍でおこなったのだろう。
そもそも、冷静にあの時のことを思い返すと夢婦屯は侵攻に積極的ではなかったように思える。
結局私は奇跡という未知の力に恐れ戦いて疑心暗鬼になっていただけだったのだ。
少女の心は罪悪感で染まりつつも、考察を続ける。
後半の言葉の意味がわからない。
侵攻なのに血が流れない。
歴史書でそのような争いは読んだことはある。
直接的な武力衝突は避けつつも各国がこぞって神獣を国の守り神として奉り、国の魔法力を競い合った霊戦時代などが有名だ。
しかし、ここは人里離れた聖域。まして侵略先の隠れ里も世間的には滅んだとされる我々が細々と住んでいる痩せた土地。
政治的背景も経済的背景も見いだせない。
「シカモアちゃん、また顎に手を置いてるでしょ。考え事?」
思えば、神獣はいつも私にやさしかった。
そんな彼女を裏切り続けていた私はやるべきことがあると今更ながらに思い至った。
「神獣様。私は貴方がずっと私のことを気にかけてくれていたのに、その言葉を信じられず裏切ってしまいました。なんでも致しますのでどうかお許しください」
少女は綿毛を押しのけ、強引に頭を下げる。
ふいに圧迫感が消え、冷気が肌を刺す。
周囲が明るくなる。
「頭を上げて」
猫獣人の少女は神獣を見上げた。その顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「なんでもする、確かに聞いた。私、遠慮しないよ。いっぱいやってもらいたいことあるの。まずは・・・」
不安げなシカモアに対して夢婦屯はウインクする。
「お友達になりましょう。あと、神獣様じゃなくてユメちゃんって呼んで」




