第79話「血海」
天を駆け巡る雷鳴が轟く中、雷雨となって降り注ぐはずの雨の雫は一粒も落ちていなかった。
まるでそれは彼女の魔力に呼応し、風の精霊が稲妻を生み出し唸りをあげているかのようだ。僅かに駆け抜ける風に銀糸を揺らしリリーナ・シルフィリアは王宮の頂上を目指し歩いていた。
この時、彼女は普段着ている白いローブだった。フランから渡された賢者のローブでないのは、これから起こる惨劇にあの純白を汚すのを嫌ったからであろう。
リリーナの足が止まる。目の前に青白く光るのは魔法構成により形成された壁。
それは賢者の間への侵入を阻止する多重結界だ。かつては国王ですら許可を得なければ立ち入ることできない最後の砦。だがリリーナにとってはいとも容易く貫ける薄っぺらい魔法構成の集合体でしかない。
白魚のように美しい手をかざすと同時に結界は跡形もなく砕け散る。
ゆっくりとらせん状に渦を巻く階段を上った先でリリーナの瞳に映るのは、もがき苦しむかのように倒れる七人の老人だった。
その時、賢者の間で浮かび上がるのは、美しき少女の冷笑。
「……これがこの国の頂点に位置すると言われる七賢者か。こんな老いぼれが」
リリーナの氷のように冷たい声音に七賢者は反応しない。ただ雨に打たれる子犬のように打ちひしがれ震えているだけだ。
「お前達は魂吸収が失敗に終わっただけで即座に死ぬわけではない。このまま放っておけばいずれ命の蓄積を終え人として死ねることだろう」
刹那。雷鳴が轟く。
まるでリリーナの怒りを体現するかのように空間を震わせ、稲妻が降り注いだ。ランプも何もない部屋で雷光により浮かび上がるものは、殺意に濡れ青白く輝くサファイアの瞳。
「だが私はそれを許さない。法はお前達を守るだろう。天はお前達に味方などせずとも死は下さない。だが私がお前達を裁く。法? 人間の命の尊重? お前達のような人の皮を被ったくそったれな生き物をそれに委ねるものか!」
リリーナの手に握られるのは銀色に輝く短剣。雷鳴に照らされる刀身には狂気に彩られた彼女の瞳が映りこんだ。
「お前達は魔法では殺さない。命の蓄積が切れるまで何度でも突き殺してやる!」
鈍い光を放つ刃を掲げ、逆手に握りしめたリリーナが襲いかかる。
賢者の間を取り囲む白い壁に飛び散る赤黒い血。這いずり逃げ回る哀れな老人の背中を躊躇することなく刃を突き立てる少女が雷鳴に照らされた。
漂う鉄分の混じった血の匂い。リリーナの足元には無残に体を切り刻まれ絶命する七人の老人が転がっている。
血の海の中心で折れた短剣が乾いた音を立てて床へと落ちた。白いローブを紅に染め、リリーナは茫然と立っている。その海のように青い瞳は、澄んだ湖面とは言い難い濁りを有していた。
彼女の心に去来するものはただ底知れぬ虚無感だった。
復讐は果たした。それをケンウッドが望んでいようがいまいが、彼女の中で渦巻く憎悪はその矛先を捕まえ食らったはずだった。
だが何一つ変わりはしない。
こんな老いぼれ共を始末したところで、憎悪が晴れるわけでも達成感を得るわけでもない。
何のために自分はここまできたのか。幾多の屍を乗り越えたその先にあるのは光などではない。深淵の闇だ。
虚ろな瞳で暗闇を見据えるその時、彼女の鼓膜を震わすのは床を打つブーツの音だった。
肌に纏わりつく死の気配。階段を上り賢者の間へと足を踏み入れたのは、雷鳴に照らされる中、血のように赤く輝く紅玉を携えた死神。
「賢者の間への結界を解いてくれればそれでよかったんだけど、まさかすでに皆殺しにしてたなんてね。手間が省けたわ」
黒髪を優雅に揺らしシオン・デスサイズは、茫然とするリリーナの顔を覗き込む。無表情で人形のように身動き一つしない彼女は、濁ったサファイアの瞳で虚空を見据えたままだ。
「どう? この老いぼれ共を始末した気分は? 最高にゴミな人間どもを血の海に沈めた気分は? こいつらは賢者などではない。ただ命を吸うだけの人の皮を被った虫ケラよ」
冷酷な声音に彼女は反応しない。
シオンはそんなリリーナを見つめ口角をあげると右手に闇を凝縮させた。暗闇の中でもはっきり視認できるそれから生み出されるは巨大な刀身を持つ漆黒の大鎌。
鋭利な切っ先が空間を裂く。妖艶な輝きを放つ刃がリリーナの首元へ突き付けられた。
「それじゃ最後の締めといきましょうか。あなたには……死んでもらうわ。別に私怨があるわけでもない。ただあなたの首をぶら下げたその時にあの嘲笑を貼りつかせた女神がどんな顔をするのか、見てみたいのよ」
冷笑と共に柄を握る手に力を込める。
リリーナはシオンの言葉が届いていながらも身動きできずにいた。自らの存在意義を見失いかけていた。
――なぜ賢者を目指したのか。
屍の上を歩き、恩人を失い、敵国の何の罪もない人間達を灼熱地獄へと叩き落した。そしてたどり着いたこの場所は一面が血の海だ。
――七賢者を殺すために賢者を目指したのか。
闇がリリーナを包み込む。
だがその時、一条の光が彼女の心の闇を切り裂いた。揺れる美しい金糸に輝くエメラルドの瞳。それはリリーナが生まれてはじめて心の底から「友」と呼べる存在。
彼女の笑顔を脳裏に浮かべ、リリーナの唇が僅かに震える。
「……それじゃさようなら。神の子」
一閃。首元へ放たれた漆黒の斬撃を前にシオンの紅玉を青白く輝くサファイアの瞳が貫く。
「違う」
突如、吹き荒れるは魔力の奔流。
青白い暴威を纏ったリリーナから放出された膨大な魔力が、刃となってシオンの右腕を吹き飛ばした。
血と共に床へ大鎌が転がる音と共にリリーナの瞳に魔法構成が刻まれ、高速で流れていく。
「私がここにいる理由を思い出した。だからこそ死神。お前にこの命、くれてやるつもりはない!」




