第63話「闇の書」
かのヴェットシュピール戦での勝利により、ヴェルデ・シュトルツが国王となった百五十年後の王都アフトクラトラスはさらに発展を遂げていた。
ヴェルデは国王に即位後、外敵に対する防衛手段として巨大な魔力増幅魔法陣を設置した。それにより王都全体を強固な魔法障壁で覆い、外敵を排除するのである。
また王都への入り口となる東西南北の城門には、魔物やアンデッドを感知する結界が張られ、該当する者が通過した場合、即座に魔法使用者や王国騎士団が駆けつける仕組みとなっていた。
ヴェルデは当時、「国を守るために国民を守る」という趣旨の元、外敵に対する対策を進めていた。しかし守りが強固となるのは王都のみであり、近隣の村や街は対象ではないことに五大貴族から疑問の声が上がっていたのは事実である。
明らかにヴェルデは「王都のみを死守」していた。彼がもっとも恐れるものは近隣諸国などではなく、たった一人の女だったことは、ヴェルデと七賢者以外誰も知らない。
煉瓦造りの美しい街並み。行き交う人々。そして活気にあふれる商人達の声が耳に入り込む。
温かく柔らかな日差しの中、大きな街道をフランとリリーナを乗せた馬車が進んでいた。リリーナにしてみればこれほど巨大な都市を訪れるのははじめての経験だ。
しかし彼女に困惑した様子は見て取れない。流れ行く景色の中、通り過ぎる人々をただ黙って見つめていた。
王都には五大貴族の邸宅が存在する。
その一つ「エスペランス」の豪邸の前で馬車は動きを止めた。三角屋根が主だった街並みとは違う豪華な家屋の前に一人の男が立っている。
フランと同じ金髪に黒い礼服を着た男性だった。馬車から降りたフランを見るなり、彼の整った髭がピクリと動く。
「ただいま。お父様」
「わがまま娘の到着か。おかえりフラン。……ミッドヴィル。娘が世話をかけたな」
「ご主人様。いつものことでございます。ですが今回はフラン様のお遊びも無駄ではありませんでした。メルカトールにてミゼリコルドの使者より信書を預かっております」
「ミゼリコルドが信書を? それに今は理由は不明だがアイディールが王都への道を封鎖していたはずだ。こちらでも問い詰めたが一切、口を開こうとはしない。どうやってここまで?」
「魔風の峡谷を抜けてきました」
「魔風の峡谷だって!? どうやってあんな危険な場所を……」
驚愕したのか目を見開く男にフランが笑顔で語り掛ける。
「未来の賢者様に護衛いただいたのよ。お父様。紹介するわ。魔法使用者であり私の大切な友、リリーナよ」
フランの自らを呼ぶ声に反応し、彼女は馬車から降りた。
柔らかな日差しの下、光り輝く銀色の髪。そして海のように澄んだ青いサファイアの瞳を持つ美しい少女を見て、男は言葉を詰まらせた。
まさにそれは地上に舞い降りた創生の女神に他ならないからだ。
「リリーナ・シルフィリアです」
見惚れたかのように身動き一つしなかった男は、小鳥がさえずるかのごとく可憐な声音に突如、丁寧に礼の姿勢を取った。
「ようこそ王都へ。私はエスペランス当主トレラント・エスペランスです。娘フランがお世話になりました。ぜひ中でゆっくりお話しを聞かせてください」
リリーナは彼の反応が意外だった。
例え娘を護衛したとはいえ、リリーナは貴族でもなんでもないただの平民に過ぎない。五大貴族に属する者……それも当主自らがこれほど深く礼をするなど想像できなかったのだ。
「……私は貴族ではなくただの魔法使用者です。そんな私を見て怪しくは思わないのですか?」
正直にリリーナはそう疑問を投げかけた。それに対してトレラントは顔をあげると笑顔をみせる。
「何を言いますか。私の最愛の娘が『大切な友』と申したのです。そんな方を冷たくあしらうなど私にはできません」
リリーナは少し驚いた様子で一瞬、フランへ視線を移すが、彼女が微笑み返すのを見て静かにうなずいた。
少なからずここには、世界で一人しかいない銀色の髪を蔑む者も、リリーナの内側に潜む破壊の女神を引き出す敵対者もいない。
彼女はトレラント・エスペランスに笑顔を見せると、ゆっくりと一歩を踏み出した。
美しいシャンデリア。装飾された家具。そして付き従う侍女達。
リリーナが足を踏み入れたそこは華やかな貴族が住む場所。彼女が育った質素な生活とはまったく違う世界だ。白いクロスが敷かれたテーブルを囲むフランとトレラントをリリーナは黙って見つめていた。
しかし彼女の瞳に映るそれは、楽しく会話する父と娘だ。リリーナはその光景に自分とケンウッドの姿を重ねた。確かに住む世界は違う。だがそこで生きる人間は同じだ。
脳裏をよぎるケンウッドの笑顔に一抹の寂しさが込み上げながらも、フランとトレラントが醸し出す温かな空気をリリーナは感じていた。
だが事態は一変する。それはあの信書をトレラントが目を通した瞬間だった。
多重の結界が張られていた信書だが、リリーナは許可を得てそれを素早く解除してみせた。そのことに驚いた様子のトレラントだったが、信書を見た彼の表情は驚愕を通り越し真剣みを帯びた眼光を携えていた。
まるでそれは信書そのものが徴兵令であるかのように。赴けば死ぬ戦地へと鎖で繋がれた一人の男が醸し出す張りつめた空気が漂う。
あまりの豹変ぶりに、フランが心配そうにトレラントの顔を覗き込んだ。
「……お父様?」
「フラン。お前はリリーナさんを連れて王都を案内してあげなさい。私は急用ができた」
「急用ってなんですの?」
「今は言えない。そして私を絶対に追ってはいけない。いいね?」
瞬きさえせず目を見開いた彼に不安を覚えたのかフランは、陰りのある表情を浮かべすぐには首を縦には振らなかった。そしてそれはリリーナも同様である。
胸を締め付けるような不安。言いしれぬ恐怖に似たどす黒い暗雲が彼女を包み込む。
リリーナは思い切って前に歩み出た。
「トレラント様。私が護衛を」
「必要ない。君はフランと王都を愉しみたまえ」
まるで他の人間を締め出すかのような冷たい声音を口から発し、トレラントは部屋を後にする。
リリーナはその背中に濃密な闇を見ていた。まるで死神が憑りついているかのような死の気配を感じていた。
王都アフトクラトラスの中央には白き王宮が鎮座していた。
その頂きには重厚な結界に守られた一室が存在する。国王しか通ることが許されない聖域。それは七賢者が鎮座する「賢者の間」である。
王都を一望できるその部屋に円形状のテーブルが置かれ、純白のローブを着た老人が七人、椅子に腰かけていた。彼らの前で膝を折るのは豪華な法衣に身を包んだ現国王、ヴェルデ・シュトルツである。
「例の信書はエスペランスに渡ったか。王都への道をアイディールに封鎖させたがどうやら魔風の峡谷を抜けたようだ」
「峡谷の竜を仕留めるほどの手練れを雇ったか。何にせよエスペランスは何とかせねばなるまい。このままでは計画の進行に支障が出るぞ?」
「わかっておるな? 剣王よ。そろそろ命の期限も近い。蓄積が残り少なくなった今、新たな火種を生まねばならない」
「……はい。すでに手を打っております」
王冠の元に浮かび上がるヴェルデの顔は百五十年前と何一つ変わっていない。彫りの深い顔に猛禽類を思わせる鋭い眼光を携え、ヴェルデは立ち上がる。
「信書を手にしたエスペランス家当主トレラント・エスペランスを殺します」




