第62話「神々の怒り」
魔風の峡谷。そこはエスペランス領とアイディール領を繋ぐ地点に存在する、断崖絶壁が連なる深い峡谷である。
魔風という名がつく通り、常に強風が吹き荒れる場所だ。また、その峡谷には主が存在すると言われていた。
それは巨大な竜である。峡谷を吹き抜ける風に乗って常に飛び続ける竜は、この場所へ訪れる者を襲い喰らうという。
本来であればよほどの命知らずでなければ滅多に通らない危険地帯。そこを一台の馬車が蹄を大地に打ち付けていた。
二頭の馬の手綱を締めるはエスペランス家執事ミッドヴィル。後ろに乗るのはエスペランス家令嬢フラン・エスペランス。そして魔法使用者リリーナ・シルフィリアである。
リリーナの提案を呑み、最も近道である<魔風の峡谷>を通ることを決めたフランは、時より不安げな表情を見せ外の景色へと視線を移す。
強風が吹き荒れ、風の音に混じり時より咆哮のような響きが鼓膜を震わす。下を見れば底が見えない断崖絶壁。不安にならないほうがおかしい状況だ。
だが目の前に座るリリーナは、いたって冷静沈着で小柄な体で抱え込むように本を読んでいた。
馬車を駆るミッドヴィルは、周囲を警戒しながらも馬を巧みに操り狭い道を駆け抜けていた。
唯一、風を直に感じている彼のみ異変に気が付いていたことだろう。それは吹き荒れる強風がまるでこの馬車のみ避けるかのように吹き抜けているからだ。それゆえ走行にはまったく支障が出ていない。馬も落ち着いていた。
本来、あり得ないこの現象はミッドヴィルには到底、理解できないことであろう。後ろに座るリリーナが風の精霊を制御して成し得ているという事実など想像すらできなかったに違いない。
何事もなく過ぎ去っていく景色にフランがほっと胸をなで下ろしたその時だった。
耳障りな不協和音と共に峡谷の風に乗り、何十匹という小型の翼竜がエメラルドの瞳に映りこむ。トカゲのような頭に腕と同化した翼を羽ばたかせるそれはリトルワイバーンと呼ばれ、人を襲い喰らう魔獣だ。
ミッドヴィルが声を張り上げる。
「リトルワイバーン接近!」
「大丈夫。もう手は打ってある」
馬車の中から聞こえる冷静な声音を合図とし、周辺を炎が駆け抜ける。空中で爆ぜた爆炎は連鎖するかのように馬車の周りを埋め尽くし、急降下してくる翼竜をことごとく焼き尽くした。
断末魔の叫び声と共に谷底へと落ちていく骸を見つめ、ミッドヴィルは驚愕したかのように目を見開く。
上位精霊魔法・連鎖爆撃弾
それは言わば不可視の爆弾である。空中地中どこでも設置可能で触れた対象を爆風と炎で破壊する殺傷性能の高い魔法だ。
ミッドヴィルが驚くのも無理はない。扱いの難しい上位魔法をいとも容易く、さらに仕掛けたことすらわからないほど迅速に行使するなど、並大抵の魔法使用者ではないことの証だからだ。
運よく爆炎から逃れたリトルワイバーンが散り散りとなって飛び去っていく。
それを見て安堵するフランとは対照的に、怪訝な表情を浮かべ小首を傾げたのはリリーナだった。「おかしい」という彼女の言葉にフランがエメラルドの瞳を向ける。
「魔獣は逃げ去りましたわ。何か問題でも?」
「リトルワイバーンは比較的、知能が高く敵わない相手だと知ると逃げることもいとわない。だけど早すぎる」
その瞬間、鼓膜を震わすのは腹底に響く咆哮。地響きにも似たそれを耳にしてリリーナの瞳に鋭さが宿る。
「……何かくる」
彼女の言葉を皮切りに馬車を震わすのは竜の咆哮。
巨大な峡谷の間隙を縫って、白く巨大な竜の頭がフラン達の視界に入り込む。それは目の前にいる矮小な生き物を喰らうべく、馬車を一飲みできるほどの巨大な口を開けた。
峡谷の中を飛ぶために体が細長く、ごつごつとした表皮を持つ岩肌の巨竜。それは連鎖爆撃弾の火炎をもろともせず馬車へと迫る。
「ミッドヴィルッ! ダッシュッ!」
「はいぃぃ!」
目を見開き突如、人が変わったかのように声を張り上げたフランの怒号に、ミッドヴィルが雷に打たれたかのように体を震わした。
加速する馬車を巨竜が追う。しかし決して走りやすい道ではない。それゆえ速度が出ず、岩肌を持つ巨大な口がみるみるうちに馬車へと距離を詰めてくる。
耳に響くは呼吸音。
竜が大きく息を吸い込むと同時に牙の隙間から赤く炎が煌めく。その瞬間、膨大な熱を伴った火炎が馬車目がけて吐き出された。
人など一瞬で消し炭と化す猛火が襲うその時、見つめるリリーナの瞳が青白く輝く。
刹那、灼熱の炎は馬車を中心に分かれ、虚空へと消えていく。熱により揺らぐ空間に浮かび上がるは魔法障壁だ。
しかし、竜のブレスすらもろともしない強固な障壁に守られながらも、馬車の先頭からミッドヴィルの叫び声が轟く。
「ぎゃああああ! 死ぬうううう!」
咆哮に負けず劣らず響き渡る醜い男の悲鳴を耳にして、無言でフランが腰をあげる。
馬車から腕を出しミッドヴィルの首元を握りしめると、人が変わったかのような怒声を響かせた。
「男のくせにピーピーうるせぇんだよミッドヴィルッ! 竜に喰われるか私に股間蹴りつぶされるか、どっちがいいんだ!? あぁ!?」
「どっちもいやぁああああああ!」
「だったらとっととあのクソ竜を引き離せ! さもないと首の骨へし折るぞ! この筋肉ダルマ野郎!」
「ぎゃあああ! やっぱ死ぬうううう!」
普段の気品あふれる令嬢とは思えないフランの豹変ぶりに苦笑しながら、リリーナは竜を見据えた。
あの火炎でも彼女の障壁を破れはしない。しかし馬車は守れても道は守れない。このまま竜が猛攻を繰り返したら、馬車そのものが崩れた道と共に崖下へ落下しかねない。
リリーナは意を決したかのようにすっと立ち上がる。
「……この竜を倒す」
その瞬間、目を見開いたフランがリリーナの胸倉を掴み激しく揺らした。
「無理無理無理無理だって! どう考えたって無理だろ!? あんなんどうやって倒すんだよ!?」
眉間に皺を寄せ、激しく声を張り上げるフランだが、そのエメラルドの瞳に映るリリーナの表情にピタリと動きを止めた。
微笑み。この状況でリリーナは彼女に優しい笑顔を見せていた。
「大丈夫だよ。フラン。言ったでしょ? そのために私がいる」
ゆっくりとフランの手が離れていく。
リリーナは彼女からそっと離れると馬車の後ろの窓を開けた。吹き抜ける風に銀色の髪をなびかせ、リリーナの足が短くトントンと馬車の床を打つ。
「三重・魔力増幅魔法陣、展開」
彼女の体が青白い光に包まれる。
その足元に浮かび上がるは、幾重にも折り重なった使用者の魔力を増幅させる魔法陣。そして展開と同時に巻き起こるは、峡谷を吹き抜けるものとは別の異質な青い風。
それはリリーナを中心に周辺にほとばしった。
「……なんだよこれ……!?」
「魔法風です! 極大魔法を放つ際に術者を守る特殊な風です。実際に目にするのは私もはじめてです!」
素早く後ろを確認したミッドヴィルが声をあげた。
魔法風に包まれながらリリーナの鋭く輝くサファイアの瞳が、巨竜を貫く。
「お前は悪くない。ここはお前の住み家。侵入したのは私達だ。だが私もここにいる者達も死ぬわけにはいかない。お前にはここで……死んでもらう」
リリーナの体から放出される膨大な魔力が掲げた左手に収束していく。そこに渦巻くは青き魔力の奔流。
詠唱の余韻もなく、それにとって代わり響くのは天の鳴動。竜の頭上に雷鳴と共に光の亀裂が駆け巡った。それと同時に青白く輝くリリーナの瞳に魔法の文字が高速で刻まれていく。
竜言語。口による詠唱ではなく、脳内における超高速詠唱。瞳に映るそれは魔法構成が彼女の脳内で紡がれることにより浮かび上がるのである。
まるで目の前の小さき女神に恐れおののくかのように、一際大きな竜の咆哮が響き渡った。
それを切り裂くは、リリーナの唇から紡がれる美しくも残酷な旋律。
「最上位精霊魔法・神々の怒り」
轟くは神の怒りを思わせる轟雷。
大地を揺さぶり眩い光と共に、天より降り注いだ巨大な雷が岩肌の竜を貫く。断末魔の咆哮を上げ、体を黒く焦がし煙を立ち昇らせる巨竜は、谷底へと落ちていった。
轟雷のあまりのすさまじさに絶句し、フランが床にペタンと座り込む。ミッドヴィルに至っては開いた口が塞がらない様子で固まっていた。
彼女達とは対照的にリリーナは、静かに死にゆく巨竜へ目を閉じた。
その後、無事、魔風の峡谷を抜けたリリーナとフランは近くの街で休憩した後、王都へ馬を走らせた。
はるか地平線の果てに徐々に見えてくるのは、巨大な城壁。
白き王宮がそびえ、国王と七賢者が座す王都アフトクラトラスである。




