八、儀式
それが現城主のフェルダン伯爵の時代につくられたのか、それとも古くから代々隠されて存在していたのか、知る者はいない。最下層と思われた地下倉庫よりさらに隠し階段をくだり、入り組んだ通路を歩くこと一〇分、黒塗りの扉へたどりついた。
ブラディはごく自然に扉を開く。
かしずく魔女に一瞥すらあたえず、ハーツは『暴風』を手に部屋へと進む。
深く潜っただけはある。高い天井からは不気味な燭台が垂れさがり、淡い炎を揺らめかせている。四方の壁には装飾のない円柱が立ち並び、中心の黒い祭壇を睨んでいた。
祭壇には一人の女が、一糸まとわぬまま十字に寝かされていた。さるぐつわをかまされ、手足は鎖で固定されている。激しくもがいているので生きてはいるようだ。ハーツは近づいて、女の顔を眺めた。
「ディーンの小娘じゃねーか」
ミレイユもハーツの顔を見て、眼を見開き、うなり声をあげた。
ハーツの背後に寄りそっていたブラディが説明する。
「その女は生け贄となるのです」
「生け贄だァ? 何をしようってんだ?」
「ハーツ様にさらなる力を与え、大陸を統べる王となっていただくのです」
「ハァ? だれがそんなもんになりてーと言ったんだよ」
ハーツのこめかみに、憤りをしめす予兆が現れた。ブラディは彼をなだめようと口を開きかけたが、別の声が彼女を制した。
「お前が望もうと望むまいと、これは決められたことなのだ」
「現れやがったな、アーリマン。この間の借りを返しにきたぜ」
奥の扉より姿を見せた男へ、ハーツは『暴風』をむけた。
「まだこの父に刃向かうというのか」
この言葉の衝撃は、ミレイユと、ようやく追いついたソゥルの胸を大きく弾かせた。
『災厄』ハーツの父親!
ミレイユは彼の経歴を心得ている。ハーツの父はコートベルト・マイストで、妻であるシャルレットの実家サザーハント家に仕えた騎士であるはずだ。アーリマンという名前は、記録には一切残されてはいなかった。
一方、ソゥルの心境から言えば、大陸を手にしようとする魔物がまさか最強最悪の賞金首の父親などとは思いもつかなかった。反面、ハーツの尋常ならざる強さに納得もできる。
「テメェを父親と認めた覚えはねェ。親らしいことなどしてもないヤツが、ふざけんな!」
「ずいぶんと甘えたことを言う。やはり半分は人間か」
「甘えてるだとォ?」
「違うのか? 人間の感情というものを長く研究してきたが、人間はとかく『愛情』と呼ばれるものを欲するそうだ。動物が種の保存のために子を守るのはままあることだが、成長してのちまで助けようとはしない。親に加護を求めるなどありえない。人間と一部妖精人だけが、産まれてより死ぬまで、親もしくは別個体に『愛情』という名の守護を求め、またそれに応えようとする。ハーツ、お前もその業からは逃れられないようだな」
「……つまり何か? オレは『愛情』に飢えたガキだと言いてーのか?」
アーリマンは無言をもってハーツの質問を肯定していた。魔物には人間のような思考はない。産み落とされた後は、たった独りで闘い、生き抜いていくのが当然だ。『愛情』だとか『甘える』だとか、生きる上で不必要なものに思いをはせるヒマはない。彼らが別個体と交わるのも、快楽か、種の保存が目的だからである。
アーリマンと呼ばれる男の語りぐさから、ミレイユは二つ気づいた。一つは、アーリマン自身は人間ではなく、従って魔物と認定される存在であること。次に、ハーツは『愛情』、もしくは健全な両親を欲しているのではないかと推測されること。
『災厄』ハーツは産まれてすぐに母親を亡くしている。この時点で、母性という『愛情』を物心つく前に得られなくなっている。さらに二歳で父親――コートベルト――と死別し、四歳で祖父が他界。残された親族には財産を奪われ、孤児院送りにされた。心が芽生えはじめるもっとも大切な時期に、彼は『愛情』と無縁になってしまったのだ。その後も良き理解者にめぐり逢えず、彼を愛する者もいない孤独のなかで、彼は己の力だけを頼りに生きてきた。彼はただ欲しかったのかも知れない。何気ない純粋な加護、『愛情』というものを……
「テメェ、なに泣いてやがる」
ハーツの憎しみに満ちた眼が、ミレイユを射抜いた。
「涙が出るほどおもしれェか? ああ、何とか言ってみろよ!」
ハーツの手が伸び、彼女のさるぐつわをむしりとる。ミレイユは何も言えなかった。彼女自身、信じられなかったが、いつまにか殺人鬼に同情していた。賞金首をとりしまる自分が、情にほだされてしまった。光と法を護る騎士団にとって恥辱であった。
(違う。そんなのは恥でもなんでもない。わたしはただ、哀しかった。だから……)
娘の心情を、ハーツに理解できるわけがなかった。理解しようとも思わなかった。ゆえに黙って顔を背ける彼女に罵声を浴びせるのが、ハーツの限界であった。
「どいつもこいつも! ……愛情に飢えてる? ああ、そうさ、勝手にそう思えばいい!」
母親はどこのだれとも知れぬ男に強姦され、子供を身ごもり、祖父は体面のために適当な男をあてがって結婚させ、さもその男の子供のようにふれまわった。母親は子供を見るたびに鬱となり、あげくはおかしくなって薬物に走って廃人となって死んだ。祖父は祖父で、大貴族の面目から外では孫をかわいがり、誰もいないところで思考力もない赤子をののしり続けた。それでも孫に家督を継がせようと思えば、仮の父親は秘密をばらすと祖父を脅して、逆に戦場へ送りこまれ、戦闘のドサクサに後ろから祖父の刺客に殺された。最後にはその祖父も弟の養子に毒殺され、財産をすべて奪われた。残された子供は『運良く』施設へ預けられ、人殺しとなり、現在にいたる……
「それが愛情にあふれたハーツ様の家族よ! どうだ、笑えよ! 作り話でもこんなデタラメはねぇぞ。……ほら、女ァ、笑えよ! 笑えってんだよ!」
ミレイユのアゴをつかみ、ムリヤリ自分の瞳を覗きこませるハーツ。憎悪しかうごめかない彼の瞳を、彼女は直視できなかった。
「……なんで、そんなこと知ってるの? わたしの調査では、そんな話でていないわ」
ミレイユの質問は、ハーツの眼から逃れる方便だった。
「直接聞いたのさ、オレを施設に送ったヤツからな」
「アウディ・サザーハント男爵から?」
「そうよ。傭兵時代にサザーハント領へ行ったとき、感動の再会ついでにな」
「まさか、男爵を殺したのは……」
「そう、このオレだ」
ソゥルは扉の陰に隠れ、若い女性とハーツのやりとりを聞いていた。まさかとは思ったのだが、祭壇に縛りつけられているのは、まぎれもなくミレイユ・ライナーのようだ。なぜ彼女がこんなところにいて、しかも生け贄になどされているのか理解できずにいたが、現実がこうである以上、ソゥルはハーツとアーリマンを倒し、彼女を救出せねばならなかった。しかし、事は容易でないだけに、彼は今しばらく様子をみる選択をした。
「なるほど」アーリマンは北側の玉座についた。
「吾を怨むのは、まともな人生を歩めなかった責任が、吾にあると考えているからか」
母親を強姦し、自分を身ごもらせた男に、ハーツは視線を戻した。
「さぁな、どう産まれるかは選べねぇが、どう育つかはそいつしだいだろ。人間だろうが魔物だろうが、醜い心ってのはあるもんだ。オレはそれを否定しようとは思わねぇ」
「では、なぜ吾を憎む?」
「決まってるだろ、気にくわねーからだ」
家族や自身の不幸な生い立ちを除外しても、アーリマンへの生理的嫌悪感は消せなかった。ハーツにとっては、『キライだから』というだけで殺害する立派な動機になった。もしあえて理由をつけるならば、彼の望む自由を奪う存在だと感じたからだろう。
「殺す前に一つ訊いてやる。なぜ、今になって現れやがった?」
「すべては計画ゆえ」
「オレに大陸を征服させるのがか?」
アーリマンはしばしの沈黙を挟んだ。
「……現在の魔のモノは、魔界でなければ真の力をだせぬ。長く人界に留まるには大量の魔力を必要とする。吾とても例外ではない。ここフェルダンと呼ばれる地には『道』を開き、魔界に近い領域を造ってはいるが充分ではないのだ。ゆえに儀式を執り行い、お前に真なる『魔』の力を与え、大陸中に『魔界への道』を開いてもらう。多くの『道』ができれば点は線となり、面となる。大陸は魔界の一部となるのだ」
「ごたいそうな計画だが、結局、オレを利用しようってだけじゃねーか」
「そう、そのために吾はお前の母を姦し、人との間に子をつくった。魔界でも人界でも戦える駒を手に入れるために」
「……フン、ようやく本音がでたか。オレはテメェの道具だってな」
「ならば、お前もまた吾を利用すればよかよう。大陸が征服され魔界の一部となったのち、吾に勝てると思うなら殺すがよい。そして魔界をも握ってみろ。もとより魔物には親子の情などない。強き者がすべてを手にいれる権利を持つのだ。お前の望む自由とは、そうしたものであろう」
アーリマンの提案はハーツの意表をついたが、彼の胸は昂揚していた。やることは今までと変わらない。好きに生きて、気に入らない者をぶち殺し、面倒だが領地などを持ってみる。それが広がりきったとき、何者をも凌駕する力を身につけているのは疑いない。すべてを手に入れ、邪魔者を始末する。それはなんと甘美で心躍る未来図であろうか。ただ、一時的にでもアーリマンの手を握らねばならないのが気にくわないが……
ハーツは究極の自由とアーリマンへの反感を天秤にかけて思案したが、やがて大刀を背中に戻した。
「……いいぜ、しばらく戯言につきあってやる」
ハーツの笑みに、アーリマンとブラディのうなずきが応えた。
「ではこれを」ブラディはひざまずき、紅い短剣をハーツに差し出した。
「これより儀式をはじめます。私が指示いたしましたら、生け贄の胸に短剣を突き立ててください」
それまで黙って聞いていた生け贄が、青ざめて猛烈に反対意見を述べた。
「待ちなさい! 誰が生け贄になんてなるもんですか。この鎖を外しなさい!」
「あのねぇ、お嬢ちゃん? 生け贄には生け贄の立場ってものがあるの。おとなしく殺されてくれないと、生け贄にならないわけ。わかるでしょ?」
「生け贄の定義なんて聞いてない! だいたいこんな目にあわせるなら、なんで船で助けたの!」
ブラディのあからさまに芝居がかった呆れ顔が、ミレイユをさらに憤慨させた。
「言ったでしょ、助けたワケじゃないって。あのときからこうしようと決めてたの。だから貞操を守ってあげたのよ。生け贄には処女って決まりがあって、それも正義感と信仰心が強いほどいいの。おわかり?」
「そ、そんなの誰が決めたのよ!」
別の意味で赤面しながら、ミレイユはブラディに食ってかかった。すでに主題から外れているのに彼女は気づいていない。
「さぁね、そんなのは誰でもいいわ。慣例を破って失敗するよりはいいんじゃない?」
危うくミレイユは「たしかにそうね」とうなずくところであった。あわてて首をふり反論しようとしたが、ブラディは儀式の準備のため、手を振って彼女の視界から消えた。
かわってハーツが短剣をもてあそびつつミレイユを覗きこんだ。
「残念だったな。あのとき姦られてりゃ、死ぬことはなかったかもな」
「あなたに強姦されるくらいなら、生け贄のがマシだわ! あなたは父親と同じ、ただの魔物よ。人の心すら持たないから誰からも愛されないのよ」
「ンだとォ……!」
「あなたのしてきたことと、あの魔物の父親と、どう違うというの? 弁明できるならしてみなさい!」
「テメェ、ぶっ殺す!」
ハーツは短剣を掲げ、振り下ろそうとした。
「ダメです!」ブラディが間一髪、ハーツの右腕をおさえた。
「儀式がはじまれば殺せます。それまで我慢をなさってください」
ハーツは沸騰する血液を呼吸によって冷却し、短剣をさげた。
「……フン、結局おまえは神の加護もなく、ここで惨めに死ぬのさ」
「そうね、わたしは死ぬ。それも幸せと正反対の死にかたをするんだわ」
「わかってるじゃねーか」
「それでもやっぱり、わたしは信仰を捨てない。捨ててしまったら、それまでの幸せすら否定してしまうことになる。だからわたしは、最後まで神に祈るわ」
ハーツのこめかみが再び脈打った。同時に平手がミレイユの頬に走る。
「神になんぞすがるんじゃねぇ! 神はいねーんだよ!」
「わたしはいると信じる。たとえどんなことがあろうと、わたしは信仰をやめない」
ハーツは反対側の頬を張った。ミレイユの口から、少量の血が流れた。
ブラディは男の暴走をおさえようとするが、力ではかなわず、三度目の平手が飛ぶ。
「どうだ? テメェが神を信じるたびに傷が増えていくんだぜ。信仰なんぞ助けにはならねぇ、神はいないと言いやがれ!」
「……あなたが船で話していた女性って、母親のことだったのね」
ハーツの腕がとまった。
「母親が不幸な目にあい、死んでいったから、あなたは神を否定している。そうでしょ?」
「ち、ちが……」
「神がいるなら、なぜ母親は強姦されたのか、なぜ魔物の子を産んでしまったのか、なぜ救いはなかったのか――それが許せなかったのね」
「黙れ!」ハーツは今までより強くミレイユを叩いた。しかし彼女は、ハーツの瞳を凝視し続けた。
「そしてあなたは、自分さえも憎んでいる。母親を苦しめた自分の存在が、なによりも許せないでいる。自分が産まれなければ――」
「いいかげんにしな!」逆上してミレイユの口をふさいだのは、ハーツではなくブラディだった。あらためてさるぐつわを噛ませ、呻り声をあげる彼女に電撃の魔法をあびせた。
「ハーツ、冷静になりなさい。こういう女がいるから、人間の世界はダメになっていくのよ。だからこそあなたが世界を破壊するの」
「そうだ……。神なんぞいねぇと、バカな人間どもに教えこんでやる!」
ブラディは内心で安堵し、アーリマンに頭をさげた。魔界六頭目の一人は、人間の思考と心情を楽しげに観察していた。ハーツの未熟さを、内心で嘲笑いながら。
ソゥルは飛び出すタイミングを、儀式とやらに全員が集中しているときと決めていた。それだけにミレイユの挑発ともとれる言動は、彼をかなり青ざめさせていた。ハーツのように衝動で人を殺してしまう人間に対して彼女は迂闊であり、敬虔な信徒もよいが少しは考えてくれよ、と言いたくもあった。「まぁ、それがミレイユのいいところなんだがな」とは、本人を前に言えない感想である。
出番が近いとみてソゥルは金剛尖刀を引き抜き、いつでも戦える準備を整えた。
ぐったりとしているミレイユを見下ろし、アーリマンは不可解な呪文の詠唱を繰り返した。用意された燭台の炎がときおり大きく爆ぜ、色を変えて揺らめいている。彼が呪文を一周させるたびに生け贄の上空に小さな光珠が現れ、輪を描いて漂った。
その間、ブラディは生け贄に血で文字をかきこみ、一定のリズムでアーリマンと呪文を重ねている。まるで歌っているように聞こえるのは、呪文とは本来、呼吸法を表した言葉の羅列であるという説の証明とも感じられた。
独り、ハーツは役目を与えられず生け贄にトドメをさすまでの時間を待った。
アーリマンの呪文によるものか、ミレイユの白い肌には汗がふきだしていた。疲労からか、眼もあけられずに呻いている。その様子が何とも艶っぽくみえたのは、魔界暮らしのためにしばらく禁欲を強いられたからであろうか。
あらためて全身を眺めてみる。肉つきはあまりよくない。胸も尻も彼の好みからは遠かった。スタイルは年齢的な影響もあるだろうが、そのぶん肌は美しく、弾力も悪くない。
「ハーツ様、もうじき終了します。準備を……」
「ああ」背後からの声にハーツは短剣を抜き、祭壇の真横に立った。
ミレイユはやはり呻くだけだったが、うっすらと眼を開け、ハーツのほうへ首を傾けた。
「なんだ、この期におよんで何か言いてーのか?」
ゆっくりとうなずくのを、ハーツはめんどくさげに見ていた。
言葉らしきものをもらし、訴えかけるような瞳を受け、『災厄』は興味がわいた。殺される間際になって、ついに心折れ神を否定するのか、それとも加護を求める祈りをつぶやくのか、もしくは恨み言を残して死んでいくのか――どれでも好きなのを選ばせてやる。この手で殺すのだから何を言われても堪えるものではない。
ハーツはまたもさるぐつわを引きちぎった。ブラディが眉根をよせていたが、注意も文句もでなかった。
「最期の言葉、聞いてやるぜ」
嘲るハーツに、予想もしなかった言葉をミレイユは捧げた。
「ありがとう。大地と豊饒の女神の加護が、あなたにあるように」
「!」ハーツは絶句した。冷めた憤りが充満するのを待って、「テメェ、どういうつもりだ?」と、生け贄を睨んだ。
「あなたの罪は、大きすぎる。いつか絶対に罪科にともなう罰を受けるわ。でも、一人くらい、あなたに祝福をあげてもいいんじゃないかって。それがわたしの信じる神様の教えだから……」
「誰がそんなモンいるかァ!」
ハーツが怒鳴ったのは、憤りよりも、むしろとまどいの色が濃い。
ミレイユは苦しみのなかで微笑した。
「わたしはわたしの信じたものに誇りを持って死んでいくわ。くやしいけど、最高の生け贄の条件よね」
「ああそうだ。痛覚をもって産まれたのを後悔させてやる。悶え苦しんで死ね」
彼女は苦笑いしたつもりだったが、外見上はうまく表現できていなかったようだ。徐々に力が抜けていくのがわかる。あわよくば覚えたての〈聖楯〉を使って打開しようと思ったのだが、どうやら魔力をひねり出す余裕もなかった。
「……そうだ、一つだけ、言い忘れてた」
「チ、まだ戯言をつづける気か?」
「あなたの母親は、正真正銘、病死よ。薬物中毒で廃人となって死んだんじゃないわ」
「ウソをつくんじゃねェ!」
ハーツは今度こそ怒りに叫んだ。ミレイユの細い首を握りしめ、感情にまかせてへし折ろうとすらしていた。
「ウソ…じゃない…わ……。診断書も、残ってる……」
「それは貴族の娘が、廃人で死んだなどと公表できねーからだろうがっ」
「葬儀の参列者は、遺体に花を添えたそうよ……。それこそ大貴族が、廃人となって死んだ姿を、外部にさらすと思って?」
「ウソを、つくなァ!」
「そう思うなら、それでいいわ……。あなたが何を信じようと、あなたの自由よ……」
ハーツの手に、力がこもらなくなった。彼女の言葉を信じたわけではないが、動揺はある。もしその調べが真実だったなら、今まで信じてきたものがウソであったなら――
どうする、という思考まで、ハーツは進めなかった。突然轟音が響き、ミレイユを見下ろしていた光球が激しく乱舞し、魔力の奔流が目に見えてうねりはじめた。
「ハーツ様、呪文は完成いたしました。生け贄の胸に短剣を!」
脇に立つブラディが、疲労の混じった大声でハーツをうながした。
現在まで千人を越える人間を殺め、最高賞金首にまでなった黒い『災厄』は、逆手に紅の短剣を握りしめ、高々と掲げた。
ソゥルは物陰から飛び出し、猛然と祭壇めがけて走った。
背を向けて立つハーツと、ブラディと呼ばれる魔女、離れた位置で儀式をとりしきるアーリマン。いずれもディーン騎士団捜査官が現れたのに気づいていなかった。
「まずはハーツを……!」つぶやく彼の手中で金剛尖刀に光があふれ、ソゥルの魔力を吸って伸びていく。あとほんの五歩で、射程圏内であった。
「貫け!」
右腕が一直線に走る。ハーツの黒装束の、ちょうど中心に狙いは定められていた。背負われた『暴風』が邪魔ではあったが、急所をつくのは難しくない。彼は命中を確信した。
「ダメよ、邪魔しちゃ」
さりげない動作でブラディの左手が揺れた瞬間、ソゥルの光槍は、まばゆい魔力の塊に阻まれた。
「普通の人間にしてはできるほうね」
「クソ!」
ソゥルの左手が動く。しかしブラディは軽く腕を振り、見えない力で彼を弾き飛ばした。
鈍痛が背中を二度駆け抜け、呼吸が数秒とまった。痛みに耐えてすぐに上体を起こし、再びアタックをかけようとする。
「おとなしくなさい」
ブラディの指がしなやかに彼をさす。「〈縛〉」というつぶやきとともに、捜査官の身体は硬直した。言葉さえ出せないほどの強力な呪縛に、ミレイユへ呼びかけることもかなわず、彼の敗北感は絶望へと急速に変化していった。
「そこでおとなしく儀式を眺めていなさい。終わったら真っ先に殺してあげるわ。……ハーツ様、邪魔者はおさえました。どうぞ仕上げを」
笑みをうかべてお辞儀をするブラディを、ハーツは気にもとめなかった。祭壇で苦しげに呻くミレイユを無感動に見下ろしながら、何かを思案していた。
「どうされたのです、ハーツ様?」
ブラディの再度の勧めにも、ハーツの腕は天井をむいたまま微動だにしなかった。
「苦しむ者を楽に殺してあげるのが、あなた様の善意のはず。その娘もそれこそを待っていますよ」
「……そうだったな。思い出したぜ」
「では、トドメを……」
恭しく頭を下げるブラディに、「そうじゃねーよ」と彼は短剣を振り下ろした。
ガキンッッ!
金属どうしの激しい衝突音が、四度にわたって部屋にこだました。
「ハーツ、さま……?」ブラディは呆然と、大陸を征服するはずの覇者を見つめた。
「なぜ鎖を! いったい何をお考えなのです!」
「別にィ。剣に血を吸わせるくらいなら――」ハーツは刃こぼれで使い物にならなくなった短剣を投げ捨て「オレのモノで破瓜の血を味わうほうがおもしれーと思ってよ」
ブラディは言葉を失った。
「そ、そんなの力を得ればいくらでも――」
「そう、それだ。他人の力を借りて強くなるってのが性に合わねーんだよ」
ブラディの顔は蒼白から一転して真っ赤となり、怒声をあげた。
「ハーツ、いいかげんにしな。アーリマン様に逆らうんじゃないよ」
「ハハ、おめぇもだんだんらしくなってきたじゃねーか。そうだ、それだよ。オレをむかつかせるテメェらが、オレは気にくわなかったんだよ!」
ハーツは『暴風』を抜いた。
「もう一度言うよ。さっさとその女の心臓をぶち破って、血を捧げるんだよ。そうすりゃ、あんたには大陸を征服するだけの力が与えられる。あんたの望む自由な世界が手にできる。なにが気に入らないって言うんだい!」
「オレはオレの望むまま生きる。オレにとっての自由ってな、そういうもんだ」
「愚か者が」
ハーツに答えたのはブラディではなくアーリマンであった。彼の右手には、すでに破壊を象徴する魔力が放電をはじめ、出来損ないの息子を討つ準備を完了させていた。
ハーツは『暴風』をかまえ、アーリマンは魔法を放つ。巨大な雷が、魔物の掌から半魔物の心臓へと一直線に伸びていく。
「ア、アーリマン様!」二人の間にはブラディがいた。彼女は恐怖にはりついた表情のまま、光にのみこまれていった。
ハーツは避けようと思えば余裕を持ってステップを踏めたであろう。だが彼は動かず、愛刀『暴風』を盾に、真正面から受けとめるつもりであった。彼の背後には祭壇があり、祭壇の上には意識不明の娘がいた。
「ったく、処女と姦るのもひと苦労だぜ!」
次の瞬間、ハーツは雷光にとりこまれた。