十、渦
「オレの下で働きてェ?」
執務室のソファーでふんぞり返るハーツの前に、ボア将軍は片膝をついて頭をたれた。ガガーリン王都防衛隊第二軍団長が数名の兵士と一人の手みやげを引き連れて現れたのは、ハーツがミレイユを抱いて性欲を満足させ、睡眠欲を満たそうとしたときであった。城外では三千名弱の兵隊が、事情も知らされぬまま待機している。
「ボア将軍、これはどういうことです!」
声を荒げたのは手みやげ呼ばわりされたレイルズだ。彼は後ろ手に縛られたまま、床に転がされていた。
「どうもこうもないわ。ワシはもともと、魔物の王と手を結ぶつもりでこの地へ来たのだ」
「誰にそそのかされたのですか? ガガーリンの将ともあろう方が……!」
「ええい、うるさい。どうせワシは国でも持て余されておる戦争屋だ。栄達するためなら、魔物だろうと何だろうと手を組んでやるわ。それがワシの生き方だ!」
ボア将軍の叫びは、誰にも否定させまいとする頑なさがあった。三十年以上もガガーリンに忠誠をつくし、戦場で生命をかけてきた男には、その年月に匹敵する鬱積がたまっていたのであろう。彼は命令ではなく、自らの意思で道を選んだのだ。
「話はわかった。だが、兵士は納得してついてくんのか? めんどーはごめんだぜ」
ハーツはニヤリと笑って、「もっとも、そういうヤツらを殺してもいいっつーなら、魔物のエサに利用してやるがな」
「我が部隊は本国でも鼻つまみものとして扱われてましてな、ここが居心地よく思うでしょう。もし逆らう者がおれば、お好きになさってください」
「わかった、テメェらを使ってやる。……もっとも、オレは大陸支配だとかに興味はねぇし、するつもりもないぜ」
「は? そ、それではハーツ様は、この城でなにを……」
「そうだな、女を抱いて、うまいモン食って、飽きたらどうするか考えるさ」
「ハハ…、それはそれは……」
ボア将軍としては、低頭して落胆を隠す他に応じようもなかった。話が違うではないか、と、内心であの女を罵ってみたが、すでに後の祭りである。『待つ時間は長くて二年』と言った女を信じるしかない。将軍の昂揚感は急速にしぼんでいった。
「それで、そっちの男はなんだ? たしかディーンの男といたのをみたが」
レイルズはハーツに問われ、這いずったまま吼えた。
「わたしはディーン騎士団第一級犯罪捜査係一等捜査官ソゥル付一等事務官レイルズ。ソゥルさんはどうしたのです!」
「やかましいやつだな、声がでけーよ。あの男なら、とっくに逃げていったぜ。今頃どっかでのたれ死んでるかもな」
「そんな……」
「援軍のつもりでガガーリンの兵隊を連れてきたが、逆に売られたか。お前もそのまま逃げてりゃよかったのにな」
ハーツは声高に笑う。ミレイユを抱き、アーリマンを殺し、魔物を従え、何もかもがうまく進んでいたので彼はめずらしく上機嫌であった。加えて間抜けなディーン騎士団事務官の姿まで観れて、愉快このうえなかった。
「どうよ、いっそお前もオレに仕えるか?」
「笑えない冗談ですね。あなたはわたしたちにとって、許されぬ犯罪者です。殺された方がマシです」
「ハン、そんな信念なんぞ生きるには不便なだけだぜ。わかった、お前は魔物のエサにでもしてやる。そこの兵士ども、牢番をまかせてやるから、そいつを閉じこめておけ」
ボア将軍に付き添ってきた士官級の兵士は、牢番に任命されて呆然とした。将軍が睨みつけなければ行動はさらに遅れ、ハーツの不興を買ったであろう。うち二人の兵士があわてて敬礼をほどこし、レイルズを連れて退出した。
「さて、オレは寝るとするぜ。お前らは好きな部屋を使ってくれや」
「ありがたき幸せ……」
将軍にとって、暗雲たちこめる未来がはじまった。あの女の予言どおり事が運べばよし、もしそうでなければ――彼は想像に激しく身震いした。いっそハーツに従うふりをして、裏切って首をとるというのはどうか。忠誠を誓ってすぐに将軍の打算が働く。彼の未来は、どのみち誰からも称揚されない結果が待っているようであった。
意外と静かな寝息をたて、ミレイユのとなりでハーツは眠っていた。無防備もいいところで、手元に武器さえあれば難なくしとめられるだろう。
ミレイユはゆっくりと上体を起こし、下半身の不快感に顔をしかめた。
今なら殺せる。彼女はハーツの寝顔を眺めながら、そう思った。彼は世界最大の殺人者であり、最高金額の賞金首であり、数えきれない人々を不幸にしてきた男である。生かしておく価値はないとディーン騎士団では認定され、彼女自身も決定を支持している。
(刃物でもあれば……。ううん、ペンでもかまわない。喉を切り裂ければ……)
視線を巡らせてみるが、寝室にそのような物はない。唯一の刃物といえば大刀『暴風』であるが、その巨大さは彼女に扱えるシロモノではなかった。
彼女はほっと息をついた。ため息のつもりだったが、心のどこかで安堵している自分がいる。ハーツを殺さなくて良かったと思っているのだろうか? いや、自分には人殺しができないから、それで安心したのだろう。そもそも大地の女神の教義は、無益な殺生を禁じているではないか。
無益?
果たしてそうだろうか。ハーツが死ぬのを喜ばない人がいるのか? 死んでくれるのを望む人のほうが圧倒的に多いはずだ。生きていればこのさきも彼は罪を犯し、多くの人々を不幸にするだろう。目に見えてわかっているのに、なぜ自分は彼を殺せないのか。
覚悟が足りない。ボロボロになるまで戦ってくれたソゥルに顔向けができない。
(けれどわたしはハーツに同情してしまっている。彼の弱さを知ってしまったから? 身体を汚されたというのに、何を考えているんだろう。わたしは、バカだ……)
ミレイユは頭から布団をかぶり、独り、震える。
ハーツは一度目を開き、ミレイユを一瞥してまた閉じた。
翌日、ミレイユが目を覚ますとハーツの姿はなかった。脇の小テーブルに、兵隊用の携帯食と思われる粗末なパンと干し肉が置かれており、木製カップには水が注がれていた。手桶にも水がはってあったので、顔を洗い、パンをかじった。が、生きている実感より、生かされているという気持ちが徐々にわきあがり、胸がつまって食事をやめた。
(外へは出られるのだろうか……)
ミレイユはベッドをおり、立ち上がった。
部屋のひと角にあるタンスを物色して、男物のシャツとズボン、丈の短い外套をまとった。着心地も肌触りも格別で、城主の趣味の良さをうかがわせた。
監禁されているのではないかと疑ったが、扉は施錠されておらず見張りすらもいない。
廊下の窓からは、見慣れない街の景色が薄い陽光をあびて佇んでいるのが一望できた。城と同様に、生気がまるでない廃墟を感じさせた。
「人がいる……」
眼下に数名の武装兵がいた。隊長らしい士官に命令をされ、三人の兵士が走っていく。
昨夜ハーツから聞いたとおり、ボア将軍が傘下に入ったのは事実だったようだ。それまで半信半疑であったが、現実に目の当たりにするとそら恐ろしかった。今の自分を、一月前には想像もできなかったように。
「なぜ、ボア将軍は国を裏切ったのかしら……」
つぶやいてみても彼女にはわからない。まだ昨日のショックも抜けきっていない頭では、ろくに思考も働かない。
ふと物音に気づき廊下へ視線を戻すと、こちらに近づいてくる小柄な人影があった。体格に見合わない大きな鎧をつけ、剣を床に引きずって歩いてくる。
子供かと思ったが、人間ではなかった。グレストキア生物図鑑にも記載されていない、青肌の魔物だ。
ミレイユが驚きに動けないでいると、魔物は玩具をみつけた子供のように彼女にまとわりついた。理解できない言語で騒ぎ、外套をめくったり、顔をのぞき込んだりしてくる。ミレイユは抵抗できず、短い悲鳴をあげるばかりであった。
「なに遊んでんだよ」
独特の大刀をかついだ男が青肌の魔物を捕まえた。魔物はハーツの顔を確認し、怯えた声をあげて騒ぎだす。
「うるせェ、殺すぞ」
言葉が通じるはずもない。しかし魔物は殺気を敏感にうけとめ、無抵抗になった。ハーツはめんどくさげに廊下に投げ捨て、逃げていく魔物に舌打ちした。
「手下にしたはいいが、たいがいのヤツは言葉が通じねぇからな。今みたいにちょっかいかけられるかも知れねーが、殺されることはねーから好きにしてろ」
ハーツはそれだけ言って、反対側の通路へ消えていった。
何事もなく去って行くのを意外に思いながらも、彼女からは接触を持とうとはしなかった。ミレイユはイメージにあるハーツとの格差にとまどいながら、彼の気が変わらないうちに角を曲がった。そのまま適当にぶらついてみようと決め、歩みを進める。
中庭を見下ろすテラスに出た。噴水のある庭園で、整備されていたころはさぞ美しかったのだろう。今では魔物が水をもとめて群がり、気色の悪い光景をつくっている。
その脇では、魔物と人間の兵隊がたがいの領土を決めているのが目にとまり、ミレイユは呆気にとられた。魔物といえど、知能が高いものは人語を解し、会話を成立させられる。頭では理解できても、情景として眺めるにはかなりの違和感があった。
魔物と人間の共存は彼女にとって新鮮であり、信じがたいものだ。ここではハーツという絶対君主がいるおかげで成り立っているのだろうが、これはやはり特殊なのだろうか。元来、グレストキア西部は魔物の土地だったという。もし魔物たちがかつての土地を取り戻し、この大地で生きたいと望んだならば、人間との抗争が前提となるのであろうか。いや、別の可能性を彼女はこうして眼にしている。
(もう、ワケわかんないわ。自分のことだけで手一杯なのに……)
ミレイユは疲れたため息をはいて、曇り空を見上げた。そして奇妙な天気に気づく。
太陽は遠くに見えるのだが、城の真上には雲ではない別のものが浮かんでいた。言うなれば渦だろうか? 黒い流動体が、たえずかきまわされているイメージ。
彼女だけでなく、元ガガーリン兵士も疑問に感じたらしく、言葉が通じそうな魔物に問いただしていた。
「あれは魔界の空だ。儀式によって魔界と人界がつながった証だ」
「魔界の空ねぇ……。こっちにはどんな影響があるんだ?」
「我ら魔界のモノに加護が与えられ、本来の力を発揮させてくれる。そして今しばらく経てば、低級の魔のモノが数多く舞い降りるだろう」
「つまり、強くなってお仲間が増えるってわけか」
人間の兵士は無感動に肩をすくめた。
冗談ではない、とミレイユは身震いした。力をつけた魔物がフェルダンより飛び立とうというのか。この事実をどうにかしてディーン騎士団に伝えねばなるまい。
「……ところで、人間の捕虜が一匹いたが、食べてもかまわないのか?」
不意に耳にとまった一言が、ミレイユをハッとさせた。答える側にまわった人間が、「しらねーよ。大将のハーツ様に聞いてみるんだな」と頭を振っている。
捕虜がいる? もしかしてソゥルが逃げ出せずに捕まったのだろうか?
ミレイユは走り出した。
直感に従い、彼女はまっすぐ地下牢へ向かった。牢番が一人、入り口で退屈そうにアクビをしている。
彼はミレイユを胡散臭そうにながめたが、突然、姿勢を正した。捕虜に会わせて欲しいと頼むと、兵士は鍵をとりだし彼女のために扉を開いた。きっと『ハーツの女』とでも通達されているのだろう。不本意だが、この際は利用するとした。
格子牢が連なる石の洞窟に、一つだけ気配を漂わせているところがあった。予想どおり、捕虜となった若い男が縛られたまま放り込まれていた。
「レイルズ?」
薄い金髪の青年が、声に反応して顔をあげた。
「ミレイユさん?」
年齢で言えばレイルズのほうが上で、キャリアも長いのだが、二人の呼び方は常に逆転していた。誰にでもフレンドリーに話すミレイユと、誰にでも謙虚なレイルズ。二人はこうした場所で再会したにもかかわらず、知り合いと普段からの呼びかけができたのを温かく感じた。
「どうして、あなたが……?」
二人は同時に質問した。そして同時に顔を見合い、同時に苦笑した。
さきに事情を語ったのはミレイユからだ。本部でハーツ専属捜査官に任命され、ここまで追って来て逆に捕まり、軟禁状態にあると簡潔に答えた。
レイルズはやや長めにいきさつを語った。捜査の過程でアーリマンという男にいきつき、逮捕に向かって失敗したことからはじまり、ボア将軍に騙されハーツに売られたことまで詳しく告げた。
「わからないのはアーリマンとハーツの関係と、アーリマンがどうなったか。それにソゥルさんは無事でいるかです」
「えーと、アーリマンとハーツは実の親子なの。驚くのも無理ないけど、事実よ。アーリマンは大陸を魔界と同じように変えて、征服しようとしていた。そのためにこの世界で役立つ駒がほしかったの。それでハーツの母親を襲い、子を産ませたそうよ」
「よく調べましたね」
「ううん、わたしはアーリマンが行う儀式の生け贄にされかけていて、そのとき話を聞いたの。で、ハーツがアーリマンに逆らって殺してしまったから、わたしは助かったの」
「そうですか……。無事でなによりですね」
「ええ……」ミレイユの返事は、か細い。
「それで、ソゥルさんは?」
「生け贄のわたしを助けに現れて、魔物相手にボロボロになるまで戦ってくれた。でもハーツにはかなわなくて、いったん退いたわ。きっと無事に脱出しているはずよ」
「それならよかった。あの人が生きてくれてさえいれば、望みはありますからね」
「そうね……」
ミレイユは、以前ほど純粋に笑えなくなっていた。信じるだけですべてが叶うと思えた頃がいかにまぶしい時代であったか、苦しいほど理解できた。拭いきれない不安が疎ましかった。たとえソゥルでも、今のハーツには勝てない。そう口に出せないぶん、よけい心に突き刺さった。
彼女は頭を振って話題を変えた。
「ところでレイルズ、フェルダン伯爵はどうされているの? わたしが城に来たときから、アーリマンが居座ってたけど……」
「ハーツが現れるまで、わたしたちはこの城で伯爵と話していました。ですがそれは、魔物が化けていたニセモノでした。本物は――」
レイルズは口を閉ざして、牢屋の隅に転がる死体を眼でうながした。
「まさか!」
「ええ、お召し物と落ちていた頭髪から、まず間違いないと……」
「そんな以前からここにいたと言うの?」
「おそらく、魔物がこの地に現れてすぐに、生きたまま放置されたのだと思います」
レイルズは「これを」と壁を示した。黒い文字で、何かが書いてある。
「血で書かれたのでしょう。かろうじてご子息と奥様の名前は判別できました」
ミレイユは哀しみのあまり、手を組んで神に祈りを捧げた。うっすらと浮かぶ彼女の涙をみて、レイルズも黙祷した。
「あなたはどうされるのですか?」祈りを終えた彼女に、レイルズは尋ねた。
「わたしはたぶん、生きては出られないでしょう。ですがあなたは待遇が違うようですし、隙をみて逃げ出せるのでは?」
「わたしも逃げられはしないわ。だから一番楽な選択は、自ら生命を断つことかもね……」
「ダメですよ! あなたは生きてください。きっとソゥルさんが助けにきます」
「そうね……。でも、それを待つ時間がつらい……」
「それならば、いっそのことハーツと闘ってみるのです。女性ならば隙もみせるでしょう。そこを狙って――」
ミレイユは首を振った。彼女も考えたのだが、実行できなかった。決意を固めようとしても、別の感情が邪魔をする。憎いのに殺せない、悔しいのに恨めない。矛盾が彼女をからめとっていた。
「なぜです?」もっとも聞かれたくない質問をレイルズは発し、もっとも答えたくない返事をミレイユは言わねばならなかった。
「わたしは、すでに汚されたの……」
「……!」
「今さらハーツを殺したって、昔に戻れはしない。それにわたしは心の奥底で、彼に同情してしまっている……」
「ミレイユさん……」レイルズは応えようがなかった。彼を愛してしまったのではないか、という疑念が急激に膨らんでいたが、やはり訊けなかった。
「……わかりました。では、ハーツの件はわたしが引き受けましょう」
「ごめんなさい」
「わたしは死を覚悟した人間です。それがお役に立つのでしたら、どのような事でもいたしましょう」
レイルズ事務官は、忠誠を誓う騎士のようにひざまずき、頭をさげた。彼にとってミレイユは、護るべき神聖なものに昇華していた。
謁見の間で暇つぶしに鍛錬をしていたハーツは、ミレイユからの懇願を受けた。
「あの男を解放しろだと?」
大刀を床に刺し、汗を拭う『災厄』の顔は不機嫌であった。
「タダで許せとは言っていません。彼はきわめて有能な人材です。直接的な戦闘には向きませんが、後方支援や作戦立案、平時の社会制度や秩序の確立などでは役に立ちます。また、魔物と人間のあいだに入って調停をする者も必要となりましょう。現に今でも、食料や住居を巡ってトラブルが多発しています。そのうち事は、城内だけではすまなくなります」
「えらく長い能書きをたれるじゃねーか。ようは仲間を助けたいんだろ? ウダウダ理由をつけてねーで、ハッキリそう言えや」
ミレイユは意図が読まれ、口をつぐむ。ハーツが水筒の水を飲み干してから、「はい、そうです」とつぶやいた。
「フン、まぁ、いいさ。オレの役に立つというなら、使ってやってもいい」
ハーツは『暴風』をかつぐと地下牢へ向かった。ミレイユはあわてて追う。
牢番が敬礼をして用向きを尋ねると、ハーツは入り口を粉砕し、そのまま牢番の頭を吹き飛ばした。
「牢屋にきて何の用もあるかよ、バカが」
言葉をなくして青ざめるミレイユにかまわず、ハーツは突き進む。
荒々しい物音を聞き、レイルズは佇立した。『災厄』の姿を確認すると、わざとらしく一礼した。
「ハーツ様、愚かな私めをお許しください。どのような事でもいたしますゆえ、どうかご寛恕を……」
「猿芝居はやめろ。何が目的だ」
「では、お言葉に甘えまして申し上げます。わたしはまだ死ねないのです。あなたを捕縛するまでは」
「ほう。だが、おまえ程度じゃオレは倒せねーぜ」
「ええ、ですからあなたの側で働きつつ、隙をうかがわせていただきます。人を殺すには、爪の一枚でもあれば充分ですから」
レイルズは、ハーツのある特性を看破していた。ハーツが他人に求めるものは『完全な支配』か『強大な敵』であり、最も望むものは『強大な敵を完膚無きまでに叩きのめし、隷属させること』であった。ゆえにこれだけ挑発すれば、ハーツは興味を抱くであろう。あえて本心を語ることでハーツの歓心を買い、そばに近づく。そしてできるならば本当に賞金首を打倒する。それがレイルズの狙いであった。
「……フン、ボアと同じで、何を考えてるかわかりゃしねーな。だがまぁ、そこへお前が加わったところで、どうなるもんでもねぇだろう」
レイルズは勝った、と拳をにぎった。しかし、ハーツの言葉は終わっていなかった。
「――と言いたいとこだが、かりそめでも忠誠心は見せてもらわねーとな」
「血判状でも書きましょうか?」
レイルズとしては、冗談のつもりであった。
もちろんハーツは笑わない。彼は事務官の足下へむけて唾を吐いた。
「お前の信じる神に誓ってみろよ」
「!」レイルズもミレイユも、鼓動が一段と強くなった。まさか神を持ち出すとは思わなかった。もし神の名を出して忠誠を誓えば、裏切ることはできない。裏切れば、重大な背信行為となる。それでも実行すれば、もう神に祈る資格さえ失くしてしまう。彼の生真面目さを知りつつそう命令するのは、神を信じないハーツだからこそだ。
「フ…ハハハハハハ…! ジョーダンだよ、冗談。できっこねーよなァ? お前らにとっては神様が一番大切なものだもんなァ。真剣な顔で青ざめてんじゃねーよ」
「あなたは……!」
「なんだよ? 悔しけりゃ、実力でかかってこい! 隙をついて殺すだとか、爪があればできるだとか、賢しいこと言ってんじゃねぇ! 下僕になるのか、オレを殺してーのか、ハッキリさせろや。どっちもできねーなら、さっさと死んじまえ!」
ハーツは『暴風』を振り回し、格子を斬り壊した。
レイルズが一歩を踏み出せば牢屋からは解放される。しかしそれは、ハーツと闘う選択をしたとして一瞬にして殺されるであろう。長く犯罪捜査に関わってきたが、ハーツのような男には出会ったことがなかった。それだけにレイルズは恐怖を植えつけられ、敗北感に苛まれた。
おそらくハーツは、自分――レイルズ――の考えを読みとっているわけではあるまい。ただ純粋に、策を弄し、ひっかけようとする者が気に入らないのだろう。そういった直情的で粗暴というイメージで観られがちな彼だが、実にうまく自分のペースへと相手をまきこみ、有利な立場に身を置く。それは力業と言えなくもないが、できうる実力があってこそだ。言葉や駆け引きで解りあうのではなく、精神と暴力で相手と接する。原始的かつ危険ではあるが、たしかに万人には形となってみえやすい。それに、常に勝利者であった経歴も見過ごせない点である。
まったくもって意味のない仮定ではあるが、時代が時代であれば、ハーツは本物の覇王となっていたのではないか。いや、今からでも遅くはない。魔物が従い、正規の軍隊が膝を折り、並ぶ者のない強大な力を秘めている。ハーツは新時代をつくる種子を、すでに持っているのではないだろうか。
レイルズは鳥肌たつのを自覚した。恐ろしいと思いつつ、ある種の昂揚感がわくのはなぜだろう。見てみたかった。この男の行く末を、生き様を、そして死に様を。ディーン騎士団事務官は、神への信仰に似た興奮に身をゆだね、自然と跪いていた。
「おい、どうした? さっさと下僕か戦争か自殺か選べ!」
レイルズは、床に額がつくほど低頭した。
「なんだァ、下僕を選択かよ。ディーン騎士団も墜ちたモンだな」
「神の名に忠誠を誓うとは今は言えません。ですがもし、あなたにそれだけの力量があると思えたなら、神にでも何にでも誓約いたしましょう」
「……ハ、そうかよ。ならかわりに、オレの吐いた唾を舐めろ」
「それは……」
「できねーなら死ね」
「……」レイルズは石床の白濁した場所へ頭を向けた。
「レイルズ!」
「黙ってろ、女。そしてよく観ておけ。こいつがオレに下るサマをな」
ハーツは顔を背けようとするミレイユを無理矢理おさえこんで、ともにレイルズの恥辱を見学した。
「……いいだろう、使ってやる」
笑いながら立ち去るハーツの後ろ姿を、レイルズは忘れまいと思った。これほど憎いと思った人間はなく、また、これほど興味をひく男もいなかった。ハーツという男を、自分はどう捉えたいのだろうか。今後、彼の指針がどちらにむかうのか、レイルズ自身にすらわからなかった。