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出会い(1)

 春のうららかな風が薄紅色の花びらを空に運ぶ。

 坂道からは見事な桜並木が風に揺れるのが見え、多くの花見客の目を楽しませる。


 東京都千代田区九段、千鳥ヶ淵の桜は今まさに満開の時期だった。

 多くの人々が足を止め、その幻想的な光景に見惚れていた。

 緑道には人で溢れ、お濠の中も花見のボートが大量に出ていた。

 夜にはライトアップされ、夜桜を楽しむこともできる。


「わあ」

 日本武道館から九段下駅へと伸びる坂を下りながら、一人の女子高生が黒髪を風になびかせながら感嘆の声を上げる。


 彼女の名は、睦月むつきクオン。私立紫苑女子大学附属高等学校、間もなく二年生。

 新学期前の春休みの三月末、最寄り駅は一つ先の神保町だが、去年は見逃した千鳥ヶ淵の桜並木を見るべく、こうして出向いてきた。


 存分に花見を堪能したクオンは、九段下駅を通り過ぎ、首都高速五号池袋線の高架を潜り、その町に入る。


 東京都千代田区神田神保町。彼女の通う学校のある町である。


 古書店の並ぶ靖国通りを歩きながら、クオンはこれからどうしようか思案する。

 まだ春休み中なので、学校に行く必要はないが、せっかくなので大学の図書館に行ってみようか。


 彼女は一年の時から図書委員で、高等部の図書室にはいつも行っていたが、大学の中央図書館はまだ見たことがなかった。というのも現在建て直しの工事中で、まだ全館オープンには至っていない。


「よしっ、行ってみよう!」

 即決即断、歩みを早める彼女の足元を、何かが横切った。


「にゃー」

 猫だった。灰色のふさふさの毛並みがどこか不思議な雰囲気を感じさせた。

「きれいな子。どこかの飼い猫かな。でも首輪ないね」

 クオンは立ち止まり、身を屈めてその猫を見つめる。

 ノルウェージャンフォレストキャットという北欧産の品種で、どことなく品がある。野良では珍しい。こんな都会のビル街のど真ん中を歩いているのもおかしい。


 猫はその視線に気が付いたのか一瞬振り返ると、すたすたとアスファルトの上を歩き出した。


「あっ、まって!」

 そこそこの猫好きのクオンは思わず追いかける。

 そのふさふさの毛並みに顔をうず――いや、ちょっとだけ撫でてみたい欲求に駆られた。


 しかしその猫はまるで捕まえてごらんなさいとでも言いたげに、クオンに追い付かせず、歩を早めていく。

 そして一軒の古書店の前までくると、軒先に出されている木の長椅子の上に飛び乗り、丸くなって小さく欠伸をした。


「この子の飼い主さんかい?」

 隙ありとばかりに猫に恐る恐る手を伸ばしかけたところに、不意に声をかけられる。

「ひゃい? ちっ、ちがいっまふ!」

 思わず変な声で返事をしてしまったクオンが振り返ると、そこには一人の優しそうな老人が立っていた。

 その店の扉が開かれていることから、店主だと一目でわかった。


「そうかい。こいつはちょっと前に突然現れてね。まるでずっとここの主であったかのように、居着いちまった」

「そうなんですか。ふふっ。確かに堂に入ってる」

 クオンはその猫の堂々とした佇まいに、思わずにんまりとにやける。


「おかけであんたのような猫好きの客が増えた」

 そして店主も同じようにんまりと笑い、クオンに無言の圧をかけた。

「はは……おじゃましまーす」

 クオンは苦笑しながら店の中に入った。まんまと猫トラップに引っかかってしまった。これは一冊は買わないと逃げられないかもしれない。


 店の名は柳葉書店。ここ神保町に古書店は無数にあるが、どこも取り扱う本のジャンルが違う。長い時を経て自然と店によって得意ジャンルが枝分かれしていったからだ。

 文学、古典、歴史、思想、社会科学、自然科学、美術、芸術、サブカルと様々だが、この柳葉書店は特に歴史書に特化した店だった。


「わあー」

 クオンは店内を見回して感嘆の声を上げる。

 年季の入った木の本棚が立ち並び、無数の歴史書が詰め込まれている。埃っぽい空気と古書独特の匂いが鼻腔をくすぐる。

 客はほとんどおらず、いても店主と同年代の老人ばかりだった。


 クオンは自分が場違いな心地がして恥ずかしくなり、店の隅の方へと逃げていくと、そこの棚に一冊気になる本が目に入った。

 書籍の歴史に関する本で、古書というほど古い本ではないが、図書委員としては興味が惹かれた。


 十五世紀半ば、グーテンベルグの活版印刷技術の発明により印刷業は飛躍的に進歩し、大量の本が作られるようになった。

 しかしそれは出版・印刷・製本の業種の境界を曖昧にし、組合や業者間での軋轢を生み出していくことになる。

 十七世紀末、フランスのルイ十四世が下した勅命により、各業種の兼業を禁止し、それぞれが分業しておこなうようになった。

 その製本業の権利を与えられた者を――


「――ルリユールっていうんだ」

「えっ?」

 気付けば夢中になって立ち読みしていて、間近に誰かがいるのに気付けなかった。


「ああ、ごめんごめん。どうぞ続けて」

 美しい黒地の振袖姿の少女だった。長い黒髪から覗く瞳はわずかに赤みを帯びていて不思議な雰囲気を醸し出している。年は自分と同じか少し上に見えた。


「あっ、いえ、だいじょうぶですっ」

 クオンは我に返ると慌てて本を閉じる。思わずその少女に見惚れていた。

「その制服、紫苑女子でしょ? また猫トラップに引っかかった被害者か」

「うっ……」

 少女はクオンの図星の表情を見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「別に無理して買わなくてもいいよ。いつもああだから」

 そして入口のカウンターに座り、素知らぬ顔を浮かべている店主に視線を飛ばす。


「あ、あの! あなたは?」

 クオンは意を決して尋ねた。

 この少女が何者なのか気になった。純粋に心惹かれた。

「うん? 私? えーと……」

 少女は意外そうな表情を浮かべると、少し困った顔をして、視線を泳がせる。

「?」

 クオンが小首を傾げると、少女は突然踵を返して店の入口に逃げ出した。


「そのうちわかるからー。なんなら忘れてもいいからー」

 そしてまるで悪戯を見られた子供のように走り去っていってしまった。


「……なんなんだろ」

 クオンがぽかんと口を開けて放心していると、店主はやれやれと深いため息をついた。

 店の外の猫も逃げていく少女を見つめて、小さくあくびをした。

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