第086話:融雪の滴りと、緑の芽吹き
ピチャリ、と。
張り詰めていた静寂の底を叩くように、冷たく澄んだ水滴の音が響いた。
大樹の屋根の軒先から、冬の間ずっと硬い牙のように垂れ下がっていた氷柱の先端が、淡い光を浴びて丸みを帯び始めていた。
ポタリ、ポタリと落ちる雫は、ツリーハウスのデッキの端に打ち付けられ、やがて梢のあちこちから無数の水滴の合唱となって原生林の谷間に満ちていく。
雪解けが、始まっていた。
原生林を半年近くにわたって閉ざし、すべての生命を眠らせていた分厚い雪の層が、地熱と陽光に押されて少しずつ緩み、沈み込んでいく。
雪の割れ目からは、半年ぶりに外の光を浴びた濡れた黒土が顔を覗かせ、冬眠から目覚めたばかりの大地特有の、濃密で瑞々しい苔と腐葉土の匂いを立ち昇らせていた。
大樹の枝先を見上げれば、硬い樹皮の節々に、赤みを帯びた小さな新芽が米粒のようにぷっくりと膨らんでいる。
春だ。
あの日、オルディス防壁都市から追放されたあの日から数えて、三度目の春が、この境界の森へと静かに巡り来ていた。
「シロ、水門を開けに行くよ」
アルトが声をかけると、毛皮の寝床から身を起こした白い巨躯が、静かに喉を鳴らした。
アルトの声は、かつての幼い高さを完全に失っていた。
変声期特有のざらつきを通り抜け、深く、澄み、低く落ち着いた少年の――いや、青年の入り口に立つ硬質な響きを帯びていた。
背丈も、春の日に追放された十一歳の頃とは比べ物にならない。
肩幅は広く引き締まり、毎日の丸太運びと石の加工で鍛え上げられた腕にはしなやかな筋が浮き出ている。
そして、隣に立つシロの変貌は、それ以上に劇的だった。
立ち上がったシロの背は、アルトの胸の高さ――肩高にして一・三メートルを優に超えていた。
もはや都市の軍用犬や猟犬の範疇など遥かに逸脱した、神話の原初の白狼を彷彿とさせる圧倒的な威容。
新雪よりも眩しい純白の冬毛の下には、鋼のような筋肉の起伏が波打ち、その巨体でありながら、板張りの床を踏んでも微かな衣擦れの音すら立てない。
首筋から背骨に沿って尾の付け根まで走る「銀色の線」は、陽光を浴びるたびに青白い燐光を宿し、森の生き物たちすべてを本能的に平伏させる気高い霊気を放っていた。
アルトは居住区の扉を開け、外のデッキへと歩み出た。
肌を刺す風の冷たさの中に、確かな春の微温が混ざっている。
深呼吸をすると、冷たい空気が肺の隅々まで染み渡り、頭の奥が冴え渡るのを感じた。
まず向かったのは、大樹の根元にある「地下貯蔵庫」だった。
雪解け水が浸水していないか、そして備蓄の状況はどうなっているか。
木のステップを軽やかに降り、頑丈な板扉の閂を外す。
ヒンヤリとした空気とともに、桜のチップで燻した燻製肉と、乾燥薬草の芳しい香りが漂ってきた。
「……うん、全く問題ないな」
アルトは棚を見渡して微笑んだ。
秋の収穫祭で蓄えた兎肉と川魚の燻製は、冬の間に二人で毎日腹いっぱい食べたにもかかわらず、まだ半分近くが天井の竹竿に吊るされていた。
素焼きの壺に詰めたドングリ粉と栗の粉も、二壺分が手つかずのまま乾いた状態で残っている。
壁の隅には、冬の間に自噴泉の湧き水を使って仕込んでおいた、塩漬けの山菜やキノコの樽が整然と並んでいる。
カマドの底に敷き詰めた光る鉱石と、床下を通した黒い金属パイプのおかげで、この貯蔵庫の内部は厳冬期でも決して氷点下に落ちることはなかった。湿気は換気スリットから適度に抜け、霜が降りることもなく、完璧な定温環境が保たれていたのだ。
かつて都市で暮らしていた頃は、冬が来るたびに配給の黒パンを巡って大人が奪い合い、飢えと寒さで路地裏に凍死体が転がっていた。
それに引き換え、自分たちの秘密基地は、どんな過酷な冬が訪れようとも、一度の飢えを経験することすらなく、盤石の生活基盤を維持し続けていたのだ。
続いて、アルトは小川の土手へと向かった。
雪解け水を集めて激しさを増した小川は、白い飛沫を上げてゴウゴウと音を立てていた。
秋に作った石組みの排水路は、冬の凍結によるひび割れ一つなく、大樹の根元に迫る雪解けの濁流を完璧に受け止め、サラサラと小川へと逃がし続けている。
「水車の氷を落とそう」
アルトは川辺に設置した木製水車へと近づいた。
冬の間、凍結による羽根板の破損を防ぐために水門を閉じ、固定クサビを噛ませて止めておいた水車。
羽根にこびりついた氷の塊を、手にした木槌で叩き割っていく。
カン、カランと氷が砕け、濁流の中に呑まれて流れていく。
すべての氷を払い落とした後、水門の引き上げロープを引いた。
ドッ、と激しい雪解け水が水路を駆け抜け、水車の羽根板を力強く押し上げた。
ギィィ……コトコト、コトコトッ――!
心地よい木と金属の噛み合う音が響き、巨大な水車が滑らかに回転を始めた。
水車の主軸から伸びる回転力は、大樹の根元の作業場へと伝わり、石臼や木工旋盤の動力部へと生命の熱を送り込み始める。
自然の力を手懐け、知恵によって暮らしを豊かにする――アルトが積み上げてきた工学の鼓動が、雪解けの森に再び力強く脈打ち始めた。
「よし、回った! シロ、次は温室だ」
二人は縄梯子を巻き上げ、新設した木製ウインチのステップを伝って、地上七・五メートルの「空中温室」へと上がった。
透明な薄板で四方を覆われた温室の中に入ると、まるで別世界のような温かい空気が二人を迎えた。
カマドの排熱パイプが床下を通っているため、温室内の温度は常に十度以上に保たれている。
木枠のプランターに敷き詰めた肥沃な黒土からは、秋に蒔いておいた冬小麦が、鮮やかな緑の芽を一斉に伸ばしていた。
日当たりの良い南側の棚では、野生のイチゴの白い花が可憐に咲き誇り、甘い花の香りが満ちている。
アルトは竹製のジョウロを手に取り、自噴泉の澄んだ水を汲んで、芽吹いたばかりの小麦たちにたっぷりと注いだ。
シロは温室の暖かい板張りの床に寝そべり、ガラス越しに差し込む陽光に目を細めながら、気持ちよさそうに大きくあくびをした。
平穏だった。
外界がどれほど荒れ狂おうと、この空中温室には、永遠の春が満ちていた。
だが――
平穏の時間は、長くは続かなかった。
シロが、唐突に耳をぴんと立てた。
寝そべっていた巨大な身体をバネのように跳ね上げると、低く、喉の奥を鳴らしながら、南の空へと視線を固定した。
その黄金色の瞳に、警戒の鋭い光が宿っている。
「……シロ? どうしたの?」
アルトはジョウロを置き、温室を出て、地上十五メートルの最上階「見張り台」へとハシゴを一気に駆け上がった。
手製の反射望遠鏡を構え、南の境界線――かつてオルディス防壁都市が存在していた方角へとレンズを向ける。
ピントを合わせた瞬間、アルトの息が喉元で止まった。
「……っ……!」
雪解けで泥濘と化した荒野の向こう。
倒壊した境界線の鉄柵と、錆びた鉄条網を乗り越えて――
無数の「人影」が、群れを成してこちらへと這い進んできていたのだ。
一人や二人ではない。
数十、いや百人を超える群衆。
かつて都市の富を誇っていた上流市民や役人たちの面影は微塵もなく、泥と煤にまみれた襤褸切れを纏い、飢えた獣のように虚ろな視線で境界の森を目指して彷徨い歩く人間たち。
足元はおぼつかず、泥水に足を取られて倒れた者を誰も助け起こそうとせず、ただ木々の間から漂うわずかな煙の匂いと緑の気配だけに縋り付いて、這うように前進している。
冬の飢えと極寒、そして魔力炉の暴走が生み出した毒煙の地獄を生き延びた、旧オルディス防壁都市の残党たちだった。
冬の間、猛吹雪に阻まれて動けなかった者たちが、春の融雪とともに、唯一生命の息吹を保ち続けているこの境界の森へと、最後の生き残りをかけて大挙して押し寄せてきたのだ。
望遠鏡の倍率を上げ、先頭を歩く男の顔を捉えた時――アルトの背筋に、冷たい刃のような感覚が走った。
泥まみれの顔。引き攣った頬骨。落ち窪んだ両眼。
だが、その歪んだ目鼻立ちには、はっきりとした見覚えがあった。
かつてオルディス都市の魔導学校で、魔力を持たないアルトを「役立たずの出来損ない」「社会の寄生虫」と罵り、毎日竹の鞭で打ち据え、追放の場でも嘲笑いながら唾を吐きかけた――元教官の男だった。
あの時、豪奢な毛皮のマントを着て少年の尊厳を踏みにじった男が、今や汚泥に塗れ、木の皮をしゃぶりながら這いずり回っている。
「……来たんだな」
アルトは静かに、望遠鏡を目から離した。
少年の瞳には、かつてのような恐怖も、混乱もなかった。復讐の昂ぶりすら湧いてこない。
ただ、春の雪解け水のように澄み渡り、研ぎ澄まされた冷徹な光だけが宿っていた。
ここは自分とシロの家だ。自力で命を繋ぎ、血と汗で築き上げてきた不可侵の楽園。
どれほど過去の亡者たちが哀れに泣き叫ぼうとも、一歩たりとも踏み込ませる気はなかった。
春の訪れとともに、かつて自分を捨てた世界の亡者たちが、聖域の境界へと牙を剥いて這い寄ってきていた。




