第076話:枯れゆく川と、基地の自噴泉
大地震から数日が経過した頃、境界の森を決定的な「渇き」が襲い始めた。
朝、アルトが上層デッキから反射望遠鏡を覗き込むと、境界の森の外郭を潤していたはずの小川が、完全に消失していた。
群発地震による地下断層のズレと、オルディス防壁都市の魔力炉が発する異常な地下熱によって、浅層の地下水脈が地底深くへと沈降し、あるいは干上がってしまったのだ。
昨日までわずかに流れていたせせらぎは消え去り、白く乾いた川底の玉石が魚の骨のように散乱していた。川底の泥は激しい日差しと熱風によって無残にひび割れ、逃げ遅れた淡水魚や沢ガニの屍骸がカラスの餌となっている。小川の周囲に自生していたシダやヤナギの木々も、葉を茶色く縮れさせて急速に立ち枯れていた。
視線をさらに遠く、都市へと向けると、そこは文字通りの地獄だった。
都市の中央広場にある大噴水は完全に枯渇し、給水塔の前には空の革袋を手にした数千人の市民が群がって押し合いへし合い、怒号を上げながら殴り合っていた。
城壁の上では、わずかな備蓄水を巡って貴族の私兵と警備兵が槍を交え、乾いた路地には水一滴を求めて倒れ伏した人々の姿が散見される。泥水を啜って腹を下し、疫病に倒れる者も出始めていた。
都市の魔導学者たちが誇っていた魔力炉は、冷却水の枯渇によってさらに臨界温度へと近づき、赤黒い蒸気と異臭を放つ煙を激しく噴き上げていた。
金貨も、宝石も、爵位も、喉を潤す一杯の水の前には無力だった。オルディス都市の文明は、自らが食い潰した水源の枯渇によって、内部から崩壊を始めていたのだ。
だが――
不可視の空間歪曲ドームに包まれた秘密基地の足元では、世界の法則が逆転していた。
――トプン……コポコポコポ……!
大樹の巨大な根元、苔むした岩盤の割れ目から、かつてない勢いで青白い泉が滾々と湧き出していた。
毎分五百リットル以上。
谷底の古代主幹ケーブルと結線された大樹は、星の最深部――何千キロメートルもの地下深くにある太古の深層帯水層から、純粋な惑星の体液を地表へと汲み上げていたのだ。
「水量が、以前の倍以上に増えているな……」
アルトは昇降機で地上へと降り、自噴泉の縁に膝をついた。
水面に手を浸すと、心地よい微温――摂氏二十四度ほどの温かさが掌を包み込んだ。真冬の冷気の中でも凍りつくことなく、湯気すら微かに立ち上っている。
アルトは両手で水を掬い上げ、口元へと運んだ。
一口飲んだ瞬間、アルトの喉が、そして全身の細胞が歓喜に震えた。
雑味や金属臭は微塵もない。舌の上でトロリと甘露のように溶け、乾いた喉から胃の腑へと染み渡っていく驚くべき浸透圧。
それは単なる湧き水ではなく、地脈の生命エネルギーと超高純度の微量ミネラルが完全に調和した「超純水」だった。
「クゥン……」
足元に歩み寄ってきたシロが、泉に顔を近づけてピチャピチャと水を飲んだ。
喉を鳴らしながら美味しそうに飲むシロの金色の瞳が、満足そうに細められる。
泉の周りには、森から避難してきた銀狼たちや鹿の群れ、野ウサギたちが集まり、仲良く頭を並べて喉を潤していた。
外界が極度の水飢饉に喘ぐ中、このドームの内側だけは、無尽蔵の清流に満ちた奇跡のオアシスだった。
「この豊かな水を、絶対に無駄にしちゃいけない」
アルトは道具袋から墨ツボとノミを取り出し、基地の水利システムの大規模改修に取り掛かった。
これまでは一本のヒノキ樋で水車へと流すだけだったが、湧出量が倍増した今、多段式の総合水利プラントを構築することが可能だった。
アルトはまず、大樹の根元を掘り広げ、玄武岩の切り石を階段状に積み上げて「三段カスケード水槽」を築いた。
第一段は、湧き出た直後の水を受ける「第一沈殿槽」。ここで微細な砂粒を沈降させる。
第二段は、小石と木炭の粒、石英砂を層状に敷き詰めた「第二重力濾過槽」。水質を極限まで清澄化する。
そして第三段が、大容量の「メイン貯水池」だ。貯水池の底には滑らかな青白い粘土を敷き詰め、隙間を叩き締めて漏水を完全に防いだ。
メイン貯水池からの配水路は、三系統に分岐させた。
第一系統は、水車唐臼と製粉機を回す「動力用水路」。傾斜をつけたヒノキの樋を通じて激流を羽根板へと叩きつけ、絶え間ない回転力を生み出す。
水車を通過した水は、さらに下流に掘削した「生簀(養殖池)」へと注ぎ込むようにした。
アルトは以前、小川が干上がる直前に捕獲して保護しておいたヤマメやイワナの稚魚数十匹を、この生簀へと放流した。池の浅瀬には野生のクレソンとセリを植え付け、腐葉土と小石を配して水生昆虫が自然に繁殖する生態系を整えた。
清らかな温水の中で、銀色と朱色の斑点を散らした渓流魚たちが元気に尾を振って泳ぎ回る。いつでも新鮮な川魚が手に入る、極上の生きた食料庫だ。
第二系統は、地上十数メートルの上層デッキと空中温室へと水を送る「揚水システム」だった。
地上から高所へと水を運ぶのは重労働だが、アルトは水車の回転軸を利用した「青銅製ピストン式自動ポンプ」を製作した。
水車のカム機構が青銅ピストンを押し上げ、真空圧によって自噴泉の水を吸い上げる。配管には、先端を尖らせた長い鉄棒を火床で真っ赤に熱して節を焼き抜いた孟宗竹十本を使用。竹の内側に煮沸した松脂と蜜蝋のワックスを流し込んで冷やし固め、完全な耐水被膜を施した上で大樹の幹に沿って垂直に立ち上げた。
――コトッ、コトッ……シュバッ!
水車が回るたび、上層デッキの貯水樽へと新鮮な超純水が自動的に汲み上げられていく。
空中温室のスプリンクラー配管にも直結され、レバーを捻るだけで温室全体に微細な霧状の散水ができるようになった。
そして、第三系統――
アルトが職人としてのこだわりを注ぎ込んだのが、大樹の根元の木陰に設けた「ヒノキの露天風呂」だった。
作業後の泥と汗を洗い流すため、アルトは樹齢百年のヒノキの良材を贅沢に使い、大人二人がゆったりと足を伸ばせる長方形の湯船を組み上げた。
厚さ五センチのヒノキ板の木口を四十五度に斜め切りし、高精度の「留め接ぎ(とめつぎ)」で隙間なく接合。外側には、鍛冶炉で赤熱させた鍛鉄の帯を巻きつけ、急冷して収縮させる「焼き嵌め(やきばめ)」の手法で木材同士を極限の圧力で締め上げた。釘一本使わずとも、一滴の水漏れすら許さない驚異の密閉度。仕上げに鉋で磨き上げたヒノキの木肌は、触れると吸い付くように滑らかだった。
自噴泉の温度は二十四度とそのまま入るにはぬるいため、アルトは湯船の脇に小型の青銅製熱交換パイプを組み込んだ加熱炉を設置した。
炉で薪を燃やすと、螺旋状の青銅パイプの中を通る水が瞬時に熱せられ、自然対流によって湯船の中に熱い湯が送り込まれる仕組みだ。
夕暮れ時。
すべての配管工事と漏水チェックを終えたアルトは、加熱炉に薪をくべた。
――パチパチ……と心地よい爆ぜる音が響き、ヒノキの湯船からモクモクと白い湯気が立ち上り始めた。
湯の温度は、手を入れてちょうど心地よい摂氏四十一・五度。
湯気に乗って、ヒノキの芳醇な精油の香りが大樹の木陰いっぱいに広がる。
「シロ、入ってみるか?」
アルトが服を脱ぎ、湯船の縁に腰掛けて足を湯に沈めた。
――ハァァァ……ッ。
思わず、深い吐息がアルトの口から漏れた。
連日の木工と配管作業で強張っていた背中、腰、腕の筋肉が、温かな超純水の中に溶けていくように解きほぐされていく。皮膚から染み込む地脈のミネラルが、全身の疲労を一瞬で洗い流していくのが分かった。
湯船の脇で興味深そうに首を傾げていたシロが、おずおずと前足を湯船の浅瀬へと入れた。
最初は温かさに驚いて耳をピクッと動かしたが、すぐにその心地よさを理解したのか、浅瀬の段差に腹ばいになってお湯に身を沈めた。
銀白の毛並みが湯の中でふわりと広がり、温水に濡れて滑らかな輝きを放つ。
シロは心地よさそうに目を細め、フゥゥ……と鼻から温かい息を吐いてアルトの膝に顎を乗せた。
「気持ちいいな、シロ」
アルトは手桶で湯を掬い、シロの広い背中に優しくかけてやった。
シロは目を閉じたまま、喉をゴロゴロと鳴らしている。
湯から上がった後、手作りの麻布で身体を拭くと、肌は驚くほどサラサラとして、身体の芯までポカポカとした温もりが持続していた。
夕食には、生簀から網で掬い上げたばかりの太ったヤマメを二匹、内臓を抜いて粗塩を振り、炉端の熾火でじっくりと遠火焼きにした。
皮はパリッと香ばしく、中の白身はふっくらとジューシーで、清流の香りが口いっぱいに広がる。シロと分け合って食べた焼き魚の味は、どんな豪華な宮廷料理よりも贅沢な恵みだった。
見上げれば、夕闇が迫る空。
不可視の力場の向こう側では、水を失った森が枯れ果て、遠くのオルディス都市から絶望の叫びと黒煙が立ち上っていた。
だが、少年と白い獣は、芳しいヒノキの湯船に身を委ね、滾々と湧き出る清らかな温水と魚の恵みの中で、完璧な安息を享受していた。
世界がどれほど渇き、滅びようとも。
この秘密基地には、生命を育む永遠の泉がある。
少年が拓いた水利の道は、この森のすべての命を未来へと繋ぐ、決して枯れることのない奇跡の命脈となっていた。




