第074話:谷底の太い古代ケーブル
大地震が残した爪痕は、基地の足元にある深い谷底を大きく変貌させていた。
免震構造によって地上十数メートルの居住棟と温室は水面一つ波立たず守られたが、大樹が根を張る岩盤の縁、谷底へと落ち込む切り立った断崖の斜面が、激震によって幅十メートル、深さ三十メートルにわたって崩落していたのだ。
翌朝、朝靄が立ち込める中、アルトは上層デッキの手摺りから谷底を見下ろした。
崩落した赤褐色の岩肌から、大樹の無数の根が剥き出しになって宙に垂れ下がっている。
だが、アルトの目を釘付けにしたのは、木の根の群れではなかった。
「……あれは、何だ?」
崩れ落ちた岩盤の最深部、大樹の最も太い主根が絡みついている裂け目の奥から、異様な「何か」が露出していた。
朝の薄光を浴びて、鈍い黒光りを放つ巨大な円筒状の物体。
それは岩でも、木の根でも、自然の鉱脈でもなかった。
完璧な円断面を保ち、大地の奥底から天に向かって斜めに突き出た、直径三十センチメートル以上もある極太の「管」――あるいは、巨大な「ケーブル」だった。
アルトの心臓が、トクンと跳ねた。
少年時代から森を歩き回り、あらゆる樹木と岩石を見分けてきたアルトの直感が告げていた。あれはこの森の自然物ではない。それどころか、オルディス都市の未熟な石造り文明や、煤煙を吐く粗悪な魔力炉の技術水準をも遥かに超越した、未知の遺物だった。
「見に行こう、シロ」
アルトは作業服の裾を革のゲートルで締め、腰に頑丈な道具袋を装着した。道具袋の中には、鍛造したタガネとノミ、小型の金鎚、真鍮のノギス、そして大樹の青い樹液を詰めたガラス小瓶が収められている。
谷底への降下は容易ではなかった。
アルトは大樹の地上根の最も太い部分に、編み上げたマニラ麻の二重ロープをしっかりと結びつけ、青銅の滑車と自作のブレーキ金具を組み合わせた懸垂下降器具を胸の革ハーネスにセットした。
「シロ、ここで上を見張っていてくれ。ロープの支点も頼む」
アルトが首筋を撫でると、シロは低く一度だけ喉を鳴らし、ロープの結び目の傍らにどっしりと腰を下ろした。その鋭い金の瞳が、谷の上空と森の周囲を警戒するように巡る。相棒が支点にいてくれることほど、頼もしい命綱はなかった。
アルトは崖の縁から身を乗り出し、ゆっくりとロープを繰り出しながら垂直の岩壁を降りていった。
――シュルシュル、シュル……
金具が摩擦熱で熱を帯びる。足の裏で冷たい玄武岩の岩肌を蹴り、崩れかけた瓦礫を避けて下降していく。
谷底に近づくにつれて、空気の質が目に見えて変化していった。
湿った腐葉土の匂いの中に、混ざり合うオゾンの鋭い刺激臭。そして、肌の産毛がかすかに逆立つような、微弱な電磁気のアロマ。耳を澄ませば、崩落した岩盤の奥から、低く唸るような「ヒュィィィン……」という超高周波の回転音が聞こえてくる。
アルトは崩落した岩棚の上に足を下ろし、命綱のフックを安全な岩の割れ目に固定した。
目の前に、その漆黒の物体が横たわっていた。
「……大きいな」
間近で見上げると、その迫力は圧倒的だった。
直径約三十五センチ。外殻は、金属のように硬質でありながら、指で叩くとどこか弾力のある黒い樹脂のような素材で覆われている。何百年、あるいは何千年もの間、地下の湿気と土圧に晒されていたはずなのに、表面には錆び一つ、腐食一つ見当たらない。
アルトはノミを取り出し、外殻の端を軽く削ってみようとした。
――カチンッ!
金属の甲高い音が響き、鋼のノミの刃先が火花を散らして弾かれた。傷一つ付かない。
だが、大地震の岩盤崩落の凄まじい衝撃によって、ケーブルの側面の一部が、鋭い岩角で引き裂かれていた。
その裂け目から覗いていた「内部構造」を目にした瞬間、アルトは息を呑んだ。
「これ……全部、線なのか……?」
裂け目の内側には、髪の毛ほどの細さの透明な繊維が、何万本、何十万本と超高密度に束ねられていた。
石英ガラスのように澄み切ったその無数の極細繊維は、死んでいなかった。
繊維の内部を、エメラルドグリーンとサファイアブルーの微細な光のパルスが、大地の奥底から上方へ向かって、規則正しいリズムで絶え間なく明滅しながら走り抜けていたのだ。
トクン……トクン……トクン……
昨夜から基地の床板を揺らしていたあの「星の鼓動」の正体が、紛れもなくこのケーブルの中を流れる光の脈動だった。
さらに驚くべき光景があった。
大樹の巨大な主根が、まるでこのケーブルを守るように、あるいは養分を吸い上げるように、ケーブルの表面にびっしりと巻き付いていたのだ。
木の根の微細な根毛が、ケーブルの外殻の継ぎ目に深く食い込み、樹皮の青い導管とケーブルの光ファイバーが、有機的に融合していた。
自然の巨木と、超古代の高度な導管が、共生関係を結んでいる。大樹はこのケーブルから地脈のエネルギーを汲み上げ、ケーブルは大樹の生命力を借りてその機能を維持していたのだ。
「待てよ……」
アルトは道具袋から真鍮のルーペを取り出し、ケーブルの外殻の裂け目の縁を拡大して覗き込んだ。
そこには、肉眼では単なる模様にしか見えない微細なエッチング加工で、幾何学的な記号が刻まれていた。
――『TERRA-CORE MAIN TRUNK: PHASE-7 DATA LINK』
アルトにはその異国の文字を読むことはできなかった。
だが、左右対称の厳密な直線と曲線で構成されたその刻印は、これが誰かの明確な知性と目的によって製造された「機械の神経線」であることを雄弁に物語っていた。
「大樹だけじゃない……この基地の動力と、これを繋げたらどうなる?」
アルトの職人としての血が、熱く沸き立った。
現在、基地の青銅歯車と蓄電素子は、大樹の樹皮から採取した微弱な青い樹液の電位差だけで動いている。それでも光のドームを展開し、温室を維持するだけの力があった。
もし、この大地の根源を走る主幹ケーブルから直接エネルギーを引くことができたら――基地の防壁と生産能力は、次元の違う領域へと進化するはずだ。
アルトは慎重に作業の段取りを組み立てた。
まず、道具袋から取り出した大樹の青い樹液を、ケーブルの裂け目の外殻に一滴垂らしてみた。
すると、驚くべき反応が起きた。刃先を弾いたあの頑丈な黒い樹脂が、樹液に触れた瞬間、微かに熱を発して柔らかくほぐれ、花びらが開くように外側へとめくれたのだ。
「やっぱり……! 大樹の樹液は、このケーブルの鍵なんだ」
アルトは露出した光ファイバーの束の脇から伸びていた、三本の太い生体銅の芯線(電力供給ラインと思われる編組線)を露出させた。
そして、基地の地下動力室から垂らしてきた、太い青銅被覆の銅線ケーブルを取り出した。
接合には、最高精度の加工が必要だった。
アルトは小型の携帯バーナーに火を点け、高純度の銀蝋と松脂のフラックスを使って、自作の青銅製分岐ターミナル端子を銅線ケーブルの先端に溶着した。
端子の表面を砥石で鏡面のように磨き上げ、接触抵抗を極限まで減らす。
「いくぞ……」
アルトは革の手袋を締め直し、青銅ターミナルを古代ケーブルの生体銅線へと慎重に押し当てた。
――バチィッ……!
眩い青白い火花が散り、強烈なオゾンの香りが鼻腔を突いた。
次の瞬間、谷底の空間全体が、澄み切った鐘のような共鳴音で震えた。
――フォォォォォォン……!
古代ケーブルの中を走っていたエメラルドグリーンの光の奔流が、アルトの繋いだ青銅ターミナルを通じて、一気に上空の基地へと伸びる導線へと流れ込んでいった。
導線が青く輝き、大樹の幹を這い上がっていく。
崖の上で見守っていたシロが、嬉しそうに短く「ワンッ」と吠えた。
上空を見上げると、地上十数メートルの大樹の樹冠全体が、夜明け前の空に向かってサファイアのような強烈な燐光を放ち始めていた。
基地の地下動力室から、青銅歯車がかつてない高速で滑らかに回転する「シュルルルル……」という心地よい駆動音が、谷底まで響いてくる。
接続は成功した。
大地の奥底に眠る巨人の神経系と、少年が組み上げた木の砦が、一つの回路となって結ばれたのだ。
アルトは接合部を大樹の樹液と蜜蝋で厳重にコーキングし、耐水性の厚い革布で幾重にも巻き包んで岩の窪みに固定した。
道具をまとめ、ロープを掴んで登高器具をセットする。
足元の古代ケーブルは、今や大樹の根と完全に一体化し、温かい命の熱を帯びて静かに脈打っていた。
アルトはロープを一歩ずつ登りながら、胸の奥に湧き上がる言いようのない高揚感と、背筋を走る冷徹な予感を感じていた。
僕が作っているのは、ただの雨風をしのぐ隠れ家ではない。
遥か太古にこの星を作った者たちの意志を継ぎ、崩壊する世界の中で新しい命の秩序を紡ぎ出す――世界の心臓そのものなのだと。
崖の上へ這い上がると、シロが駆け寄り、アルトの泥まみれの顔を温かい舌で舐め上げた。
見上げれば、基地の上空に広がる光のドームは、先ほどまでの淡い光から、透き通ったエメラルドの輝きへとその色を変え、より強固に、より美しく、聖域の境界を夜空に描き出していた。




