第066話:昇降機の設置、断絶された地表
打ち直したばかりの平ノミとカンナは、アルトの建築精度を劇的に跳ね上げた。
刃先が狂いなく滑り、木材の継ぎ目は紙一枚の隙間もなく吸い付くように密着する。
だが、道具が揃ったアルトが真っ先に取り掛かったのは、部屋の装飾でも家具作りでもなかった。
「……階段も、梯子も、全部壊そう」
アルトは下層テラスの手摺りから地上を見下ろし、静かに呟いた。
これまで基地へ登るためには、大樹の幹に沿って架けた螺旋階段や、巻き上げ式の縄梯子を使っていた。
侵入者が来た時には階段を跳ね上げ、梯子を巻き上げて防いできたが、それでも「登るための足場」が大樹に固定されていること自体が、防衛上の最大の脆弱性だった。
大樹の根元に火をつけられたり、弓矢で梯子のロープを切られたりすれば、一瞬で退路を断たれる。
逆に言えば、地上から登るための物理的な足場を一切合切排除してしまえば、いかなる人間も、いかなる魔獣も、地上七・五メートルの上層デッキへ爪先ひとつ引っ掛けることすらできなくなるのだ。
「階段をなくして、どうやって上り下りするの?」
普通の人間ならそう訝しむだろう。
だが、アルトには「青銅歯車の地脈動力」と「樹上の巨大クレーン」があった。
「人を乗せて垂直に上げ下げする『昇降箱』を作るんだ」
アルトは直ちに設計図を引き、資材の切り出しに入った。
昇降機の心臓部となるのは、アルトとシロ、そして数百キロの荷物を載せて安全に宙を往復できる「木製ケージ(昇降カゴ)」だ。
床面は一間(約一・八メートル)四方。
骨組みには、打ち直した手斧でハツり出したナラの堅木を用い、三次元トラス構造でガチガチに組んだ。
壁は地上からの矢や投石を防ぐため、厚さ一寸のクリの板で腰の高さまで囲い、その上部は風を通す細丸太の格子窓にした。
天井には雨除けの傾斜屋根をつけ、中央に藤蔓と麻を八つ編みにした極太の主索を連結する頑丈な青銅フックを仕込んだ。
さらに、アルトは昇降機の力学効率を極限まで高めるため、「釣合い重り(カウンターウェイト)」のシステムを導入した。
樹上の滑車を介して、ケージの反対側に、カゴの自重とほぼ同じ重さの玄武岩を詰めた頑丈な木枠の重りを吊るしたのだ。
こうすることで、昇降機を動かすのに必要な力は「乗員と荷物の純粋な重量差」だけになる。青銅歯車にかかる負荷は劇的に軽くなり、万が一動力の接続が外れた場合でも、手動のロープ操作だけで大人の腕力一つでケージを引き上げることができる冗長性を確保した。
ケージの内部空間にも、アルトの細やかな配慮が行き届いていた。
揺れに備えて四方に滑らかな桑の木の手摺りを巡らせ、床には足腰の冷えを防ぐ厚い鹿革のマットを敷き詰めた。
天井の梁からは、以前に調合して作った「青い発光樹液の小型ガラス球」を一つ吊り下げてある。夜間に昇降機を利用する際も、火を使わずに足元を幻想的なサファイアブルーの冷光が優しく照らし出してくれる。
さらに、自動ブレーキとは別に、万が一の暴走時に同乗者が手動でガイドレールにクサビを叩き込める「非常停止用木製ハンドブレーキ」も壁面に設置した。
だが、ただロープでカゴを吊るすだけでは、風が吹けばブランコのように激しく揺れ、大樹の幹に激突して粉々に砕けてしまう。
必要なのは、「垂直の軌道」だった。
アルトは大樹の主幹の南北に、太さ五寸(約十五センチ)、長さ四間(約七・二メートル)の真っ直ぐなヒノキの角材を二本、垂直にアンカー固定した。
打ち直した平カンナで表面を鏡のように削り上げたその二本の柱が、昇降機が滑り落ちるレールとなる。
ケージの両側面には、このレールを左右から挟み込むようにして、硬いツゲの木で作った「溝付きローラー(ガイドホイール)」を四個ずつ配置した。
ローラーの軸受けには獣脂をたっぷりと染み込ませてあり、ケージはレールに沿って一ミリのガタつきもなく、滑らかに垂直移動できるよう設計された。
さらに、アルトが最も神経を注いだのは「絶対の安全性」だった。
何かの拍子に主索ロープが切れた時、地上七・五メートルから叩きつけられれば命はない。
そこでアルトは、画期的な「落下防止自動ブレーキ(クサビ式ガバナー)」を開発した。
ケージの屋根の吊り金具に、強いバネ(反りの強いツゲの曲がり木)を仕込んだのだ。
ロープがピンと張っている間は、ロープの張力がバネを押さえつけている。
だが、万が一ロープが切れて張力がゼロになった瞬間――バネが瞬時に跳ね上がり、両脇のガイドレールに鋸歯状の硬い鉄のクサビをガチリと食い込ませる。落下し始めた自重そのものがクサビをさらに深く食い込ませるため、わずか数十センチの落下でケージが空中でピタリと自動停止する物理的なフェイルセーフ機構だ。
そして、操作系統の構築。
地上からも、ケージの内部からも、そして上層デッキからも操作できるよう、大樹の幹に沿って三本の細い操作ワイヤー(プルコード)を張り巡らせた。
ケージの中にある樫の木のレバーを手前に引けば、大樹の根元のクラッチが繋がり、青銅歯車の回転が伝わってケージが滑らかに上昇する。
レバーを中央に戻せば停止し、爪車が噛んで空中で静止する。
レバーを奥に倒せば、ラチェットが外れて重力に従い、木製ディスクブレーキが擦れ合いながらゆっくりと一定速度で降下する。
工事は三日間に及んだ。
打ち直したノミとカンナの精度の高さのおかげで、すべての部材は寸分の狂いもなく噛み合い、手戻りは一度もなかった。
「……よし。階段を解体するぞ」
アルトはナタとバールを手に取り、地上から下層テラスへと続いていた木製螺旋階段を、一本残らず叩き壊して撤去した。
かつて都市にいた頃、アルトにとって「階段」とは、常に自分を見下ろす権力者たちの象徴だった。
豪奢な邸宅の高い大理石の階段の上から、貴族たちが小銭を放り投げて嘲笑い、孤児院の薄暗い地下階段の上から、院長が折檻のための杖を振り上げて降りてきた。
階段があるから、人間は上り下りし、上下関係を作り、互いを支配しようとする。
だが、この森にはそんな下らない序列はいらない。
大樹の幹に残っていた足場用のクサビもすべて抜き去り、幹の表面をカンナで滑らかに削り落として、人間が指や爪を引っ掛ける隙間を完全に消滅させた。
大樹の根元から地上五メートルの下層テラスまでは、つるつるの巨木がそびえ立つだけの、完全な垂直の絶壁となった。地上とこの城を繋ぐ手段は、アルトが内側から動かす昇降機ただひとつ。
招かれざる者が這い上がる道は、この世界から永遠に失われたのだ。
そして、昇降機の試運転の時。
「シロ、乗るぞ」
地上に降ろしてあった真新しいケージの中に、アルトとシロが足を踏み入れた。
木製の頑丈な扉を閉め、閂を落とす。
アルトは息を吸い込み、ケージ内の樫の操作レバーに手をかけた。
「上昇だ」
――ガチリ。
クラッチが噛み合う手応え。
頭上の巨大クレーンから、キィィン……と澄んだ滑車の回転音が響いた。
次の瞬間。
――フワリ。
「……おお……!」
アルトの足元が、わずかに沈み込んだ。
床が浮き上がった。
揺れはない。ガイドレールを挟み込んだツゲのローラーが、ヒノキの柱を音もなく転がり、ケージを垂直に押し上げていく。
地上の風景が、格子の窓の向こうでスーッと下へと遠ざかっていく。
一メートル、三メートル、五メートル……
青銅歯車の地脈動力は、大人一人と大型犬一頭、そして数百キロの木製ケージの重量などものともせず、羽毛を風に乗せるかのような静けさと力強さで巻き上げ続けた。
そして――
地上七・五メートル。
ケージは上層デッキの乗降口の前で、ピタリと水平に静止した。
ガチャン、とラチェットが噛み合い、揺れは完全に止まった。
扉を開けると、そこは直接、上層居住空間のリビングデッキだった。
シロが最初に軽やかに飛び出し、真新しい床板の上で嬉しそうに一回転した。
アルトはデッキの手摺りに歩み寄り、眼下の地上を見下ろした。
そこには、完全な「断絶」があった。
地上と樹上を繋ぐ道は、もう一本も存在しない。
階段も、梯子も、ロープもない。
ケージを最上階へ巻き上げてしまえば、地上からはただの巨大な一本の木が天を突いてそびえ立っているようにしか見えない。
地表を蠢く獣の牙も、飢えた略奪者の斧も、もはやこの空中要塞には爪の先ほども届かない。
地上からの完全な孤立。
それは少年が、人間社会の泥沼から自らを完全に切り離し、天空の住人となった瞬間だった。
「シロ……僕たち、本当に鳥になったみたいだな」
アルトが呟くと、夕風に銀白の毛をなびかせたシロが、誇らしげに空を見上げて短く吠えた。
夕日が梢を黄金色に染め、宙に浮かぶ少年の城を神々しく照らし出していた。




