第052話:二層式空中回廊、空が近くなる日
巨大クレーンの完成は、アルトの建築の次元を根底から変えてしまった。
これまでのツリーハウス作りは、常に「少年の腕力」という厳しい制約に縛られていた。運べる丸太は腕ほどの太さが限界であり、床板も薄い割り板を何十枚も並べるしかなかった。
だが、青銅歯車の地脈動力を得た今、その限界は過去のものとなった。
「シロ、三本目を上げるぞ!」
地上でロープを掛けたアルトが大樹の根元へ駆け戻り、樫のレバーをガチャンと倒す。
――ギュルルルル……!
複滑車の澄んだ回転音とともに、太さ一尺(約三十センチ)、長さ二間(約三・六メートル)もあるナラの太角材が、宙を舞うように軽々と地上八メートルの樹上へと巻き上げられていく。
樹上の枝には、先回りしたシロがちょこんと座り、揺れる丸太が幹に激突しないよう、鼻先で器用に軌道を微調整している。
少年と白い獣のコンビネーションは、熟練の大工と鳶職人のそれすら凌駕していた。
アルトが目指したのは、基地の「完全二層化」と「回廊の延伸」だった。
既存の地上五メートルのテラスは、焚き火台や鍛冶場、大型資材を置く「作業・貯蔵フロア」とする。
そして、その頭上――地上七・五メートルの枝分かれ部分に、雨風を完全に防ぐ寝室と観測所を兼ねた「上層居住デッキ」を新設する。
さらに、大樹単体にとどまらず、十メートルほど東にそびえ立つトネリコの巨木との間に、宙を渡る「空中回廊」を架け渡す計画だった。
「風で揺れる木の上に、ただ硬いだけの床を作っちゃダメだ」
アルトは作業台の木炭図面を指でなぞりながら、独り言を呟いた。
木は生きている。大風が吹けば、大樹の主幹とトネリコの木は、それぞれ異なる周期で左右に揺れる。もし両者を一本の硬い梁で繋いでしまえば、木々のねじれに耐えきれず、接合部から真っ二つに裂けてしまう。
必要なのは、「剛性」ではなく「しなり」と「遊び」を持った構造だった。
上層デッキの床組みには、釘を一切使わない伝統的な木組み技術を用いた。
巻き上げたナラの角材の端に、ノミとノコギリで「蟻継ぎ(ありつぎ)」と「ほぞ穴」を彫り込む。
木と木を凹凸で噛み合わせ、ドリル代わりの錐で穴を開けて、硬いツゲの「コミ栓(木釘)」を金槌で打ち込んで固定する。
――トントン、トントン……カーン、カーン……
森の静寂に、乾いた木槌の音が心地よく響き渡る。
金属の釘は錆びれば抜け落ちるが、木と木を噛み合わせたほぞ継ぎは、湿気を吸えば木材同士が膨張してさらに固く密着し、何十年もの風雪に耐え抜く。
床板には、クレーンで引き上げた厚さ一寸(約三センチ)の幅広のスギ板を敷き詰めた。隙間なく並べ、表面にはカンナを丹念にかけて、素足で歩いてもトゲが刺さらない極上の滑らかさに仕上げる。
下層のテラスから上層デッキへは、大樹の幹を螺旋状にくり抜くようにして、勾配の緩やかな木製階段を架けた。
そして、工事の最難関である「空中回廊」の架設へと移った。
大樹の上層デッキと、隣のトネリコの枝を結ぶ、長さおよそ十メートルの渡り廊下だ。
アルトが最も恐れたのは、二本の木が強風で互いに逆方向へと揺れた時、吊り橋が引きちぎられることだった。
そのため、アルトはトネリコ側の接合部に、ある独自の「緩衝ダンパー」を組み込んだ。
ロープの端をただ木の幹に縛り付けるのではなく、太いアカガシの丸太をくり抜いたシリンダーの中に、乾燥させた頑丈な革の積層パッドと、弾力のあるツゲの曲がり木を仕込んだのだ。
木が大きく揺れてロープが引っ張られると、この革パッドと曲がり木がギシッと圧縮されて衝撃を吸収し、元の位置へと滑らかに押し戻す。
自然の素材だけで組み上げた、木製の衝撃緩衝機構。
アルトは幾度も手でロープを引っ張り、ダンパーがスムーズに伸縮することを確認した。
主索には、フジの蔓と麻を編み上げた極太の「メインロープ」を四本用意した。
親指の二倍ほどの太さがあり、濡らした獣脂をすり込んで防水性と耐久性を極限まで高めてある。
まず一本目のロープの端をシロの首輪に結びつける。
「シロ、向こうの枝まで頼む!」
シロは低く一度喉を鳴らすと、軽やかに大樹の細枝を駆け抜け、宙を飛ぶようにしてトネリコの巨木へと飛び移った。四肢の爪が樹皮を捉え、音もなく着地する。
シロがロープをトネリコの太枝に回して咥え、アルトが地上でテンションを張る。
四本の主索が、二本の巨木のあいだにピンと張り渡された。
その上に、等間隔に穴を開けたクリの踏み板を一枚ずつ通し、ロープで編み上げていく。
吊り橋の構造だ。
両脇には腰の高さまで届く手摺りロープを張り、さらに下からの転落を防ぐため、細い蔓を格子状に編んだ防護ネットを隙間なく張り巡らせた。
ネットの網目は、アルトの握り拳が通らないほどの細かさにした。万が一、足を滑らせたり強風に煽られたりしても、身体が隙間からすり抜けることは絶対にない。
編み込みの作業だけで丸一日を費やし、アルトの指先は擦り切れ、爪の間は麻の繊維と木のヤニで真っ黒に染まった。
だが、その指の痛みのひとつひとつが、自分たちの命を守る確実な盾となっていく実感があった。
三日間にわたる不眠不休に近い作業の末、空中回廊は完成した。
風が吹くと、回廊はまるで大樹の呼吸に合わせて波打つように、ゆったりと優雅に揺れた。
ギシギシという不快な軋みはない。木とロープが互いの力を逃し合い、森の大気と一体化して揺れている。
「シロ、渡り初めだ」
アルトが手招きすると、シロは誇らしげに胸を張り、真新しいクリの踏み板に前足を乗せた。
スタ、スタ、スタ……
爪の音を立てて、シロが地上七・五メートルの宙空を軽やかに歩いていく。まったく怯む様子もなく、橋の中央で一度立ち止まり、吹き抜ける風に銀白の毛をなびかせながら、満足そうに目を細めた。
アルトも続いて足を踏み出した。
足裏に伝わる、クリの木の確かな硬さと、ロープの弾力。
下を見下ろせば、地上五メートルの下層テラスの屋根が眼下に広がり、そのさらに下には森の地面が遠く霞んでいる。
鳥になったような感覚。
少年の足取りは自然と速くなり、トネリコの木側に新設した展望デッキへと滑り込んだ。
この展望デッキは、六角形の形をしていた。
三方を頑丈な手摺りで囲み、中央には小ぶりな木製ベンチを据えてある。
頭上には、大きなホオノキの葉を幾重にも重ねて松脂で固めた、軽い雨除けのキャノピー(天蓋)を取り付けた。小雨程度なら濡れることなく、外の景色を観察し続けることができる。
そこからの景色は、アルトの言葉を奪った。
「…………すごい……」
視界を遮る木々の幹は、もう頭上にはほとんどない。
アルトの目線は、森の木々の梢――いわゆる「林冠」と同じ高さに達していた。
見渡す限りの深緑の絨毯。
木々の緑は一色ではない。萌黄、深緑、青磁色、若草色――幾重もの緑が太陽の光を浴びて波打ち、まるで巨大なエメラルドの海が呼吸しているかのようだった。
北には切り立った灰色の連峰が雪を頂いて神話の巨人のようにそびえ、南には境界の森の果てしない原生林が風にうねっている。
梢の間を、色鮮やかな小鳥たちが群れをなして飛び交い、アルトとシロのすぐ頭上を風を切って滑空していった。人間を見ても逃げようとしない。この高さにいるアルトたちは、森の生き物たちにとって、大地を這い回る外敵ではなく、樹上の住人として受け入れられているかのようだった。
そして――
南西の地平線の彼方。
森の緑が途切れ、荒涼とした灰色の平原が広がるその先に、アルトの知る「別の世界」が見えた。
――オルディス防壁都市。
黒く重苦しい外壁に囲まれた、人工の街。
地上にいた頃は、あんなにも巨大で、逃げ出すことのできない世界のすべてのように思えていた街が、ここから見下ろすと、まるで泥の海に浮かぶ小さな黒い四角形にしか見えなかった。
街の中央にそびえる魔力炉の煙突からは、薄汚れた灰色の煙が絶え間なく吐き出され、空を濁らせている。
あの煤煙の下で、大人たちは何をしているのだろう。
身分と家柄で人を値踏みし、持てる者と持たざる者を分け、役に立たないと見なした子供をゴミのように森へ放り出した冷酷な社会。
魔力炉の恩恵に縋りつき、限られたパンと硬貨を奪い合い、互いを監視し合いながら、冷たい石畳の上を這い回っている。
かつてアルトは、あの街に居場所がないことを嘆き、夜ごとに涙を流した。
自分はなぜ無能に生まれたのか、なぜ誰からも愛されないのかと、己の無力さを呪った。
「……でも、違ったんだ」
アルトは展望デッキの手摺りを両手で握りしめ、静かに呟いた。
風が少年の前髪を揺らし、硬く引き締まった額を撫でていく。
声に怒りや怨嗟はなかった。
ただ、澄み切った確信と、完全な精神的断絶の意志だけがあった。
「あそこが、世界じゃなかった。あんな狭い檻の外に、こんなにも広くて、自由な世界があったんだ」
あんな灰色の檻の中で飢えと侮蔑に怯えて暮らすよりも、この緑の海のてっぺんで、風の音を聞きながら道具を作り、シロとともに生きる方が、何千倍も誇らしく、美しい。
もう、あそこへ戻る必要など、爪の先ほどもない。
あの街が明日どうなろうと、魔力炉が爆発しようと、自分たちの知ったことではないのだ。
シロがアルトの足元に寄り添い、冷たくなった少年の指先をペロリと温めた。
ふたりで並んで見つめる夕暮れ。
西の空が、茜色から紫、そして深いインディゴブルーへとグラデーションを描きながら沈んでいく。
地上の森は急速に暗闇へと沈んでいくが、地上七・五メートルのこのデッキには、最後まで太陽の残光が黄金色のスポットライトのように降り注いでいた。
空が、近かった。
手を伸ばせば、宵の明星の冷たい輝きに指先が届きそうなほどに。
その夜、ふたりは真新しい上層デッキの床の上に干し草のマットを敷き、毛皮にくるまって眠りについた。
隙間風は吹き込まない。壁の板の継ぎ目には、樹皮の繊維と蜜蝋を練り合わせたパテが隙間なく詰められていた。
天井の天窓を開けると、真上に広がる満天の星々が、まるでガラスのドームのように寝床を包み込んでいた。
大樹が夜風に吹かれてユラリと揺れるたび、ハンモックに揺られているような心地よい微動が全身を撫でる。
シロの温かい吐息が、アルトの首筋にかかる。
少年のまぶたは重くなり、深い、安らかな眠りの中へと落ちていった。
だが、その静寂のただ中で。
大樹の根元で回り続ける青銅歯車から、一本の細い光の筋が、大樹の導管を伝ってツリーハウスの床下へと伸びていた。
アルトが敷き詰めたスギの床板の継ぎ目から、かすかな、かすかな青い光の粒子が、まるで蛍のように空中へと立ち上り、眠る少年の頬を優しく照らしていた。
少年が「ただの居場所」として組み上げた木組みの構造物は、すでに地脈のエネルギーを循環させる「神殿の器」として機能し始めていた。




