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第049話:沈黙のテラス、巨石の回廊

巨大な青銅歯車を発見した峡谷のさらに奥へ、アルトとシロは足を踏み入れていた。

 川の水流は次第に細くなり、切り立った巨岩の裂け目を縫うようにして、昼間でも薄暗い枯れ谷がどこまでも続いていた。

 両脇の断崖絶壁は天を衝くようにそびえ立ち、頭上に見える空は青い一本の細い帯のようだ。

 崖の割れ目からは細い湧き水が白糸のように滴り落ち、濡れた玄武岩の岩肌を黒々と濡らしている。


 空気の匂いが、境界の森のそれとは明らかに違っていた。

 春の若草や腐葉土の甘い香りの奥に、何千年ものあいだ外気に触れずに封印されていた古い石材の冷気と、落雷のあとのようなツンとした乾いたオゾンの匂いが、ひんやりと漂っていた。

 先を歩くシロが、濡れた岩肌を音もなく飛び移りながら、ふと立ち止まって振り返った。

 その金色の瞳が、アルトを手招きするように前方の深い影を指し示している。


「……シロ、ここ、道になってるのか?」

 アルトは立ち止まり、足元を見下ろした。

 足裏に触れる感触が、川原の丸みを帯びた砂利とは違っていた。平らで、水平で、足を踏み込むたびに硬質な反発が返ってくる。

 アルトは腰から小刀を抜き、表面を厚く覆っていた泥と小石を削ぎ落とした。


 ――ガリ、ガリッ……

 泥の下から現れたのは、幅一間(約一・八メートル)もある滑らかな石畳の連なりだった。

 青みがかった硬い玄武岩を精密に長方形に切り出し、敷き詰めた舗装道路。

 驚くべきは、その施工精度だった。

 石と石の継ぎ目には漆喰やモルタルの類が一切使われていない。それなのに、小刀の薄い刃先を差し込もうとしても、紙一枚すら通らないほど完璧に密着している。

 オルディス防壁都市の石畳とは比べ物にならない。都市の道は、凹凸が激しく、雨が降れば泥水が溜まり、冬になれば霜柱で石が持ち上がってガタガタに崩れていた。

 だが、この古代の道は、何百回もの大洪水の激流に洗われ、何千年もの歳月に晒されながらも、一ミリの沈下も狂いも起こさず、地平の彼方へと吸い込まれるような完璧な水平を保っていた。


「人間が……作ったのか? こんな山奥に……」

 アルトは息を呑み、シロの後に続いてその石畳の上を一歩一歩踏みしめて進んだ。

 靴の破れた親指から伝わる、古代の石のひんやりとした滑らかさ。

 道は枯れ谷の最奥――行き止まりの巨大な垂直の岩壁へと向かって、緩やかな弧を描きながら続いていた。


 そして。

 切り立った崖の角を曲がり、枯れ谷の最深部に辿り着いた瞬間――

 アルトの息が、喉の奥で完全に止まった。


「…………嘘だろ……」


 巨木と絡み合った岩壁の斜面に、それが埋もれていた。

 崖そのものをくり抜いて作られたかのような、巨大な「半円形の石造テラス」。

 テラスの直径は、優に十間(約十八メートル)を超える。

 その外周には、大人の胴体の二倍以上もある太い六本の円柱が天を支えるようにそびえ立ち、その柱頭には、見たこともない複雑な幾何学の彫刻が刻まれていた。

 円と直線、渦巻きと多角形が組み合わさった、星図のようなレリーフ。よく見ると、それらは単なる装飾ではなく、春分や秋分の太陽の軌道、そして現代の天文学者が誰も知らない未知の星座の運行周期を幾何学的に表現した天体時計の役割を果たしていた。

 柱と柱の間を繋ぐ梁の石材は、一本で重さ数十トンはあるだろう巨石の切石だ。

 人間が滑車やテコで持ち上げられるような規模ではない。神話の巨人族が山を切り崩して作った宮殿か、天空から落ちてきた神殿の遺跡。


 アルトは呆然としながら、石段を一段ずつ踏みしめ、苔に覆われたテラスの中央へと足を踏み入れた。

 テラスの中央には、高さ三尺(約九十センチ)、幅五尺ほどの、真っ黒な黒曜石のような祭壇――いや、操作盤のような平らな直方体の台座が据えられていた。

 周囲の石柱が風化して苔生しているのに対し、その黒い台座だけは、まるで昨日設置されたかのように埃ひとつ寄せ付けず、鈍い光沢を放っていた。


 アルトはしゃがみ込み、台座の天板を厚く覆っていた深緑の苔を、素手でそっと剥ぎ取った。

 ――サリ、サリ……

 湿った苔の匂いとともに、黒曜石の滑らかな肌が現れる。

 それを見た瞬間、アルトの心臓が激しく早鐘を打った。


 台座の天板の表面。

 そこに刻まれていたのは、無数の細い、髪の毛ほどの細さの溝だった。

 中心に刻まれた同心円。

 そこから放射状に伸びる三本の直線と、それらを複雑に結ぶ幾何学の曲線パターン。

 その溝の角度、曲率、そして比率。

 アルトは息を呑み、足元に寄り添うシロを見下ろした。


「……シロ、お前の背中……」

 アルトは震える手で、シロの白銀の毛並みをそっと掻き分けた。

 シロの背中の中央を貫く、あの蒼い筋の模様。

 その模様の両脇に現れ始めていた、微細な幾何学の紋様。

 アルトは木炭の粉を取り出し、台座の溝とシロの紋様を照合した。

 ――狂いがない。

 コンパスで測ったかのように、一分(約三ミリ)の誤差もなく完全に一致していた。

 この黒い台座は、シロと同じ「何か」によって作られ、同じ言語で刻まれているのだ。


「シロ……お前は、ここを知っているのか?」

 アルトの問いかけに、シロは答えず、台座の縁に前足を乗せた。

 その金色の瞳が、台座の中心にある手のひら大の窪みを見つめている。

 人間の手の形をした、浅い窪み。

 大人の手にしては少し小さく、子供の手にしては少し指が長い、奇妙なサイズ。


 アルトの胸の奥で、激しい葛藤が渦巻いた。

 触れてはならないのではないかという、生物としての本能的な恐怖。

 こんな未知の古代遺物に触れれば、呪いを受けるかもしれない。あるいは大爆発が起きて消し炭になるかもしれない。

 だが――それ以上に強い抗えない好奇心と、自分の身体の血がこの場所を「知っている」という不可思議な引力が、少年の右手を前へと動かした。

 都市から追放され、死にかけていた自分を救ってくれたシロ。

 そのシロが、この場所へ自分を導いたのだ。ならば、逃げるわけにはいかない。


 アルトは右手を伸ばし、自らの手のひらを、その黒い台座の窪みへと重ね合わせた。


 ――ピタリ。


 少年の掌のサイズと、古代の窪みが、まるでアルトのために掘られたかのように寸分の狂いもなく合致した。

 少年の五本の指が、黒曜石の溝に吸い付くように収まる。


 その瞬間だった。


 ――トクン……ッ。


 台座の奥深く、大地の心臓から、確かな「鼓動」が響いた。

 同時に、アルトの脳裏に、閃光のようなヴィジョンが一瞬にして駆け抜けた。

 この大地の下層深くに張り巡らされた、無数の青い導管のネットワーク。大地の血管のような水脈が、森の中央にそびえるあの大樹の根元へと集中し、やがて星の自転に合わせて呼吸を始める巨大な青写真――

 続いて。


 ――ゴゴゴゴゴゴゴ……ズズズズズ……ッ!!


 枯れ谷の岩盤の遥か下層から、途方もない質量が動き出す重低音が轟き渡った。

 台座の幾何学の溝に、青白い液状の光がサッと満ち、六本の巨大な石柱の彫刻が、一斉にコバルトブルーの燐光を放って唸りを上げた。

 足元の石畳が微かに熱を帯び、空気中のオゾン臭が一気に濃くなる。


 枯れ谷の奥の岩壁の裂け目から、プシューッ……と、温かい清浄な蒸気が勢いよく噴き出した。

 大地の底で眠っていた熱水と清流の巨大な弁が、少年の掌の接触によって、何百年、何千年ぶりかに切り替わったのだ。

 噴き出す水蒸気は、氷のように冷え切っていた枯れ谷を一瞬にして春の温もりで包み込み、岩肌の苔たちが青々と瑞々しい命を吹き返し始めた。

 それだけではない。乾ききっていた岩の割れ目から、見たこともない古代のシダ植物が青白い胞子を撒き散らしながら瞬く間に芽吹き、純白の小さな花々が星のように咲き誇っていく。死の谷が、一瞬にして生命の楽園へと蘇生したのだ。


「っ……!」

 アルトは驚いて手を引っ込めた。

 光は静かに収まり、台座は再び物言わぬ黒い石へと戻った。

 だが、枯れ谷の空気は完全に変わっていた。

 大地の深層から温かい水蒸気と豊かな生命のエネルギーが、川底の巨大歯車の方角へと向かって、目に見えない大河のようにゴオオオと流れ始めていた。


 シロがアルトの顔を見上げ、低く喉を鳴らした。

 その瞳は告げていた。

 この古代テラスは、大地の循環を司る「制御中枢」であり――

 そして川底に沈むあの青銅の巨歯車は、このシステムに命を吹き込み、動力を全身へと送り届ける「駆動器官」なのだと。


 アルトは拳を強く握りしめた。

 胸の奥で、かつてない創造の炎が燃え盛っていた。

 運ばなければならない。

 あの川底の巨歯車を引き上げ、自分たちのツリーハウスの大樹へと組み込まなければならない。

 捨てられた少年と白い獣の秘密基地作りは、失われた神話の心臓を自らの手で再生させる、壮大な物語の扉を開こうとしていた。

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