第040話:足音のないシロ
木片を床に置き、アルトは作業台から立ち上がった。
素足の裏に触れる床板の冷たさ。
部屋の隅、乾いた干し草の寝床に座っていたシロが、アルトの動きに合わせて、静かに立ち上がり、こちらへと歩み寄ってきた。
その歩行の姿を目で追った瞬間、アルトの全身の産毛が、ゾワリと逆立った。
――スッ……スゥ……
音がない。
部屋の中に、生き物が歩く音が、ただの一欠片も存在しなかった。
アルトの脳裏に、半年あまり前の記憶が鮮烈に蘇った。
あの初夏の頃、手のひらに乗るほど小さかった子犬のシロは、ツリーハウスの床板の上を、タタタタと小気味よい爪音を響かせて駆け回っていた。
小さな爪が木肌を引っ掻くカツカツという硬い音。
時折足を取られてコロンと横倒しになり、慌てて起き上がっては「キャン!」と悔しそうに声を上げて、アルトを笑わせていた愛らしい姿。
スープの鍋に鼻先を近づけすぎて湯気にくしゃみをし、床板の節穴に鼻先を突っ込んで抜けなくなり、クゥクゥと情けない声でアルトに助けを求めていた、あの泥まみれで、不器用で、命の熱を撒き散らしながら息を切らしていた小さな相棒。
けれど――今、アルトの前を歩いている生き物は、何なのだ?
肩までの高さはすでにアルトの腰骨近くに達し、引き締まった胸板と太い四肢を持つ、立派な大型の白銀獣。
体重は少なくとも二十キロ、いや、三十キロ近くあってもおかしくない巨躯。
なのに。
前足が床板に触れ、後ろ足が踏み出されるその瞬間、杉の厚板は一ミリの軋みも上げず、爪が木肌を擦る衣擦れの音すら立てなかった。
まるで、足裏の肉球と床板のあいだに、目に見えない空気の反発層が挟まっているかのように。
あるいは、大地が持つ引力そのものを、その白銀の肉体が半分受け流して宙に浮いているかのように――床の上を音もなく滑り、滑空するようにしてアルトの目の前まで歩み寄ってきたのだ。
「シロ……?」
アルトは息を呑み、思わず膝を屈めてシロの顔を覗き込んだ。
息の音が、聞こえなかった。
部屋の気温は、厳冬の冷気に包まれている。
アルトの口からは、一息ごとに白く濃密な蒸気が立ち上っていた。
なのに、シロの濡れた黒い鼻先からは、白い息がほとんど出ていなかった。
胸をじっと見つめても、肺が膨らみ、縮むという生き物なら当たり前の上下動が、恐ろしいほど希薄だった。
まるで、空気中の酸素を肺で取り込むのではなく、空間そのものに満ちる不可視のエネルギーを、全身の毛並みから直接摂取して体内で循環させているかのような、完全無欠の静止した生命活動。
「シロ……お前、息をしてるの……?」
アルトは耐えきれなくなり、両腕を伸ばして、シロの太い胴体を横から力いっぱい抱きしめた。
ぎゅっと抱きしめる。
毛並みは、柔らかかった。
厳冬の霜を弾く滑らかな白銀の毛は、ビロードのように細かく密集し、抱きしめたアルトの頬に確かな温もりを与えてくれた。
けれど――
その身体を床から持ち上げようと、腕に力を込めたその瞬間。
アルトの喉が、凍りついた。
(……軽い……?)
あり得ない軽さだった。
三十キロはあるはずの巨躯。普通なら、十一歳の少年が持ち上げるには腰を深く落とし、全身の筋肉を軋ませなければ持ち上がらないはずの質量。
なのに、アルトの腕の中に収まったシロの重みは、まるで羽毛を詰め込んだ大きな枕を抱えているかのように、フワリと宙へ浮き上がったのだ。
重力がない。
体積と質量が、物理の法則を完全に無視して破綻している。
「キュウ……」
腕の中で、シロが小さく喉を鳴らした。
その声だけは、あの春の日にアルトの懐の中で息を吹き返した時と同じ、鈴の音のように透き通った愛らしい声だった。
シロはアルトの腕から、液体のようにスルスルと身を滑り込ませて抜け出し、再び床板へと音もなく四本の足を着地させた。
そして、ふわりと身を翻すと、地上三メートルにある換気用の明かり窓の梁に向かって跳躍した。
助走も、踏み切りの力みもなかった。
まるで重力の向きが上へと反転したかのように、白銀の身体がフワリと宙を舞い、幅十センチほどの狭い梁の上へ、一筋の埃すら立てずにピタリと降り立ったのだ。
その瞬間だった。
――ポウッ……
アルトは目を見張った。
シロの四本の肉球が離れた床板の木目の表面に、淡いエメラルドグリーンの光の輪が、足跡の形にくっきりと浮かび上がっていた。
光る苔の明かりではない。
床板の内部、杉の木の繊維そのものが青白く励起され、シロが踏みしめた位置から波紋のように光の粒子がじわりと広がっていく。
光は木目に沿って走り、壁の集成材、そして大樹の主幹へと吸い込まれるようにして、静かに消えていった。
「……っ!」
アルトはその場に膝をつき、震える指先で、光の消えた床板をそっと撫でた。
木肌は、ほんのりと温かかった。
氷のように冷え切っていた床板が、シロが踏みしめた場所だけ、生命を取り戻したかのようにみずみずしい熱を宿していた。
梁の上にいたシロが、再び音もなく舞い降り、アルトの膝の前に座った。
アルトはおずおずと手を伸ばし、シロの右前足をそっと持ち上げた。
掌の上に、白銀の毛に縁取られた前足が乗る。
アルトは職人としての観察眼を研ぎ澄まし、その足裏の「肉球」を指先で撫でた。
普通の犬の肉球とは、根本から構造が違っていた。
ざらざらとした角質ではなく、極めて微細な微細構造――顕微鏡でしか見えないほどのミクロな六角形の幾何学パターンがびっしりと敷き詰められていた。指で触れると、吸い付くように滑らかで、同時にどんな鏡面の上でも絶対に滑らない超高摩擦の生体ナノクッション。
さらに、鋭い爪は硬質なチタン合金のように青黒い光沢を帯びており、地面に触れる瞬間だけ、肉球の奥深くに備わった鞘状の空洞へと無音で完全に引き込まれる「完全格納構造」となっていた。
音が出ないのも、床を傷つけないのも、魔法などではない。
極限まで洗練され、設計し尽くされた「生体工学の頂点」が、この相棒の足元に具現化していたのだ。
幻ではない。
自分が見落とそうとしていた現実が、足元の光と構造となって突きつけられていた。
あの春の日、冷たい泥水の中で凍えそうになっていた小さな毛玉。
自分が助け、泥を拭い、スープを飲ませ、名前をつけたこの白銀の生き物は――森の野良犬などでは決してなかったのだ。
人間が知る野生の法則の外側。
何千年も前に眠りにつき、大人が「呪われた魔境」と恐れて近づかなかったこの原生林の深淵で、世界の理そのものを司っていた神話の断片が、少年の愛とクラフトを吸い上げながら、本来の神聖なる形へと孵化し始めている。
「シロ……」
アルトの声が微かに震えた。
胸を刺し貫くような戦慄。
けれど――その恐怖と同じくらい、強く、激しく、この相棒を手放したくないという狂おしい執着が、少年の胸の奥底で燃え上がっていた。
神様でも、未知の怪物でもいい。
都市の人間たちが僕を捨てたあの冷たい雨の日、世界でたった一人、僕の凍えた指を温かい舌で舐めてくれたのは、お前だけだったのだから。
シロが静かに歩み寄り、立ちすくむアルトの冷たい頬に、そっと濡れた黒い鼻先を押し当ててきた。
フシュッと微かに漏れた温かい息。
金色の澄み切った双眸が、至近距離でアルトを見つめていた。
その瞳の中に揺らぐ深い愛と信頼の光は、あの日と何ひとつ変わっていなかった。
「……怖がったりして、ごめんな」
アルトは両手を伸ばし、シロの広い額を抱き寄せた。
白銀の毛並みに顔を埋めると、相棒の確かな体温が、アルトの凍りついた心を優しく溶かしていった。
アルトはカマドの灰を掘り起こし、熾火に枯葉と小枝をくべて火を熾した。
パチパチと心地よい爆ぜる音が響き、赤い炎がツリーハウスの部屋を温かく照らし出す。
鉄鍋で自噴泉の水を沸かし、乾燥させたドングリの粉と野蒜を溶かして、朝の温かいスープを作った。
二つの木皿にスープを注ぎ、湯気を立てながら分け合って食べる。
シロは美味しそうに舌でスープを巻き取り、満足そうに喉を鳴らした。
窓の外を見上げれば、音もなく粉雪が舞い散り、境界の森の梢を白銀に染め上げていた。
世界がどれほど不可思議に満ちていようとも。
この暖炉の火と、二人で分かち合う一杯のスープがある限り、少年と白い獣の歩みは決して止まらない。
アルトは空になった木皿を洗い桶に置き、シロの銀白の頭を愛おしそうに何度も撫でた。
足元の冷気を完全に遮断し、外の寒波に負けない温かい基地を作る――少年の職人魂が、静かに、そして力強く燃え上がっていた。次の冬支度へ向けて、二人の絆はより一層強固に結ばれていたのだ。相棒の温かい毛並みこそが、この過酷な世界を生き抜くための、何よりの道標だった。




