第123話:常春の空中庭園_星光蜂蜜と薬草ブランデー
主軸ジェネレーターの覚醒から一夜が明けた。
朝の光がシラ樫の梢を黄金色に染め上げる頃、秘密基地の中には、これまでとはまったく質の異なる豊かな生命の気配が満ち溢れていた。
ツリーハウスの東側に伸びる吊り橋を渡り、アルトとシロは地上十五メートルの枝上に広がる【空中温室庭園】へと足を踏み入れた。
ガラスの引き戸を開けた瞬間、ふわりと温かい湿り気と、百花が咲き乱れるような甘やかな芳香が二人の鼻腔をくすぐった。
「わあ……すごい、シロ、見てごらん!」
アルトが感嘆の声を漏らし、シロも大きな鼻先を空中にかざしてフンフンと匂いを嗅いだ。
温室の中は、自然の摂理と手作りの工学が見事に調和した、地上の楽園そのものだ。
昨夜通電した主軸ジェネレーターと地脈バイパスによって、大樹の樹液循環が最良の状態に達し、温室の床下に巡らせた温水パイプが絶え間なく柔らかな地熱を放っている。
天窓の超大型水晶集光レンズとアルミの反射ダクトは、早朝の淡い朝日を何倍にも清らかに増幅し、温室の隅々の苗床にまで、木漏れ日の雨のように降り注がせていた。
棚に並んだ木製のプランターでは、昨日まで硬い蕾だった星光草が一斉に青白い花びらを開き、夜露のような澄んだマナの露を滴らせている。
傷薬の原料となる銀葉草は、銀粉をまぶしたような肉厚な葉を何倍にも茂らせ、生垣の野茨には、ルビーのように赤く熟れた野イチゴが鈴なりに実を結んでいた。
ブゥゥゥン……ブゥゥゥン……
温室の梁に吊るされた丸太の巣箱の周りを、丸々と太った黄金色のミツバチたちが忙しなく飛び交っている。
冬の終わりにアルトが保護し、温室の砂糖水で命を繋ぎ止めた野生のハナバチたちだ。
巣箱は、アルトが中をくり抜いた白樺の丸太に、寒暖差を調節するための二重蓋と通気スリットを細工して作った特製品だ。
ミツバチたちは星光草の蜜をたっぷりと吸い込み、足に黄色い花粉団子を重そうにつけて、誇らしげに巣箱へと潜り込んでいく。
アルトが近づいても、針を立てて威嚇するような気配は微塵もない。毎日温室の手入れをし、新鮮な湧水を水飲み場に運んでくれるアルトの匂いを、家族として覚えているようだった。
「蜜蜂たち、すっかり元気になったね。巣箱の様子を見てみようか」
アルトは麻布で作った防護面を被り、燻煙器に乾燥させたスギの葉とヨモギを入れて小さな火を熾した。
ふいごをシュポシュポと押すと、薬草の清涼な香りを帯びた白い煙が立ち上る。
巣箱の入り口に静かに煙を吹きかけ、蜂たちを刺激しないように落ち着かせる。
燻煙の匂いに蜂たちが巣房の奥へと後退するのを見計らい、アルトは丁寧に木枠の巣板を一枚引き抜いた。
「うわぁ……ぎっしり詰まってる……!」
引き上げた木枠の六角形の巣房には、透明感のある黄金色の蜜が、表面張力でこぼれ落ちそうなほど満ちていた。
蜜蝋の白い蓋で綺麗に封がされた、完熟の証拠だ。
朝日にかざすと、黄金色の蜂蜜の中に、微細な星屑のようなエメラルドグリーンの粒子がキラキラと揺らめいている。
大樹の純粋な地脈エネルギーと、星光草の花蜜が結晶化した、伝説の「星光蜂蜜」だ。
アルトは温めたナイフの刃先を慎重に滑らせ、表面の蜜蝋をスルスルと削ぎ落とした。
切り落とした蜜蝋も貴重な資材だ。後で湯煎にして不純物を濾過すれば、革靴や木工品の防水ワックス、さらには夜の読書用の最高級アロマキャンドルになる。
巣板を手作りの木製遠心分離器にセットし、ハンドルをリズミカルに回転させる。
キィィィン……ピューッ、ピシャシャシャ!
遠心力で飛ばされた琥珀色の雫が、木桶の内壁を伝って底へと美しく滴り落ちていく。
立ち上る甘い香りは、嗅ぐだけで頭の芯がすっきりと冴え渡るほど清らかだった。
指先に付いた蜜を、アルトはそっと舐めてみた。
舌の上に広がるのは、市販の砂糖のような刺激的な甘さではなく、早朝の高原の風をそのまま凝縮したような、透き通った気品ある甘みだった。
喉を通る瞬間、カッと胸が温かくなり、ここ数日の激闘と連日の鍛冶作業で溜まっていた肩の凝りや指先の疲労が、朝露が消えるようにスーッと消え去っていく。
「おいしい……! こんなに澄んだ蜂蜜、生まれて初めて食べたよ」
アルトが木べらの先にほんの少し蜜をすくい、シロの口元へと差し出すと、シロはサファイアの瞳を輝かせ、温かな舌先でペロリと舐め取った。
直後、シロの耳がピンと立ち、喉の奥をごろごろと大音量で鳴らしながら、アルトの太ももに顔をすり寄せて「もっとちょうだい」とおねだりした。
「ふふ、シロも気に入ったんだね。でも、これは今日の朝ごはんの特製クッキーに使うから、少し待っててね」
アルトは木桶に溜まった星光蜂蜜を清潔なガラス瓶へと移し、熱湯消毒したコルク栓で固く封をした。小瓶で五本分もの極上の収穫だった。
続いてアルトが向かったのは、温室の奥の果樹エリアだ。
大樹の枝を誘引して作った棚には、昨年の秋に収穫して地下の貯蔵庫で追熟させておいた山葡萄と林檎が、糖度を極限まで高めて発酵を始めていた。
アルトはその果実酒の樽を抱え、温室の床下に設けた「地下蒸留工房」へと降りた。
蒸留工房の中央には、装甲列車の真鍮パイプと銅板を叩き出して自作した「アランビック型蒸留器」が据え付けられている。
主軸ジェネレーターから温水パイプを通じて供給される安定した熱源のおかげで、炭火のように温度が上下することなく、完璧な一定温度(七十八度)をキープできるようになっていた。
コトコト、コトコト……
銅製のボイラーの中で、発酵した果汁が静かに沸騰する。
立ち上ったアルコールの蒸気は、大樹の冷たい伏流水を循環させた冷却パイプの中を通り、一滴、また一滴と、無色透明の液体となってガラスの受器へと滴り落ちていく。
ポタリ、ポタリ……
アルトは蒸留の初期に出るメタノール混じりの「初留」を慎重に小瓶に分け、ランプの燃料用として退避させた。
そして、純粋なエタノールと華やかなアロマだけが凝縮された「本留」の液体を、別のガラス瓶へと受ける。
受器の口に鼻を近づけ、深く息を吸い込む。
立ち上る香りは、山葡萄の野生的な果実香と、オーク樽の木樽香、そして温室の乾燥ハーブの香気が一体となった、極上の「薬草ブランデー」の芳香だった。
アルコール度数約四十度。
この蒸留酒は、冬の寒さを乗り切るための最高の一杯になるだけでなく、外傷を消毒するための高純度アルコールとしても、さらには薬草のエキスを抽出するティンクチャー(薬草チンキ)の溶媒としても、秘密基地の医療を支える不可欠の財産だ。
「よし、蒸留も順調だ。次は朝食の準備だね」
アルトは収穫したばかりの星光蜂蜜の瓶と、野イチゴの小鉢を抱え、ツリーハウスのリビングへと戻った。
キッチンの石窯には、前夜から仕込んでおいた薪が熾火となって赤く輝いている。
アルトは水車小屋で挽いた粗挽きの全粒粉に、山羊の搾りたてバターと、細かく砕いたクルミ、そして先ほど採ったばかりの星光蜂蜜を贅沢に練り込んだ。
平たく丸めて鉄板に並べ、石窯の中へと滑り込ませる。
パチパチ、チリチリ……
石窯の熱でクッキーの生地が膨らみ、香ばしい小麦と焦げた蜂蜜の甘い匂いがリビングいっぱいに満ちていく。
焼き上がるまでの間、アルトは温室の星光草の乾燥茶葉を陶器のポットに入れ、沸騰したての湧水を注いだ。
青い花びらが湯の中でふわりと開き、エメラルドグリーンの美しいハーブティーがカップへと注がれる。
「シロ、焼けたよ!」
石窯から取り出した鉄板の上には、こんがりと黄金色に焼き上がった全粒粉の蜂蜜クッキーが、湯気を上げて並んでいた。
表面には、蜂蜜の糖分がキャラメル状に結晶化し、サクサクとした軽やかな歯応えを約束している。
シロの前には、特大の木皿に山盛りのクッキーと、カリカリに焼いた自家製干し肉、そして星光蜂蜜を一匙垂らした温かい山羊乳が置かれた。
「いただきます!」
アルトは温かいクッキーを一つ手に取り、サクッと口に運んだ。
口の中に広がるのは、濃厚なバターのコクと、全粒粉の香ばしい穀物の旨味。
そして何よりも、星光蜂蜜の華やかで澄んだ甘さが、噛み締めるたびに口いっぱいに広がり、幸福感で頬が自然と緩んでいく。
熱い星光草のお茶を口に含むと、ハーブの爽やかな清涼感が甘みを包み込み、心と身体の芯まで温かな活力が染み渡っていった。
シロも「ハフハフ」と音を立てながら、熱々のクッキーを幸せそうに咀嚼し、山羊乳を美味しそうに飲み干した。
最後の一粒まで舐め尽くすと、満足そうに前脚を伸ばし、アルトの膝の上に大きな頭を乗せて「ふぅ」と幸せなため息をついた。
窓の外を見下ろせば、春の光にきらめく境界の森がどこまでも広がり、小鳥たちが梢でさえずっている。
外の世界では、傲慢な帝国と教皇庁が、自らの作り出した魔導の毒と崩壊の足音に怯えていることだろう。
だが、この秘密基地の中には、自分たちの手で耕し、育て、収穫した、完全な自給自足の平和があった。
「シロ……僕たちは、本当に豊かな場所を作れたね」
アルトがシロの耳を優しく撫でると、シロは心地よさそうに目を細め、静かに喉を鳴らした。
拾った小枝とガラクタから始まった手作りの暮らしは、いま、どんな王侯貴族の宮殿よりも温かく、満ち足りた楽園として花開いていた。




