第105話:常春の空中温室、溢れ出す薬草と蜜蜂
シラ樫の大樹のデッキに立つと、まだ肌を刺すような早春の冷気が頬を撫でていく。
原生林の木々はようやく固い冬芽をほどき始めたばかりで、谷底の残雪はまだところどころに白い斑点を残していた。
だが、空中回廊の木製扉を押し開け、二重の羊毛カーテンをくぐった瞬間――
ボワッと、春の盛りを思わせる暖気と、むせ返るような甘い草花の香りが全身を包み込んだ。
「ふぅ……中に入ると、本当に別世界だね」
アルトが鹿革の上着を脱ぐと、後ろからついてきたシロも心地よさそうに長い毛を震わせ、温室の板張りの床に寝そべって大きなあくびをした。
室温は摂氏二十四度。湿度は六十パーセント。
天窓に据え付けられた魔導水晶の巨大集光レンズが、柔らかな黄金色の光を温室の隅々まで均等に降り注がせている。
大樹の幹を巡る生体マナ配管と床下の温泉温水パイプが協調し、外の寒風を完全に遮断した「天空のサンルーム」は、いまや奇跡のような生命の小宇宙を形成していた。
温室の木枠に沿って階段状に配置された多段式のプランターには、アルトが丹精込めて土壌改良を施した黒土がぎっしりと詰まっている。
その土壌は、ただの山土ではない。
冬の間に溜め込んでおいたブナの腐葉土、灰炉から回収したカリウム豊富な木灰、炭焼き小屋の微細な木炭粉、そして水車小屋の底に沈んでいた魚の骨粉を最適な比率でブレンドし、団粒構造を作り上げた特製用土だ。
さらに、土の中には森の湿地から集めてきた何百匹ものミミズが放たれており、彼らが土を耕し続けることで、常にふかふかで空気を含んだ理想的なベッドが維持されている。
そして何より、この温室を満たしているのは「音」と「香り」だった。
ブゥゥゥン……ブゥゥゥン――
柔らかな羽音を立てて、黄色と黒の縞模様を持つ丸っこい虫たちが、花から花へと忙しなく飛び交っている。
南向きの換気小窓から呼び寄せた、「野生のクロミツバチ」たちだ。
アルトが杉の厚板をくり抜いて作った「トップバー式巣箱」を温室の梁の上に設置し、入り口に薄めたハッカ油と糖蜜を塗っておいたところ、三日前に森から女王蜂を連れた群れが丸ごと移住してきたのだ。
天敵である鳥やスズメバチが侵入できないこの温室は、蜜蜂たちにとっても天国のような楽園だった。
「みんな、今日も一生懸命働いてくれているな」
アルトは目を細め、プランターの縁に腰を下ろした。
ミツバチたちが受粉を手伝ってくれたおかげで、苗床の植物たちは信じがたい速度で実を結んでいた。
まず目を引くのは、プランターから滝のようにツルを垂らしている「野生のイチゴ」だ。
森の崖下からほんの小さな親株を数本採取してきただけだったものが、大樹のマナ光と集光レンズのエネルギーを浴びて幾重にもランナーを伸ばし、青々とした三つ葉の絨毯を広げていた。
その葉の陰には、大人の親指の先ほどもある大粒のイチゴが、宝石のルビーのように赤く熟れ、艶やかな果皮に朝露の粒を宿している。
アルトは完熟した一粒を指先でそっと摘み取った。
ヘタの根元まで鮮やかに真紅に染まった果実は、指で触れるだけで果汁が弾けそうなほどの張りがある。
そのまま口へと運ぶ。
プチッ、と薄い果皮が弾けた瞬間、濃厚な甘みと爽やかな酸味が、豊かな芳香とともに口いっぱいに広がった。
「ん……! あまい……! 野生のイチゴって、もっと酸っぱくて硬いイメージだったのに、信じられないくらい果肉が柔らかくてジューシーだ」
都市の貴族たちが口にする温室栽培のイチゴなど足元にも及ばない。
大樹が地底深くから汲み上げた高純度の湧水と、古代マナの生命活性化作用が、果実の中に凝縮されているのだ。
アルトが感嘆の声を漏らしていると、シロがスッと鼻先を膝の上に乗せて、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせて見上げてきた。
「シロも食べる? はい、どうぞ」
大粒のイチゴをもう一粒摘んで掌に乗せると、シロは器用に舌先で巻き取り、サクッと噛み砕いた。
次の瞬間、シロの大きな耳がピーンと立ち、目を細めて嬉しそうに喉をグルグルと鳴らした。
神話の霊獣であっても、甘くて瑞々しい果物の魅力には抗えないらしい。シロはもっとくれとばかりに、前足でアルトの膝をポンと叩いた。
「ふふ、あとで蜂蜜と一緒にたくさん食べようね。まずは薬草の収穫をしてしまわないと」
アルトは立ち上がり、隣の区画のプランターへと向かった。
そこには、銀白色の柔毛に覆われた葉を持つ「月見草」と、強い芳香を放つ「鎮静香草」が、青々と茂っていた。
月見草は、かつて冬の初めにシロの傷を癒すために使った貴重な薬草だ。
森の中では雪の下に埋もれて探すのすら困難だったが、この温室の中では太い根をしっかりと張り、夜になると白く可憐な花を咲かせるまでになっていた。
アルトは剪定用の鉄ハサミを手に取り、育ち盛りの株の成長点を残しながら、薬効成分が最も凝縮されている下葉と、余分な側枝を丁寧に刈り取っていった。
カチ、カチ、と小気味よい金属音が響く。
刈り取った葉を竹編みのザルに広げると、清涼感のあるハーブの香りが立ち込める。
「この月見草の葉と根は、乾燥させて粉末にしてから、以前搾った山胡桃の油に漬け込んで湯煎しよう。そうすれば、帝国軍の傷薬よりも遥かに効き目の早い『高純度治癒軟膏』ができるはずだ」
これから先、帝国軍との衝突や予期せぬ事故が起きないとも限らない。
医療資源の自給は、この秘密基地の存続において生命線となる。
無限に供給される高品質な薬草の苗床を手に入れたことは、防壁やバリスタの配備に勝るとも劣らない大きな前進だった。
そして、作業台の脇に置かれたもう一つの収穫対象――天井梁の「蜜蜂の巣箱」へと目を向けた。
アルトは燻煙器に乾燥させたスギの枯葉を詰め、火種を入れてふいごをシュポシュポと押した。
ノズルから立ち上る白い煙を、巣箱の隙間からそっと吹き込む。
煙の匂いを嗅いだミツバチたちは、山火事と錯覚して腹いっぱいに蜜を吸い、攻撃性を失っておとなしくなる習性がある。
アルトは麻布の防護面をかぶり、静かな手つきで巣箱の蓋を持ち上げた。
蓋の裏側に渡された木製のトップバーには、六角形の美しい幾何学模様を描いた「巣板」が、ずっしりと何枚もぶら下がっていた。
そのすべての小部屋が、黄金色に透き通った濃密な蜜で満たされ、白く薄い蜜蝋のフタで隙間なく密閉されている。
「うわあ……すごい。もうこんなに溜まっている……」
アルトは歓声を押し殺しながら、一番端の、蜂児(幼虫)がいない完全に蜜だけで満たされた巣板を一枚、慎重にナイフで切り離した。
手に持つと、ズシリと重い。一枚の巣板だけで一キログラム近くの蜂蜜が蓄えられている。
蜜蝋のフタを専用の平刃ナイフで薄く削ぎ落とすと、中からトロリと、黄金の雫が糸を引いて溢れ出してきた。
トチノキの花、月見草の花、野イチゴの花――温室と森の花々の精髄が集まった、一切の加熱も混ざり物もない「百花蜜」だ。
アルトは工作棟で以前作っておいた、小型の「手回し遠心分離機」の木樽に巣板をセットした。
ハンドルを握り、滑車を回す。
キュルルルル……と心地よい回転音が響き、遠心力によって巣板の小部屋から無数の黄金の飛沫が弾け飛び、木樽の内壁を伝って底へと流れ落ちていく。
樽の底の蛇口をひねると、細かな布フィルターを通して、ガラス瓶の中へと極上の蜂蜜がトポトポと注ぎ込まれた。
光を透かすと、琥珀色に輝く液体が神々しいほどの光沢を放っている。
指先に少しだけつけて舐めてみた。
「…………っ!」
アルトは息を呑み、琥珀色の瓶を光にかざした。
舌の上でとろけた瞬間、圧倒的な芳醇さが鼻腔を突き抜けた。
ただ甘いだけではない。大樹のマナの清冽な気配、野花の爽やかな微香、そしてキャラメルのような深いコクが複雑に重なり合い、体に染み渡るようにエネルギーが満ちてくる。
「これは……すごいよ、シロ。こんな美味しい蜂蜜、帝国中のどの貴族も食べたことがないはずだ」
シロが待ちきれない様子で足元をウロウロし、クゥンと甘えた声を上げた。
「よし、朝ごはんにしよう!」
アルトは収穫したばかりの蜂蜜の瓶と、ザルいっぱいの野イチゴを抱え、中央居住棟のキッチンへと戻った。
薪窯の鉄板には、水車の自動製粉機で挽いた挽きたての全粒粉小麦を使って、昨晩から発酵させておいたパン生地がこんがりと焼き上がっている。
丸く膨らんだ焼きたてのパンを取り出すと、香ばしい小麦の香りとパチパチというクラストの割れる音が食欲を刺激した。
アルトはパンを二つに割り、まだ湯気が立ち上る純白のクラムの上に、採れたての蜂蜜を惜しげもなくたっぷりと垂らした。
黄金の蜜が熱でジュワッとパンの気泡に染み込んでいく。
その上に、真っ赤な野イチゴを崩して乗せる。
シロの木製ボウルには、温めたヤギのミルクを注ぎ、そこに大さじ三杯の濃厚な蜂蜜を溶かし、完熟イチゴを浮かべた。
「いただきます」
アルトは大きく口を開け、蜂蜜とイチゴが乗った焼きたてパンにかぶりついた。
サクッ、ふわっ、ジュワァァ――
外側のカリッとした皮の香ばしさと、もっちりとしたパンの甘み。
そこに絡み合う熱々の蜂蜜の濃厚なコクと、野イチゴの爽やかな果汁の酸味。
噛み締めるたびに、至福の味が口の中で爆発した。
「おいしい……! 本当においしい……!」
シロも夢中になってボウルに顔を突っ込み、ハフハフと音を立てて蜂蜜ミルクとイチゴを平らげている。
あっという間にボウルをピカピカに舐め尽くすと、満足そうに鼻の頭に白いミルクの泡をつけたまま、アルトの顔を見て「もっと!」と甘えるように喉を鳴らした。
厳しい冬を乗り越え、自分たちの手で作り上げた完全自給の楽園。
寒さにも、飢えにも、誰からの搾取にも怯える必要のない、豊かで温かな生活がここにはあった。
アルトは最後の一口を飲み込み、胸の奥底から湧き上がる温かな充実に浸っていた。
だが――
カチリ。
静寂の戻ったツリーハウスの床下から、かすかな、しかし硬質な音が響いた。
「……え?」
アルトはパンを飲み込み、動きを止めた。
シロも鋭く耳をそばだて、床面をじっと見つめている。
コチ、コチ、コチ、コチ……――
それは、風の音でも、木の軋む音でもない。
精密に噛み合わされた金属の歯車が、数百年、数千年の沈黙を破って、ゆっくりと規則正しく回転を始めたような「機械の鼓動」だった。
音は大樹の主幹――温室の床下を抜け、さらに奥深く、以前見つけたあの古代の配線盤のあたりから響いてきているようだった。
「シロ……今の音、聞こえたよね?」
シロは低く唸る代わりに、静かに立ち上がり、居住棟の奥にある樹皮の扉へと足を進めた。
大樹の内部で、何かが目覚めようとしていた。




