第二十六話 ノンフィクション
大阪に行くまでの約一週間の間、執筆の日々が始まった。みおりは筆が乗ると、寝食を絶ってまで書いてしまう傾向がある。あれからシャツワンピースのままコンタクトだけオフして黒縁眼鏡の状態で、キーボードを叩き続けて空が白み始めた午前五時半、スマホが震えて手に取ると千穂からのショートメールだった。
『美織さん、おはよう』
みおりは微笑んで、すぐに返す。
『おはよう、千穂くん。』
『ごめん起こした?』
『ううん。あれからずっと、里紗ちゃんに言われたノンフィクション書いてた。』
見ていた画面が着信する。千穂だ。みおりはスマホを耳に当てた。
「もしもし」
『美織さん』
「うん、おはよう」
繋ぎにスカジャンを羽織り、大きな黒いボストンバッグを肩にかけ、駅に向かってアーケード商店街を歩きながら話す千穂は、何故だか機嫌が悪かった。
『美織さん、寝てねえの?』
「あ、うん。でも大丈夫。モノカキって、平気で三日くらい徹夜するから」
ギリギリの締め切り前には、編集の小関も寝かせまいとあの手この手を仕かけてくる。みおりの中ではそれが当たり前の事だった。だが千穂にとってはそれは当たり前ではないらしい。不機嫌さを隠そうとして失敗していたが、辛抱強くみおりを説得し始めた。
『美織さん。俺もバンドやってた頃はライブやって朝まで打ち上げして、そのままバイト行ったりしてたから、あんまえらそうな事は言えねえけど』
「うん」
『その頃の俺、今思えば身体も心もボロボロだった。好きな事やってるから楽しいような気がしてたけど、ちっちぇえ事でメンバーと殴り合いになったり。インディーズの奴らってそういうの多くてさ。知り合いが何人も、行方不明になったり精神を病んだりしてた』
初めて語られる千穂のネガティブな過去に、みおりは少しの間絶句した。その声には癒える事のない痛みがにじんでいる。
「……そうだったんだ」
ようやくみおりは絞り出した。今まで千穂には与えて貰うばかりだった。みおりも千穂に、何かを返したいと強く思った。
『だからさ。説教臭くなっちゃうけど。ちゃんと寝てちゃんと飯食って、その上で書いて欲しい。これは、俺からのお願い』
みおりは「お願い」という言葉が千穂らしいなと思う。上からの意見ではなく、フラットな立場からの願いが込められている。まず礼を言うべきだと思った。
「千穂くん、ありがとう。今まで徹夜して書くのが当たり前だったから……そんな風に心配して貰ったの初めてで、ちょっとびっくりした。分かった。ちゃんと寝てご飯食べる。これから昨日の分寝ることにする」
千穂は、スマホの向こうでほっとした顔をする。
『そっか。じゃあ、おやすみだな』
「そうだね。今おはようって言ったところだけど」
『もう寝る?』
「うん。千穂くんの声聞いたら、なんだか安心して……眠くなってきちゃった」
みおりは小さくあくびを噛み殺しながら笑う。
『そっか。じゃあちゃんと寝て』
「うん。おやすみなさい、千穂くん」
『おやすみ、美織さん』
みおりはまた通話が切れるのを少し待ったが、やはり千穂の方から切る事はなくて、一つ微笑んでから終話ボタンを押してスマホを伏せた。『エゴサをしない』という約束は今は頭から抜け落ちていたが、執筆意欲の方がまさってスマホをいじる時間が惜しかった。
顔を洗う方が好きなので滅多に使わなかったが、洗面台に向かい拭き取るタイプのクレンジングでメイクオフして、オールインワンのジェルをサッとつける。シャツワンピースを脱いで洗濯かごに入れ、いつものグレーのスウェットを着込んでベッドに直行した。千穂の言った通り、アドレナリンが出ていて平気に思えていたが、久しぶりの徹夜で身体は疲れきっていたらしい。横になって布団に潜ると、すぐにまぶたが落ちてみおりは規則正しい寝息を立て始めた。
* * *
ピーク時の七時台よりは空いていたが、そこそこ混み合う六時台の電車の中で吊り革に掴まり、千穂はみおりの本を読んでいた。
『結局合鍵は返して貰えず、引っ越す事でしか大輔からは逃げられないと悟る。何回目になるのか、なるべくひと気の多いファミリーレストランでの別れ話に彼が頷き、ほっとして帰ったマンションには二人で撮った写真が切り刻まれて散らばっていた。私の顔に、ばつ印をつけるように切れ込みが入っている。この恋がようやく終わりを迎えた時には、もう二度と恋なんて出来ないんじゃないかと魂が疲れきっていた。 了』
最後の一行を読み終わる。思ったより時間がかかってしまったが、無事に一冊目の『秋葉原大輔の場合』を読破した。汚さないようにキッチン用の透明のビニールパウチに入れてチャックを閉めてから、千穂は足の間に置いたボストンバッグの外ポケットにしまう。胸ポケットから携帯を取り出して、千穂はボタンを連打し始めた。そこで目的の駅に着き、千穂は携帯を握ったままボストンバッグを提げて電車を降りる。ひと気のあまりない早朝の繁華街を歩きながら、千穂はショートメールをつづった。
やがていつもの現場に着くと、マンション前に見慣れた小型のワンボックスカーが止まっている。中に人は居ない。千穂はボストンバッグから、シャンパーとスクイジーが収められたホルスターを取り出して腰に装着し、車のバックドアを開けてバケツを手に取った。バケツの中にはヘルメットが入っていて、それも被って顎のバックルを留める。バケツの中に特殊な洗剤を入れてから、提げてマンション横に向かった。水道の蛇口があり、清掃時は取り外し式のハンドルが差し込まれた状態なので、洗剤を希釈して三分の二ほど水を入れる。重くなったバケツとボストンバッグを持って自動ドアをくぐると、中庭や複数の建物があるタイプのマンションで、すでにグレーの繋ぎを着た数人が千穂と同じ装備で集まっていた。
「おはようございます」
* * *
三脚に乗って一人、自動ドアのセンサーを切って何枚にも渡る入口のガラス上部を手を伸ばし届くところまでスクイジーで切っていく。千穂は三脚を移動させ、また上部をまとめて切った。残りは下部だ。三脚をガラス面の横に移動させ下部を切っていると、グレーの繋ぎを着た五十代の男性が声をかけてきた。
「佐藤、そこ終わったら昼入っていいよ。一時まで」
「分かりました」
床面に落ちて溜まった水をポーチから出したタオルで拭き取る。三脚に乗り上部にある自動ドアのスイッチを入れてドアが開くのを確認してから、千穂はホルスターとヘルメットを外し三脚に留めて、汗で張りつく前髪を適当にかき乱しながら従業員室に向かった。
「お疲れ様です」
ノックをして入室すると、マンションを常駐管理している四~五十代の女性二人が出迎えてくれた。
「水道お借りします」
「はい、どうぞ」
しっかりと手を洗い、胸ポケットから猫のキャラクターのハンカチを出して拭うと、千穂は置かせて貰っているボストンバッグから巾着袋を取り出しスカジャンを羽織って部屋を出た。従業員たちと同じ部屋で世間話をしながら昼休憩を取る作業員も居たが、千穂は世間話が出来るというのは一種のスキルだと思っていて、自分にはそれが欠けているのを理解していた。中庭の隅で階段に腰かけ、握ってきたラップで包んだ大きめのお握りを二つ、黙々と食べる。食べながら携帯を取り出して、松ケ井にショートメールを打った。
『松ケ井、お疲れ様』
『ようやく一冊読んだから、もう少し借りてていいか?』
休みなのか向こうも昼休憩なのか、返事はすぐに来た。
『お疲れ様です』
『いいですよ』
『さんきゅ』
そう返して胸ポケットにしまおうとしたら、また着信した。
『佐藤さん』
『昨日の事SNSで広まってます』
松ケ井は大事な事だけ知らせると言っていた。昨日の行動が知られたところで後ろめたい事はないが、松ケ井を信じて尋ねてみる事にした。
『フォトスタジオに行った事だろ』
『それだけじゃなくて』
『従業員が撮ったみたいで』
『子ども二人の写真』
『如月みおりの隠し子だって事になってます』
千穂は若干動悸がするのを意識した。スタジオは閉鎖空間で、数人のスタッフはみな親切だった。あの笑顔の裏で、誹謗中傷をしている人間が居るという事か。この七年間そんな人生を送ってきたのだとしたら、みおりが何もかもを諦める心境になっているのにもようやく納得がいった。もしかしたら、自分の好意は迷惑なのだろうか。一瞬そう考えてしまって、千穂はかぶりを振った。
『その写真、顔はっきり分かるか?』
『いえぼんやりです』
不幸中の幸いとでも言おうか、千穂は小さく吐息した。
『教えてくれてさんきゅ』
『またなんかあったら頼む』
『分かりました』
そう会話を終え、遊具のあるキッズルームの窓から見える子どもたちを眺めてしばし食事を摂る。お握りを全て平らげペットボトルのブラックコーヒーを飲んでから、小手に電話をかけた。
『もしもし』
「小手さん、今大丈夫ですか」
『うん、今昼休み』
別の現場の屋上で、小手と松ケ井は休憩中だった。松ケ井はスマホに目を落としていて、小手はその横で煙草を一服しながら千穂と話す。
「来週の連休、日月と休み貰いたいんですけど」
『珍しいな。そっちの現場か?』
「いえ。ちょっと用事あって大阪行くんで」
『大阪? もしかして如月みおりと?』
訊いてから、小手は思い直したようだった。
『あ、いや。プライベートだもんな』
「今度話します。それからハンカチ、ありがとうございました。美織さん喜んでました。洗って返します」
『そっか。上手くいったか』
「はい。一生の思い出にするって言ってました」
『そりゃよかった』
「じゃあ、休みお願いします」
『分かった。んじゃな』
「はい、失礼します」
電話を切って胸ポケットにしまう。キッズルームの窓から三歳くらいの女児がジッとこちらを見ていた。千穂は笑顔を見せる。女児もぱあっと笑顔になって、小さな手を振った。千穂が軽く手を上げて応えると、女児は照れ笑って母親の元へ駆けていく。それを眺めながら、千穂はブラックコーヒーをまた一口飲んだ。




