第二十四話 家族会議
里紗が寝たあとで決まったらしく、朝起きるとテーブルには朝食と共に千穂の書き置きがあった。新聞は取っていないからチラシもなく、前に千穂が学校に持ってきた小さなノートを破り取った物だ。朝シャンを終えてから初めてそれに気づき、手に取って長い髪をブラシで梳かしながら読んだ。
『里紗へ 今日の夜出かけるから、夜飯はあっためて食って。あと大事な用事で次の連休家空けるから、鈴の世話と留守番頼む。今日帰ったら、ちゃんと説明するから。 千穂』
里紗は呟いて笑んだ。
「美織さんかな?」
ダイニングテーブルに伏せていたスマホのアラームが鳴る。止めてから、里紗は二階への階段を上がっていった。
「りーん! 朝だよー!」
鈴を起こして一緒に朝食を摂って、近所の保育園まで手を繋いで連れていく。毎朝のルーティンだった。
「おはようございます!」
制服にポニーテールの里紗が、園の前で立ち話をしている見知った顔の女性たちに笑顔で元気よく挨拶をする。いつもなら挨拶が返ってきて天気の事など一言交わすが、今日は曖昧な会釈のあとまるで無視をするように会話に戻っていった。少し違和感を感じたが、話が盛り上がっているのだろうと気にせず園内に入って保育士にも挨拶をする。
「おはようございます!」
里紗を真似るように、横で鈴も挨拶をした。
「おはようございまーす」
「あ……佐藤さん、鈴くん、おはようございます」
「聞いてください! 鈴、こないだピーマン食べられるようになったけど、人参もだいぶ食べるようになりました」
「そうなんですね」
「お兄ちゃんのお友だちに新しい絵本も貰って、睡眠時間も足りてます」
「よかったです。園でお友だちとも問題なく遊べてます」
「いつもありがとうございます。鈴、お願いします」
「はい、お預かりします。行ってらっしゃい」
グギギ、とぎこちなく首が傾いで、貼りつけたような笑顔で応対される。里紗も急いでいるのでそれに言及する暇はなかったが、鈴に手を振り保育士には一礼して背を向けたあと、思わず「ん?」と呟いて自分の格好を見下ろした。何処かおかしいだろうか、と。きちんと制服を着ている。おかしなところはない。わずかに首をひねったが、また気のせいだろうと思い直して駅に向かい通学路を辿った。
* * *
五時間目は現代国語だった。演技に興味を持つくらいだから文章の読み込みは得意で、教師がご丁寧に黒板に文字起こしする『筆者の気持ち』や『何処にかかる修飾語か』といった授業は退屈で、一応ノートは取るがあくびを噛み殺し睡魔と闘いながら終業のチャイムを迎える。特に千穂が毎日作って置いていってくれる弁当を食べたあとだから、どうしたって眠い。おかずは前日の夕食の残りと冷凍食品が主だったが、いつも入っている甘い味つけの卵焼きが大好きだった。現代国語の教科書を机にしまって時間割を見ると、次は日本史だ。
――うわ。また眠くなりそ。
日本史の教師は白髪の高齢教師で、教科書を一から十まで音読し、内容をそっくりそのまま黒板に書く。正直自習しているのと変わらないような授業と悪い意味で評判だった。
「佐藤さん!」
「はいっ」
眠くてボーッとしていたところを突然数人の女子に囲まれて、思わず里紗は折り目正しい返事をしてしまう。見回すと、他のクラスの女子三人だった。正直話した記憶も顔の覚えもなく、接点がない。彼女らはなんだか不自然にも感じるにこやかさで話しかけてきた。
「佐藤さん、一緒に写真撮らない?」
「えっ? なんで?」
ストレートに訊いてしまうところは、千穂譲りだ。今日感じた三回目の違和感だった。
「えー、可愛いからー」
適当な理由をつけ、三人はきょとんとしている里紗を囲みポーズを取って、使い捨てカメラで無理やり自撮りしようとする。
「佐藤さんちょっと来て!」
だがクラス委員長の必死とも取れるトーンの叫びに、里紗はパッと立ち上がった。
「ごめんあとでね! どうしたの?」
立ち去る背中に舌打ちされたような気がしたが、委員長の方が優先だ。委員長は飛びつくようにして里紗の手を引き、教室の隅の窓際に連れて行ってカーテンの中に入った。
「ど、どうしたの? │田辺さん」
驚く里紗に、田辺は切迫した顔で握った手に力を込めた。
「ごめんね、佐藤さん。佐藤さんがSNSやってないの知ってるから、お節介かもしれないけど」
その真剣な言葉に、里紗も表情を引き締める。
「うん、何?」
「佐藤さんのお兄さんって、千穂さんていう?」
「うん。えっ。なんで?」
「今、ネットで炎上してる。今朝、特定班が佐藤さんの事も特定して……だからあの子たち、写真撮りに来たんだと思う」
「何……それ」
未知の世界だが、兄が『炎上』しているという事実は飲み込めて愕然とする。田辺はポケットからビニールで個包装されたマスクを一枚取り出した。
「これ着けた方がいいと思う。ごめんね、お節介で」
「ううん。守ってくれてありがとう。これ貰うね」
マスクを受け取りカーテンから顔を出してかけ時計を確認すると、あと二分で授業が始まる。カーテンの中に戻ってから、田辺に急いで言った。
「ごめん、田辺さん。あたし今日は帰る。体調不良だって、先生に言っておいて貰える?」
「うん、分かった。気をつけてね」
* * *
千穂は黒いボストンバッグを肩にかけ、玄関の階段を上がりながら携帯で時間を確認した。十六時半前。表参道までは四十五分もあれば着くから、風呂に入って身支度を整えるのに十分だろう。繋ぎの胸ポケットに携帯をしまい、入れ違いに鍵を出して開け、家に入る。リビングでは、制服のままダイニングテーブルに着き、里紗がスマホを見ていた。
「ただいま」
だが里紗はスマホに集中しているのか、返事はなかった。里紗のスマホは0GBの基本料金0円プランだから、オプションで見ているのだろう。ふと不安になった。今、里紗が滅多に見ないスマホに釘づけになっている事に。
「里紗?」
ボストンバッグを下ろして横顔に声をかける。やはり返事はない。
「鈴は?」
「部屋で寝てる」
ようやく会話が成立した。
「お兄ちゃん」
「ん」
「美織さんて……ネットで有名人なの?」
千穂はやっぱりか、と天井を見上げた。思わず反問する。
「SNS見てるのか?」
「隠し子が八人居るとか、元カレがうじゃうじゃ居るとか、知ってる?」
無表情でスマホを見ながら話す里紗に、千穂は厳しい声を出した。
「里紗は……美織さんがそういう人だと思うのか?」
沈黙が落ちて、千穂が話し始める。
「俺スマホ買ってやった時に言ったよな。ネットより、自分の目で見て耳で聞いた事の方を信じる人間になれって。美織さんがそんな人だと思うのか? 里紗」
「分かんないよ」
ようやく目が合う。
「あたし今日、学校で知らない子たちに写真撮られそうになった。友だちが、お兄ちゃんが炎上してるって教えてくれて、早退してきた」
「早退?」
「お兄ちゃんは勝手に炎上してるくせに、あたしの早退は責めるの?」
「あ、いや」
きつい声が出てしまって、千穂は慌てて取り消す。千穂は選択してSNSに触れない人生を歩んできたが、里紗はスタートから0GBプランで触れる機会そのものがなかったから、真偽の区別がつかなくても仕方ないのかもしれない。里紗の隣に屈み、座る里紗より視線を低くしてから手を伸ばす。
「里紗。きちんと話すから。こっち向いて」
「うん」
里紗は椅子に対して直角に座り、千穂を見下ろす。千穂はその手に軽く触れた。
「ごめん。これは、俺が炎上して里紗に迷惑かけた事と、今お前の早退を責めた事に対しての謝罪。でもな」
誠実な表情と声音で、里紗を真っ直ぐに見詰めて話す。
「美織さんとの事は、間違いでも後ろめたい事でもないから、謝罪はしない。里紗がどう思ってんのかは分かんないけど、俺たちその……付き合ってるとかじゃないから。美織さんは迷惑かけたくないからもう会わないようにしようって言ったけど、俺が我がまま言って会って貰ってる。友だちとしてな」
「友だち……?」
「うん。美織さんは誹謗中傷の被害者。少しだけどそれを知ってる俺が恐いみたいだから……まずは友だちになって貰った」
里紗が何かを言おうとして口を開きかけ、だが言葉を選ぶように視線を逸らし、しばしあってから慎重に話し出す。
「つまり……隠し子も元カレも嘘って事で合ってる?」
「うん。美織さんに関する事で言えば、ほとんどが根拠のない誹謗中傷だし。こないだテレビで言ってた。仮に本当の事でも、無闇に噂を流せば名誉毀損なんだって。だから、知りたくなるかもしれないけど、わざわざ嘘の書き込みに惑わされにいくのをやめて欲しいんだ。……出来るか? 里紗」
里紗は千穂の瞳を覗き込む。真面目で、曲がった事が大嫌いな、里紗の自慢の兄だった。
「分かった。もう見ないし、信じない」
千穂はほっとした表情を見せる。
「でも、うちには鈴だって居るんだよ。炎上が収まってくれないと、あたしだって困る」
里紗は素直に言葉をつづる。
「そうだな」
千穂も率直に語る。
「今日これから、美織さんと会うんだ。また誤解が生まれる前に話すけど、美織さんのお母さん病気だから、俺が婚約者のふりして大阪に会いに行って親孝行を手伝う事になってる。今日は、その時に渡すウェディングフォトを撮りに行く」
「えっ、ほんと?」
想像していたのとは違う反応が返ってきて、千穂は少し戸惑う。里紗は嬉しそうだった。
「うん」
「それ、見に行っちゃ駄目?」
「え。どうだろ。たぶん見学は自由じゃないかな。訊いてみないと分かんないけど。鈴も連れてくのか?」
「うん。鈴の世話はちゃんとあたしがするから」
「分かった。訊いてみる」
立ち上がり、繋ぎの胸ポケットから携帯を取り出す千穂に向かって、里紗は大きく笑って見せた。
「炎上の事だけど。あたしに考えがあるんだ。美織さんと話したい」
「ん? うん」
携帯に目を落としてボタンを連打しながら、千穂は生返事をするのだった。




