奔走編 旅立ち①
前章のあらすじ。
完璧令嬢エスメラルダは、冤罪によって次期王妃としての誇りと立場を奪われた。
修道院行きや極刑が囁かれる中、自由を選んだ彼女は元家庭教師のレオンの手を取り月夜の晩に屋敷から逃走、令嬢エスメラルダとしての生を捨て、復讐を誓う少女エルとしての生を選んだ。
彼女の怒りと絶望の感情と身に宿る大量の魔力が、エルの髪を黒く染める。
そんな彼女の長い旅が始まった。
アステリア王国は世界の中心にある王国である。
建国は四百年前で、建国より王政を敷く君主制国家だ。
巨大な島の大部分を領土として、北部の山岳地帯と南部の諸島地帯でそれぞれ他の国との国境を配置してある。
国の中央にある王都アステリオンは比較的平穏で、治安も安定しており平民も穏やかな生活が今のところは約束されているが王都から離れるほど治安は乱れ、国の中央から離れると魔物と呼ばれる魔力を蓄えた危険な生物が多数跋扈するのである。
そして、この魔力というのはこの世界ににあるエネルギー源の一つである。
この世界の人間は時折、体内にこの力を宿して産まれることがあるのだ。
魔力持ちの親同士の婚姻で、子供が魔力を持って産まれる確率は高くなると言われているが、親が魔力持ちではなくとも子供が突然魔力を持つこともある。
その原理は今のところ不明だが、魔力を持っていたとしても魔法と呼ばれる魔力を具現化できる術を使役できるのは魔力持ちの中でも一握りであり、魔法使いは選ばれしものだけがなれる特別職なので、一般庶民にとって魔法使いを見たことがあるものは稀である。
エルもまた魔力持ちの生まれではではあるが、魔法の類は使えない。
そもそも公爵令嬢である彼女が魔法使いになる必要もない。
魔法を使えるものは大体が、彼らの親も魔力持ちの上に魔法使いである事が多くその術は一子相伝が基本で、他人に教えようとする魔法使いはあまり存在しなかった。
それでも彼女の体内に溜まっている魔力の量は通常の魔力持ちよりも多いと、幼い頃に屋敷に招いた魔法鑑定士により診断されたことがあった。
なので昨夜断髪の直後にエルの髪が、エルの怒りに連動するかのように突然黒く染まっていったのはおそらくだがその魔力の強い影響だろうとのことである。
「私は魔力待ちではないので、専門的な知識はないのですがエル様のように感情を激しく動かした魔力持ちの体に異変が起こることはそこまで珍しくは無いようです」
レオンはそう言って、昨夜怒りに任せて切り落としたエルの髪を、鋏で綺麗に整えた。
散髪もできるんだと元恩師の器用さに感心しながら話を聞いていたエルは改めて鏡に映る自分を覗き込んだ。
「へぇ、まぁ良いじゃない。私は気に入ったわ、この色」
昨夜までのエスメラルダを象徴するような金髪の麗しのロングヘアは、夜の闇のように黒く染まっている。
ナイフで感情のままに切ったのでぱっつんと髪の先が綺麗に揃えられていたが、流石に思うことがあったのかレオンはエルの髪を整えると言い出したのでお願いすることにした。
「こんなに短くしたのは生まれて初めて、これなら洗うのも楽そうね」
「奥様が見たら、卒倒されるでしょう」
レオンは苦笑すると、作業を終えたのかエルの周りに巻いていた布を取り払い、散髪するにあたってあたりに散らばった髪の毛を集めた。
「いい感じね。ありがと……レオン」
エルは別人のような姿になった自分を鏡で見ながらくるりとその場で回ってみせた。
肩につくくらいの髪は新鮮で、とても頭が軽い。
「お気に召したのなら何よりですエル様」
快活な黒髪の少女の瞳はエメラルドのように生き生きとしている。
まるで昨日までの生きた人形のようだったエスメラルダの面影は消えていた。
「今の私を見て、エスメラルダだってわかる人がいたらよほど私のファンだった人ね」
「私は、あなたがエル様だと分かる自信がございますよ」
「さすが自称忠実な駒ね。なら、これから街に行って身支度を整えようと思うのだけど、ご同行願える?」
「光栄です『お嬢様』」
かつて、ありし日の家庭教師と公爵令嬢のようなやりとりを半笑いで行いながらエルは出かける支度をした。
昨夜のうちに、エルの屋敷のある王都は抜け出して今は街道沿いのそこそこの大きさの交易都市まで来ている。
おそらくだが、まだこの街にはエルを追ってくるであろうロデリッツ公爵の私兵は訪れてはいないだろう。
「ねぇ、レオン私はあなたが公爵令嬢誘拐の罪でしょっ引かれるなんてごめんだわ。いざとなったら絶対に逃げてね」
「それは出来ません。あなたを置いて一人にするくらいなら、刑場に吊るされるほうがマシです」
「ふふ……その忠誠心の重さに免じて死ぬまで走って逃げるわ」
そんなやりとりをしていると、気づけば街の中心の商店が並ぶエリアに着いた。
道をたくさんの人が行き交い、道の両サイドにはさまざまな露店が軒を連ねている。
「お嬢ちゃん、新鮮な林檎だよ!いかがだい?」
「へぇ、美味しそうおいくら?」
「銀貨1枚だよ」
「……じゃあ一つ頂こうかしら」
青果の露天の店主からエルは赤いりんごを受け取り、代価を払う。
店の売り上げと思われる貨幣の入ったカゴには、いま彼女が支払った銀貨以外の貨幣はなかった。
まだ朝が早くて客がいないのかもしれないし、店主の男性が金品は別のところに保管してあるのかもしれないが。
「レオン、はんぶんこしましょう」
りんごは何の変哲もない普通のりんごだ。
半分に割るとなかなか甘そうな具合に黄金色の蜜が詰まっている。
「また物価が高騰したのね」
半分にしたリンゴを齧りながら、エルは呟いた。
庶民の利用する市場に降りたのは久しぶりだが、その時の市場ではりんごひとつを購入するのに流石に銀貨までは不要だったと記憶してしている。
「先王様亡き後、国土は深刻なほどに荒れております。王国の騎士団が王都近辺しか巡回しないせいで魔物の生息エリアは年々拡大して、城壁のない街は常に魔物の影に怯えており食糧を運ぶ馬車にも従来よりも強固な護衛を求められております」
「それじゃ物価が上がるのは仕方ない。それに今の王妃様の政治は、あまり褒められたものじゃないものね」
往来のど真ん中で、国の悪口を話すという聞く人が聞いたら罪に問われてもおかしくない行動をするエルを特に嗜めることもなくレオンは受け取った半分のりんごを大切そうに抱えた。
食べないのかと、自分の分を平らげたエルは指についた果汁を舐めながら不思議そうにレオンを見ていると二人に向かって第三の声がかかった。
「しかも次の王位継承者も更にロクでもないやつなんだぜ、なぁあんたそのリンゴ、食わねえなら俺にくれよ」
「断る。これは俺が貰ったものだ」
やってきた青年にエルは見覚えがあった。
私服姿を見たのは初めてだが、エルは学園の生徒の顔と声は全て記憶している。
あの愚かで醜い人間たちの中で唯一まともだった彼のことは忘れることなど出来ずにいた。
「あんたエスメラルダだろ?髪型が違うけどすぐわかったぜ」
そう言って姿を現したカイル・ガラハッドは、人好きのする笑顔を向けてニッコリと笑った。
奔走編開始です。
エルの逃走旅が始まります、奔走編は出会いの章です。学園編よりはコメディ寄りに執筆していきます。