第8夜 多動
草陰で凍りつくように固まったままの3人。
彩香が笑実の手を引き剥がした。
「ぷはっ…はあっはあっ…あいつ、許さねえ!!」
恐怖と怒りの均衡で保っていた天秤はとうとう傾き、彩香は男の後を追おうとする。
ビシッ!!
「落ち着いてって言ってるでしょ!」
明里が彩香の頬を叩く…
冷静さを保つ為に力一杯噛んでいた明里の下唇の血と涙が、混ざり合って地面に滴る。
その様子を見た彩香に冷静さが戻った。
「ごめん、明里…。」
「笑実動ける?」
明里が笑実の顔を覗き込む。
笑実は恐怖で言葉を発せないのか、下を向いたまま小刻みに何度も頷く。
「よし、門は諦める。
フェンスを乗り越えてここを出よう。」
「フェンスからなら出られるのか?」
明里が答えを持ってないことをわかっていても、彩香の何かにすがりたい気持ちが尋ねてしまう。
「わからない…けど、早くここを出ないといけないのだけはわかる。
ここでじっとしていてアイツと鉢合わせたら、次は私達が殺されるかもしれない。
とにかく今は危険を覚悟で動くべきだと思う。」
「そ、そうだな…」
彩香も最初からそうすべきだとわかってはいたが、その答えを避けていたかった気持ちを抑え、同意する。
「でもフェンスまで行くにはあのエントランスを通らないと…
もうアイツがあそこにいない保証なんてないけど、一緒に行ってくれる?」
明里が笑実の肩に手を置く。
笑実は先程より多少落ち着いたのか、「大丈夫」と力無く呟いた。
「じゃあ行くよ。2人とも絶対に離れないでね。」
3人はひと塊になり、ゆっくりとエントランスの方へと向かっていく。
3人が隠れている草木からエントランスまでの距離、およそ20m。
普通に行けば2分もかからないだろう。
しかし忍び足で、細心の注意を払いながら進む3人にはその距離が数時間にも感じられた。
道には猫の血が点々と続いている。
エントランスまでの距離、残り10m。
ツンとした匂いが3人の鼻をつく。
何の匂いか気になるが、今はそれどころではない。
エントランスに着いたー
大男の姿は無い。
ポストからは入りきらない猫の下半身が飛び出していて、他の各部屋のポストにも所々に血痕が付いている。
この惨状を横目に恐怖を必死に抑えながらエントランスを通り過ぎようとしていた時、彩香がふと右のドアを見た。
つられて明里と笑実も振り向く。
『うわぁぁああああああ!!!』
全員が悲鳴をあげた。
ガラスドアの向こう側に三輪車が置かれており、かごの上には収まりきらない少女の頭部がこちらを向く格好で置かれている。
傍に横たわるのは頭の無い少女の身体と真っ赤なランドセル。
次の瞬間、少女の亡き骸の奥から火の手が上がる。
あっという間に団地が火災に包まれた。
明里はパニックになっている彩香と笑実の手を取り、必死に走り出す。
「走って!」
全員で中庭を駆けるー
ドンッ!!
後方から衝撃音が鳴り響いたー
アイツだ。
あの大男が2階の廊下から中庭に飛び降りたのだ。
「グケケケケケケケケケケケケケケケケケッ」
気味の悪い笑い声をあげながら大男が追る。
髪がなびき、大男の顔が露わになった。
大きな口に牙のような黄色い歯、吊り上がった目は山なりになっていて満面の笑みを浮かべている。
追い付かれるー
突然彩香が大男に向かって走りだした!
「ダメッ彩香!!」
明里が叫ぶ。
「ウォラーー!!」
彩香は走り込みながら大男のみぞおちに跳び後ろ回し蹴りを叩き込むー
ドンッ!
ガシッ
自分の腹の前で彩香の右足を掴む大男は、何事もなかったかのように嗤う。
「ふふふっふふっ」
メキメキッ!ゴキッ!
「ギャアアアアアアアアアアアアッ」
彩香が悲鳴をあげる。
掴まれている右足が握り潰された。
その様子を見て嗤う大男は、右手の大きな刃物を彩香にかざすー
刹那
大男の動きが止まる。
後ろに居る"何か"に気付いたからだ。
大男の陰に隠れてしまっている為、3人からはよく見えない。
だがそれでもわかる、確かに"何か"がいる。
先程まで愉悦に溢れていた大男の表情が、徐々に恐怖の色に染まっていく。
何にしろ、今が彩香を救えるかもしれない唯一のタイミングには違いない。
金縛りが解けたように明里が(あかり)一気に大男の方へと走る。
数秒遅れて笑実も続く。
2人は彩香の身体を抱き抱え、大男から引き離そうとするが、大男は微動だにせず、彩香の足を離さない。
凄まじい力だ。
彩香の右足は大男の太い手首の下でプラプラと揺れている。
彩香は痛みで意識が朦朧としているのか、ぐったりとした様子。
2人は必死に彩香の身体を引っ張る。
ブシャアアアアー!
突然大男の首が飛び、明里と笑実に血しぶきが降り注いだ。
2人は大男の返り血で真っ赤に染まる。
何が起きた?
しかし今は彩香の身体を引き離す事以外はどうでもいい。
とにかく、大男は絶命したのだ。
しかし頭部の無い大男の身体は、相変わらず右手で刃物を振りかざし、左手は彩香の足を掴んでいる。
ドンッ!!
突然明里と笑実は彩香を抱き抱える格好で倒れ込んだ。
大男が突如として消えたのだ。
血痕以外は綺麗さっぱり跡形もなく。
何が起こっている?
めまぐるしく変わる状況に思考が追い付かないまま、逃げられる状態になったという事だけは理解した。
明里と笑実はぐったりした彩香を必死にひきずりながらフェンスを目指す。
後方にフェンス、前方では建物が燃え上がっている。
フェンスに着いた…が、無理だ。
彩香を抱えながら乗り越えられる高さじゃない。
「明里こっちよ」
明里の左方から女性の声が聞こえた。
振り向き、声の出所を確認する。
「貯水槽…あそこだっ!笑実こっち!」
なぜかはわからない。
ただ藁にもすがりたい状況で自分を導く声が聞こえたのだ。
選択肢など無い。
明里は貯水槽の方へと笑実を誘導する。
貯水槽もフェンスに囲まれているが、施錠された扉には内鍵がついている為、内側からは簡単に開けられる仕様になっている。
「私が中に行って鍵を開けるから彩香をお願い!」
明里がフェンスをよじ登る。
「明里!」
笑実が建物の方を見ながら叫ぶ。
明里もフェンスに身体を預けながら目を凝らす。
ゆっくりと黒い何かが近付いてくる。
何だ?大男ではない。
とても小さい何か…
…子供だ
真っ黒な子供。
髪が胸まである細身の少女。
背丈から察するに小学生ぐらいだろうか。
近付いてくるにつれ、姿がハッキリする。
ドス黒く焦げた肌に、全体的にススがかったかすかに白いワンピース。
全体が黒いせいで強調される大きな瞳。
裸足で右手には大きな刃物を持ち、無表情で近付いてくる。
火事で逃げ遅れた人?
いや、そんなわけがない。
少女の風貌は明らかに異様だ。
大男より禍々しい雰囲気を感じる。
「明里(あかり早く!」
笑実が先程より大きな声で叫ぶ。
それに応えるように明里は無我夢中でフェンスを乗り越えた。
途端
笑実の悲鳴が聞こえた。
「キャアアアアアアアアアアアアッ!!」
黒い少女が笑実と彩香の目前に迫っている。
ーガチャッ
フェンスのドアが開いた。
「笑実っ!」
明里が必死に笑実と共に彩香を引っ張る。
彩香の意識が戻ってきた。
状況を把握できぬまま明里と笑実に引っ張られる。
バタンッ、ガチャッ!
危機一髪
明里が既の所でフェンスのドアを閉めた。
黒い少女はフェンスの前でこちらを見ながら立ち尽くしている。
その顔に表情は無い。
「早くこっちへ!」
明里が貯水槽への短い梯子を登り、蓋を開けた。
黒い少女は振り子運動のように長い髪を振り乱し、首を左右交互に激しく傾けている。
目の前の光景が恐ろしい。
早く元の場所に戻りたい。
そんな思いが明里の頭をよぎる。
貯水槽の中の水にぼんやりと何かが映っている。
海…と、広大な丘の上で天を見上げる人々…その上に流れているのは星…
「天海ヶ丘だ!」
元の世界の光景に胸を躍らす明里。
この貯水槽が出口だと、直感が言っている。
明里は飛び込む決意をした。
「先に彩香を!」
笑実が彩香を支えながら梯子を掴ませる。
「うっ!」
彩香は折れた右足首の痛みに耐えながら必死に登る。
その下からは彩香を支えるように笑実が登っていく。
ガシャガシャッ!ガシャガシャッ!
黒い少女がフェンスを揺らし始めた。
明里の全身が総毛立つ。
明里はなるべく黒い少女を見ないようにして上から彩香を引き上げる。
「よし、早く中へー」
ガシッ!
笑実の左手と彩香の左足に、人の手に掴まれる感覚ー
いつの間にか黒い少女が貯水槽に張り付いていた。
次の瞬間、ものすごい力で2人を引きずり落とし、寸前まで彩香の右手を掴んでいた明里は、勢いでバランスを崩した。
貯水槽へと落下するー
ガッ!
何とか貯水槽の開口部に手と肘を引っかけ、かろうじて顔だけ外に出し、建物の方を見る。
中庭で彩香と笑実が黒い少女に引きずられていく光景が見える。
「キャアアアアアアアアアアアア!!」
「離せっ、はなっ、明里ぃぃぃいい!!」
黒い少女と友人達は燃え盛る建物の中へと消えていった。
「彩香!笑実!」
叫ぶ声虚しく…
やがて明里は力尽き、貯水槽へと落下した。
かすれていく意識の中、水中から見えた月の光は爛々と赤く佇んでいた。




