3章 3話 東の森
バニラが大きな鞄を背負うと、その重さで後ろに倒れそうになった。
鞄には、木の水筒が大量に詰められている。
「いくらなんでも、多すぎないか?」
「これでも不安なくらいだよ」
うだるような暑さの中、俺とアイサとバニラは、事務所を出発した。
街の東端に着くと、石畳の道路は途切れていて、建造物もなくなった。
森の入り口まで、手の加えられていない草地の真ん中に、道が一本長く伸びている。
もちろん、舗装はされていないが、一応人が歩くためにあるようだ。
地図を広げ、先頭を歩くバニラに付いて、鬱蒼とした森に入っていく。
人影はなく、時折リスのような小動物が、木の上や地上を駆けていった。
出発してからずっと、大量の汗が体中から吹き出し、滝のように流れている。
森の中は、日差しが緩和されるかわりに、風がなく陰湿な暑さが籠もっている。
荷物も最低限にしてきたが、この環境で、道のない森を歩くのは相当疲れる。
人間の俺でこの疲労感なのだから、人魚のバニラにとっては地獄だろう。
「ハーフで行動範囲が広いのはいいけど、こんなハズレくじ引くなんてな」
バニラに話しかけると、首を振った。
「私には、これくらいしかできないから。レンとアイサこそ、私のせいでごめんね」
「人魚の泉が汚れたのは、バニラのせいじゃないだろ」
バニラのせいではなく、人間のせいだ。
「バニラたちは、俺たち人間に対して、その、怒ってないのか?」
「実を言うとね、人魚の中にはなんで人間に――みたいな子もいるんだよね」
人魚の中には、人間を良く思っていない者もいる。
それは、泉を汚されたからではないだろうか。
おそらく人魚の泉が汚れるたびに、泉の女神様が浄化しているはずだ。
今回は、その女神様の力が弱まっているせいで、こんな状況に陥っている。
つまり、ずっと泉は汚され続けているということだ。
人魚たちが、人間に対して良い印象を持っているわけがない。
じゃあ、ハーフのバニラはどうなる。
バニラは口にしていないが、複雑な事情があるのかも知れない。
バニラが俺たちの方を向いて、
「でも私は、二人に頼んで良かったって思ってるよ」
そのとき、木々の上から何かがたくさん落ちてきた。
サッカーボールくらいの大きさで、水風船のような質感。
「なんだ?」
その何かは、バニラの鞄に大挙して群がった。
アイサが叫ぶ。
「スライムだよ!」
スライムたちは鞄を漁り、水筒を器用に開け、中の水を飲み始めた。
「ダメええええええええええ――」
バニラが慌てて、鞄を持って逃げていく。
俺とアイサで、スライムを捕まえては、遠くに投げる。
しばらく格闘した後、スライムたちは退散していった。
「モンスター出るのかよ」
俺が呟くと、アイサが呼吸を整えながら、
「この辺りはまだ入り口だし、弱いモンスターはうろうろしてるのかも」
バニラが水筒を一つひとつ確認すると、悄然とした表情になった。
「なんてこったい……全部飲まれてる」
「マジかよ」
地図を預かれば、俺とアイサでも到達できるかも知れないが、バニラをここに置いていくわけにはいかない。
人間の姿を保てなくなれば、文字通り一歩も動けなくなってしまう。
魔水晶が手に入っても、帰ってくる頃には、干物が出来上がることになるだろう。
炎天下の中、長時間歩き回るということで、俺も自分の分の水分を持ってきている。
それをバニラに手渡し、
「やばくなったら、これ飲めよ。俺は水を探してくる」
「私も行くよ。まだ少しの間、動けるから」
そう言うバニラを制し、
「動き回ったら水分を使うんじゃないか? ここでおとなしく待ってろよ」
バニラは渋々頷き、
「魔水晶が採れる場所の近くに、大きな川があるの。この森には、その川に合流するように小川がたくさん流れてる」
西の方向を指さした。
「ちょっと歩くけど、あっちにその小川の一つがあるよ。地図持ってく?」
地図を見せてもらったが、よく分からないので、受け取らなかった。
「アイサはバニラの傍にいてやってくれ。またスライムが現れたら、大変だし」
「分かった。レン、気をつけてね」
空になった水筒に水を満たすために、小川を目指して、森の中を突き進む。
元の場所へ帰れるように、一定の間隔で、木に落ちている石で傷を付けていく。
しばらく歩いたが、川らしきものは見当たらない。
一応携帯しているスマホで時間を確認すると、正午過ぎだった。
また一段と、気温が上がったのではないだろうか。
歩を進めるにつれ、意識がぼんやりとしてきた。
ほとんど変わらない景色を歩いていると、時間と場所の感覚が曖昧模糊としてくる。
こんなことが、前にもあったような気がする。
いつ、どこで?
記憶の糸を手繰り寄せる。
あれは確か、小学校低学年のときの遠足だ。
七月の猛暑の時期、時計台市の市立公園。
そこは森林と隣接していて、自由時間に愛砂とそこに入っていった。
先生からは森には近づくな、と言われていたのに。
言うまでもなく、俺たちは道に迷ってしまった。
どれだけ歩いても、皆のところへ戻れず、とうとう愛砂が泣き出した。
俺は、「大丈夫だ」とか「絶対戻れる」とか、根拠のないことを言い続けた。
何をしても泣き止まない、愛砂の手を引いて歩いた。
途方にくれていたとき、特徴的な形をした岩を発見した。
巨大な岩に、大きな穴が空いていて、アーチのようになっていた。
その岩を見て、愛砂が泣き止んだ。
その岩の形が、よほど不思議で面白かったのだろう。
穴の両側から、お互いを覗き込んで笑い合っているうちに、先生たちがやって来た。
俺たちは小一時間説教されて、遠足が終わるまでずっと先生に監視された。
――突然、目の前にあのアーチのような岩が現れた。
錯覚に違いないと思った。
あまりの暑さと疲弊のせいで、現実と記憶が混濁し、幻覚を見ているのだろうか。
近づいて、手を伸ばすと、岩に触れることができた。
実際に、俺の前にあの岩があるのだ。
意味が分からない。
突然、辺りが暗くなった。
「何が起こっているんだ?」
空を見上げると同時に、頬に一粒の水滴が当たった。
続けて、額と目元にも落ちる。
雨だ。
急に降り出した雨は、幾何級数的に勢いを増していった。
巨大な岩の穴に入り、雨を凌ぐ。
無数の雨粒が、地上を襲い、木々や地面の色が変えていく。
雨音が何重にも重なり合って、耳朶を叩く。
身動きは取れないが、バニラの危機は去った。
これだけ大量の水分があれば、干物になることはないだろう。
一応水筒の蓋を開け、岩の外に出して、天に向けておく。
全ての水筒は、あっという間に満杯になった。
雨音を聞きながら、ふと考える。
この岩は一体何なのだろう。
たまたま似ているだけなのだろうか。
通り雨だったようで、しばらくすると、雨は止んだ。
水で満たされた水筒が詰まった鞄は、とてつもなく重く、後ろに倒れないように気をつけて歩き始めた。
思った通り、バニラは元気そうだった。
アイサが胸を撫で下ろし、
「無事で良かった。心配したよ。いきなり大雨が降ってきたけど、大丈夫だった?」
「何とか雨宿りして凌いだよ」
バニラが意気揚々と、拳を突き上げる。
「さぁ、出発しよう!」
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
また、お会いできることを祈っています。




