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3章 4話 <順応>

 なだらかな下り坂に差し掛かる。

 背の高い、葦のような植物が群生し、それをかき分けながら、歩を進める。

 開けた場所に出ると、崖がそびえていた。


 バニラが大きな目が爛々と輝かせた。


「見つけた!」


 よく見ると、崖の側面の一部が、きらきらと輝いている。

 魔水晶が岩肌から生えているのだ。

 透明で角張っていて、美しい。

 崖の高さは二十メートルほどあり、魔水晶はちょうど中間にある。


 アイサが崖を見上げて、


「どうやって取ろうか? 私、ファイアボール撃てるんだけど、それで魔水晶の下のあたりを狙って落としてみる?」


 その提案に、バニラが首を横に振った。


「それはダメ! 万が一魔水晶に当たったら、大変だよ! 魔水晶が岩場にあるのは想定の範囲内だよ」


 バニラは鞄を下ろし、ロープを取り出した。


「この崖はここから迂回すれば、上に登れる。上に行ってロープを垂らして、下からそれを伝って魔水晶を取るの」


 水筒に水を補充するとき、ロープがあるのは見えた。

 長さも丈夫さも申し分なさそうだ。


「アイサとバニラでロープを垂らしてくれ。俺が登るよ」


 さすがに男の俺が、この中では一番腕力があるだろう。

 アイサとバニラは頷いて、準備を始めた。

 しばらくすると、、崖の上からアイサが手を振ってきた。


「レン! 今からロープを垂らすよ!」


 俺は目の前に下りてきたロープをしっかりと掴み、ゆっくりと登り始めた。

 最初は順調だったのだが、次第に腕が痺れてきた。

 まずい、握力がなくなってきた。


 顎から汗が滑り、はるか下の地面に落ちていく。

 固唾を飲んで見守っているアイサとバニラが、


「レン! 頑張って!」

「ファイト! もうちょっとだよ!」


 魔水晶はすぐそこだ。

 必死に腕を伸ばし、ようやく触れると、ひんやりとして冷たい。

 傷つけないように、慎重に岩肌から引き剥がす。


 背中の鞄に入れ、ゆっくりロープを伝って、下りていく。

 長い時間をかけて、俺は地上に戻ってくることができた。

 緊張感から開放され、深い安堵のため息がでた。

 腕だけでなく、全身がひどい脱力感に包まれる。


 アイサが大声で叫んだ。


「レン! 後ろ! 逃げて!」

「え? 後ろ?」


 振り返ると、巨大なスライムがいた。

 全長十メートルほどで、俺をじっと見下ろしている。

 魔水晶がある辺りは、モンスターは出ないんじゃなかったのかよ。


 巨大スライムが大きな口を開けた。

 逃げ切れない。

 魔水晶だけは守らないと、と思い、咄嗟に鞄を放り投げた。

 俺はあっけなく、スライムの口の中に入った。


 体内は、まるで水の中のようだ。

 外の景色は、水中から水面を見るように、歪んで見える。

 消化器官などはなさそうだが、このままだと単純に息が持たない。


 何とかして体外に出ないといけないが、スライムの体を突き破れるだろうか。

 口から取り込まれたわけだし、口から出られる可能性が高い?


 とにかく、泳いで口の部分を目指す。

 だが、体内には中心に向かって渦が巻いているらしく、中央に押し戻されてしまう。


 やべぇ、マジでシャレにならん。


 さっきのロープ上りの疲労が残っていて、手足が動かなくなってきた。

 これは、万事休すか。


 もう息が持たない……、俺は異世界をナメてたのか?

 そんな後悔しても、全ては遅きに失している。


 愛砂の顔が、思い浮かんできた。

 最後に会いたかったな。

 肺の中の酸素がなくなる。


 ダメだ、限界だ。

 呼吸が、できな――。

 あれ、なんで……?

 不思議なことに、息ができる。


 驚いていると、突然右腕を掴まれた。

 人魚の姿のバニラが、そのまま俺を引っ張り、スライムの口まで運ぶ。

 俺を押し戻した渦を切り裂くように進んでいき、体外へ飛び出した。

 俺たちは全身ずぶ濡れで、地面に放り出される。


 巨大スライムが近づいてくる。

 外には出られたが、まだ危機は去っていない。

 逃げようとするが、足に力が入らず、転んでしまう。


 スライムが大きな口を開けて、眼前に迫る。

 前を向くと、アイサが普段見せない形相で、スライムを睨んでいた。


「レンから離れて」


 手をかざすと、魔力がそこに集まっていく。

 ドラゴンの密猟者への攻撃とは、比較にならない大きさの炎球が発生し、


「――フレイム・バスター!」


 アイサが放った炎球は、一直線にスライムの口の中に入った。

 直後、爆発が起こり、大量の水蒸気が立ち上った。


 茫然とその様子を眺めていると、水蒸気が雲散霧消していった。

 そして、巨大スライムがいた場所に、目を回した小さなスライムがいる。

 炎球の高温で、スライムの水分が蒸発したのだろう。

 スライムが背を向けて、一目散に逃げていく。


「……すげぇ」


 アイサは、自分のことを落ちこぼれみたいに言ってたけど、とんでもない。

 アイサが駆け寄ってくる。


「大丈夫? どこか痛む?」

「いや、大丈夫だ。ありがとう」


 俺の無事を確認すると、アイサは地面にへたり込んだ。


「良かったよ~」


 アイサが号泣し始め、


「スライムに食べられたときは、心臓が止まるかと思ったよ。どこも怪我してなくて、本当に良かった」


 俺のために、泣いてくれてる?

 そんなに心配してくれてたのか。

 そう言えば、愛砂の泣き顔って、あの小学校の遠足以来見てないな。

 そうか、愛砂が失ったのは、笑顔だけじゃなかったのか。


 バニラが二足歩行で、鞄を拾ってきた。


「魔水晶は大丈夫だよ。さっきのスライムは、これを狙ってきたんだね」




 数日後、便利屋の事務所で、どうしてスライムの中で息ができたのかと、疑問を持ったことをふと思い出した。

 アダムに話してみると、小さな賢人はすぐに答えた。


「〈順応〉の力が働いたのではないでしょうか」

「いやいや、俺の〈順応〉の力は、俺がこの世界に適合する能力のことだろ。こっちの世界の言語が扱えたり、味覚が調整されたりするのは理解できるけど、水の中で呼吸ができるのはよく分からないんだが」

「おそらく、レン様が水中という環境に順応したのでしょう」

「なるほどな」

「しかし……」

「しかし、なんだよ?」

「いえ、なんでもありません」


 アダムにしては珍しく、歯切れが悪い。


 ドアが開き、バニラが入ってきた。

 アイサが出迎える。


「久しぶりだね。今日は大丈夫だった?」

「うん。猛獣に会わなくて良かったよ」


 バニラは出された水に口を付けてから、


「泉の女神様はすっかり力を取り戻されて、泉は元通り綺麗になったよ。今日は、これを持ってきたんだ」


 そう言って取り出したのは、魔水晶だった。

 この間よりも、小さくなっているように見える。


「残りの魔水晶はどうぞ。約束した通り、報酬として受け取って」


 俺は受け取りながら、


「高価なものらしいけど、これでどれくらいの価値があるんだ?」

「百万ゴールドくらいかな」


 未だに、この世界で流通している通貨の価値が分からない。

 首を傾げる俺に、アダムが教えてくれる。


「平均的な収入の労働者の、三ヶ月分の給料くらいですよ」

「それって結構な大金じゃねぇか」


 目を丸くする俺を他所に、アイサは平然と、


「一番目立つところに飾っておくね」

「いや、換金しねぇのかよ」

「え? でも、私はバニラからこの魔水晶をもらったから」


 まぁ、物の見方は、人それぞれか。

 それから皆で駄弁ることになり、アイサに言う。


「巨大スライムを撃退した魔術、凄かったな。魔術師としては、全然ダメみたいなこと言ってたけど、謙遜だったんだな」

「あんな強力な魔術、使ったの初めてだよ。今まで一度も成功したことないし。自分でもよく分からないんだよね。ただ、レンを助けなきゃって思ったら、上手くいったの。不思議だよね」


 俺はアイサからいろいろな影響を受けている。

 例えば、愛砂との思い出を回顧したり、愛砂への接し方が変わったり。

 アイサも俺と一緒にいることで、何か変化があるのだろうか。


「バニラもありがとう。バニラがいなかったら、マジでヤバかった。泳いでるバニラ、かなりカッコよかったよ。俺もあれくらい泳げたら気持ちいいんだろうな」

「泳ぐのは気持ちいいよ~。レンは泳ぎを上手になりたいの?」

「人間の俺が、人魚みたいには泳げないだろ」

「ちょっと待ってね」


 バニラは何故か、人魚の姿に戻った。

 そして、魚の尾の一部を剥がしてしまった。


「何やってんだよ!」


 狼狽える俺に、バニラは剥がした体の一部を手渡した。


「はい、これ」


 小さくて、透明なそれは、きらきらと輝いている。

 そのガラスの破片のようなものをじっと見ていると、


「鱗だよ」

「鱗?」

「そう。人魚の鱗を持ってると、泳ぎが上手くなるっていう言い伝えがあるんだよ」

「そうなのか。ありがとう。その人魚の尾は大丈夫なのか?」

「うん。鱗はまた生えてくるから。アイサもいる?」

「私はいいよ。レンが教えてくれるから」


 そう言って、アイサは俺に微笑むので、


「いいのか? 鱗もらった方が早いだろ」

「いいの。その方が、いい」


 人魚の鱗で泳ぎが上手くなるっていうのは、言い伝えのレベルみたいだし、その程度なら自分の努力で何とかしたいという意思表示だろうか。

 バニラが楽しそうに、口を開いた。


「泳ぐことはたぶん、空を飛んでるのと同じなんだよ」

「どういうことだ?」

「だって水さえあれば、前後上下左右、自由自在に好きなように進めるでしょ」

「なるほど」


 人魚たちは、水の中を空のように感じてるのか。


「私たちが住んでる泉は、空ほど広くはないけどね。だから、いつか海で泳ぐことが夢なんだ。私、海見たことないの。話で聞いたことしかなくて。レンは海、見たことある?」

「あるよ。海の水は、しょっぱいんだぜ」

「そんなの嘘だ~。自然の水はしょっぱくないよ。誰かが塩を入れたの?」

「そうじゃないよ。元々しょっぱいんだ」


 バニラが興味津々で身を乗り出す。


「ねぇ、ねぇ。もっと海のこと教えて? 凄く広いんでしょ?」

「あぁ。視界の全て、どこまでも続いていて、空とぶつかる。そこが水平線だ」


 バニラは陶然とし、表情を緩ませる。


「いいな~。私も行ってみたいな」


 以前アイサに、この世界の世界地図を見せてもらったことがある。

 クロノス帝国は内陸に位置する国だ。

 ハーフとは言え、人魚であるバニラが海を見るのは、相当困難だろう。

 それでも俺は、バニラが海を見て感動しているところを想像してしまう。


「バニラなら行けるよ。もしも本当に行こうと思うときが来たら、ここに来いよ」


 アイサも頷いた。

 バニラが満面の笑みを湛えた。


「絶対来るよ。ありがとう」

何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。

また、お会いできることを祈っています。

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