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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第1章:契約の薔薇

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第2話:聖銀の残滓

ベルローズの靴音が、高い天井に反響して規則正しく刻まれる。

石造りの回廊は、かつての華やかさを失い、今では剥き出しの静寂だけが壁面を覆っていた。


窓から差し込む凍てついた月光が、かつて飾られていたであろう名画や豪華な調度品の跡を、抉り取られた傷跡のように白々と照らし出している。


鏡面のように磨き上げられた床には、ピピが丹念に拭き掃除を繰り返した努力の跡が見て取れる。

その過剰なまでの清潔さがかえって、この城に満ちる人の不在と、そこに漂う死の気配を際立たせていた。

それでも、今のベルローズにとって、この清潔さに宿るピピの敬愛だけは本物だ。


回廊の大きな窓を通り過ぎる際、彼女は無意識に外へと視線を投げた。


眼下に広がるのは、王都とこの城を隔てる唯一の絶対的な境界――『禁忌の森』だ。

霧が木々の隙間をうねり、森自体がひとつの巨大な臓器であるかのように、異質な魔力が青白い燐光となって大気を震わせている。


あの霧の向こうには、かつて彼女をただの美しい装置として、魔力を供給するための触媒として飼い慣らそうとした、冷徹な秩序の街がある。

この深い森と城の結界がある限り、何者も彼女の安息を乱すことはできない。

少なくとも、これまではそう信じていた。




(聖銀の首輪、研究施設……)


ピピが口にした単語が、毒のように思考の隅を汚していく。

反射的に、手すりを掴むベルローズの指先に力がこもった。

脳裏を掠めるのは、身体の自由を奪い、魂まで締め付ける重い『白い』ドレス。


自分を完璧な型に嵌め込もうとした、あの金髪の男の、感情を一切排除した凍てつくような碧眼。

彼女の漆黒の角を、完璧な美を損なう醜悪なノイズとして隠すために、無理やり嵌められた、装飾という名の銀細工の重み。


あの場所の冷たい石床の感触が、今も靴の裏から這い上がってくるような錯覚に陥り、彼女はわずかに奥歯を噛みしめた。


彼女にとって銀とは、高貴さの象徴などではない。

個を摩耗させ、所有を刻印するための忌まわしき楔に他ならないのだ。


「ベルローズ様、あそこです……!」


先導するピピの鋭い声が、湿り気を帯びた夜気とともに回廊に響く。

現実に引き戻されたベルローズが、中庭へと続く重厚な鉄の扉を押し開けた瞬間、先ほどまでの穏やかなハーブティーの余香は、無残にもかき消された。


鼻を突いたのは、生々しい獣の血が放つ鉄臭さと、過負荷に陥った大気を焦がすような魔力の残滓。

静謐を誇るこの城には決して存在してはならない、生命が根こそぎ削り取られる際に発せられる、剥き出しの悲鳴のような臭気だった。


視線の先、西の薔薇園の崩れた石壁のそばに、それは横たわっていた。


月光を反射して怪しく光る、深い藍色の毛並み。

泥と枯れ葉にまみれ、無惨に汚れながらも、その毛並みは夜の闇そのものを凝縮したような気高さを失っていない。

だが、その肺は限界を訴えるように、途切れ途切れの低い喘鳴を漏らしていた。


「……本当に、聖銀だわ」


ベルローズは、無意識に自らの細い首筋へ手をやり、すぐにその手を強く握りしめる。


横たわるそれは、狼に似た体躯を持っていたが、通常の獣よりも二回りは大きい。

四肢の先からは制御を失った魔力の残滓が淡い燐光となって漏れ出し、周囲の地面を、季節外れの薄氷のように白く凍らせている。


そして、その首筋を深く押し潰し、柔らかな毛並みの下の肉に食い込むようにして嵌められた、忌々しい聖銀の首輪。


そこから溢れ出すのは、彼女が最も憎む王都の術式。

対象を縛り、人格を封じ、その魔力を一滴残らず搾取するために設計された、呪いの輝きだった。


(……私と、同じ)


泥濘の中で倒れ伏す獣の姿に、彼女はかつての自分自身を、救いようのないほど鮮明に重ねていた。

もしあの日、森の暴走が自分をこの城へ運ばなければ、自分もまた、こうして魂を銀に焼かれながら、名前さえ奪われて朽ちていったはずなのだ。


「ベルローズ様、近寄っちゃダメだ!まだ息がある、下手に触れたら噛みつかれるよ!」


背後で叫ぶピピの制止を、彼女は冷徹なまでに聞き流した。

繊細な黒レースの裾を泥に汚すことさえ厭わず、一歩、また一歩と、死にゆく蒼い幻獣へと歩み寄る。

彼女の白い指先が、その首元で鈍く光る聖銀の首輪に触れようとした、その時。


絶命を待つだけだったはずの獣が、カッとその瞳を見開いた。


至近距離で、二つの色が火花を散らす。

ベルローズの燃えるような静かな深紅と。

激しい苦痛と濁った憎悪の奥で、なお消えぬ誇りを宿した、吸い込まれるようなサファイアブルー。


喉の奥で、獣が低く地鳴りのような声を上げた。

それは明確な殺意を孕んだ警告であり、同時に、絶望の淵からの悲痛な拒絶だった。


「来るな、殺せ、触れるな」――言葉にならぬ叫びが、視線を通じてベルローズの胸を突く。


だが、ベルローズは微塵も怯まなかった。

それどころか、その瞳には凍土の下で芽吹くような、微かな熱さえ宿っていた。


「…………っ」


獣の瞳に映る自分の姿が、あまりに虚ろで、あまりに孤独であることに気づく。

彼女の手が、震える獣の頬に、そして首輪へと吸い寄せられるように伸びた。

聖銀の冷たさが指先を突き刺し、彼女自身の魔力を糧として吸い上げようと、術式が牙を剥く。


「……構わない。噛みたければ噛みなさい。私の指を食いちぎり、この喉を裂けば気が済むのなら」


彼女は、自分を拒絶する獣の視線を真っ向から受け止め、一歩も引かなかった。


その瞬間、聖銀の首輪がキチキチと、耳障りで不快な軋み声を立てた。

刻まれた術式が、獣の肌を無慈悲に焼いていく。


ベルローズの魔力を外敵として拒絶し、排除しようとする防衛反応か。

あるいは、永い飢餓の中にあった獣が、初めて差し出された温かな糧を求めて、その手を飲み込もうとしているのか。


「あなたのその誇りごと、この銀に焼かせるわけにはいかないの」


彼女の呟きと共に、中庭の薔薇が一斉にその蕾を震わせた。

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