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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第1章:契約の薔薇

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第2話:救済の刻

「……その首輪、目障りね。ひどく不快」


 彼女がさらに一歩歩み寄ると、死の淵にいた獣がわずかに耳を動かし、濁ったサファイアブルーの瞳を向けた。


 そこには、ただ死の間際まで世界を呪い、自分を『モノ』として扱った者たちの喉笛を食い破ろうとするような、凄絶な野性が宿っていた。

 その瞳の輝きに、彼女は言いようのない共犯意識と、抗いがたい愛着を覚える。


「ベルローズ様、本当に危ないよ! もし牙を剥かれたら……」


「ピピ、少し黙って。……この子はもう、自分の牙で誰かを傷つける力すら奪われている」


 ベルローズは、泥と血に汚れた薔薇園に膝をついた。

 黒レースのドレスが湿った土に汚れ、棘に裂かれたが、彼女は躊躇(ためら)いもなく手を差し伸べる。


 ピピはじっと黙ったまま、息をのんでそれを見やった。

 高潔な自らの主が、汚れも(いと)わずに動いた姿に驚愕(きょうがく)したのだ。


「……私の庭で、王都のやり方を押し通されるのは不愉快だわ。私の許可なく、誰かが私の前で死ぬことも、何かに不当に縛られていることも」


 ベルローズの呟きに呼応するように、彼女の深紅の瞳と、額から伸びる漆黒の角が妖しく赤紫色に発光する。

 高まる魔圧によって大気が震え、周囲の草花は、主の憤怒に当惑するように色めき立った。


 獣の体に触れた指先から伝わってくるのは、死に(ひん)しながらも必死に脈打つ、熱を持った命の鼓動だ。

 だがその内側には、それらを凍てつかせ、(むしば)もうとする冷たく無機質な死が、深く埋め込まれていた。


「聖銀の弾丸……」


 それは、対象を確実にモノへと変え、魔力の暴走を抑え込むために、王都の魔導士たちが精製した悪意の結晶。


(……見つけたわ。あなたの命を濁らせている不純物を)


 彼女の指先から、紫の魔力が繊細な波となって、獣の体内へと潜り込む。


「……我慢しなさい。これは、王都の薬よりはずっと痛むはずよ」


 ベルローズが掌をかざすと、狼の穿(うが)たれた傷口から、彼女の魔力が具現化した細い茨が生き物のように這い出した。


 それは救いの糸などではない。

 鋭い棘を逆立たせた、痛みを伴う侵食の蔓だ。

 茨は獣の肉を掻き分け、癒着した聖銀の弾丸を強引に、容赦なく絡め取っていく。


「――ッ……!!」


 獣の喉から、逃れようのない苦悶(くもん)喘鳴(ぜいめい)が漏れ、その巨躯が(きし)むように震えた。

 反射的に、剥き出しになった鋭い牙が、目前のベルローズへと向けられかける。

 自分を(さいな)む者を噛み殺さんとする、野生の本能。

 だが、彼女は瞬き一つせず、溢れ出す圧倒的な魔圧で、その野性を静かにねじ伏せた。


「逃げるなと言っているの。……あなたの痛みは、私がすべて引き取ってあげるから」


 肉が軋み、茨の棘が異物を掴み取る。

 獣が感じる痛みが、ベルローズの神経にも雑音として流れ込んでいく。

 彼女はその痛みに顔をわずかにしかめながら、手を強く引き上げる。

 それに従うようにして、肉の奥から鈍い輝きを放つ塊が、いくつも引きずり出された。


 どろりとした黒い血を纏い、庭園の石床に転がり落ちたのは、(いびつ)にひしゃげた数発の聖銀の弾丸だ。

 月光の下で鈍く光っていた銀は、ベルローズが放つ夜色の魔力に触れた瞬間に黒ずみ、砂となって崩れ去った。


「……壊れたままでは、私の庭に置くには()えないわね」


 彼女の指先から散った紫の花弁が、穿たれた傷口へと吸い込まれる。

 花弁は体内で解け、繊細な魔力の糸となって、裂けた肉を縫い合わせ、組織を強制的に補填していった。

 狼の体内、その命の奔流の中に、ベルローズの濃密な魔力が、抗いようのない支配の色として混じり合っていく。


 激しく波打っていた狼の背中が、次第に穏やかな呼吸を取り戻す。

 死の影に覆われていた蒼い瞳に、(わず)かだが確かな、生の光が灯った。


 だが、ベルローズの視線は、まだ一点に注がれていた。

 狼の首筋に食い込み、気高い毛並みを無残に押し潰している首輪。


「その忌々しい鎖ごと、ここで捨てさせてあげる。あなたはもう、誰の所有物でもない」


 断罪のような、あるいは救済のような呟きとともに、ベルローズは首輪に直接手をかけた。

 金属が焦げたような臭いと、濃厚な薔薇の香気が混ざり合い、夜の空気が重く、甘く変質する。


 メキリ、と銀の拘束具が軋む音が、夜の闇に響き渡った。

 ベルローズの魔力が茨となって銀の首輪に食い込み、王都の冷徹な秩序を内側から食い破っていく。

 強固な銀は悲鳴を上げるように亀裂を走らせ、その隙間から毒々しくも美しい紫の光が噴出した。


 それはひとつの支配が終わり、新たな、そしてより深い契約が結ばれる瞬間の光だった。

 銀の無機質な輝きが、圧倒的な魔力の熱量に飲み込まれ、粒子となって霧散していく。


 獣の喉を、魂を、そして存在そのものを絶望的な窒息感で締め上げていた、王都の呪縛。

 人格を摩耗(まもう)させるための術式が、彼女の紫の炎に焼かれて消失した。


 宙に舞った銀の破片は、もはや汚れた地面に落ちることすら許されない。

 それらはベルローズの意志に従い、空中で夜色の魔力と混ざり合い、可憐な花弁へと姿を変えていく。

 花弁は、真夜中の闇で繊細なレースを編み上げるように獣の首元を包み込み、やがて冷たい実体を持って収束した。


 それは、深い夜を溶かし込んだような、漆黒の地を持つベルベットのチョーカー。

 中央には、彼女の魔力の結実である一輪の紫の薔薇が、静謐(せいひつ)矜持(きょうじ)(たた)え、その花弁を重厚に開いていた。


 奴隷の鎖は、彼女の加護を宿した生存の許可証へと変わった。

 ドラクロワの眷属(けんぞく)へと、獣は再定義されたのだ。


「……ッ――ハ、……っ……」


 拘束から解放された瞬間、獣の喉から、ひび割れた肺が無理やり空気を吸い込むような鋭い喘ぎが漏れた。

 それは産声にも似た、生への渇望に満ちた叫びだ。


 同時に、巨大な獣の体が霧に溶けるように揺らぎ、輪郭を歪ませていく。

 膨大な魔力の奔流が一点に収束し、眩い紫の光が収まった後。

 残されたのは、魔力の残滓(ざんし)が形を成したような灰色の布を纏い、全身に深い傷を負った一人の青年だった。


 ピピの喉が、引き()った音を立てる。

 磨き上げられた大理石のように不動だった彼の瞳が、信じられないものを見たと言わんばかりに激しく揺れた。


「人間に……、なった……? 魔物じゃなかったのか……?」


 震える声が、霧の中に頼りなく溶けていく。


 慌てふためくピピを視界の端に収めながら、ベルローズは眉一つ動かさずに、倒れ伏した青年を見つめている。

 彼女が焼き切り、そして新たに繋ぎ止めたのは、肉体の形状ではなくその奥底にある魂の()()だったからだ。

 だがその一方で、その視線は獲物を品定めするかのような、静かな熱を帯びていた。


 月光の下に晒されたのは、しなやかな強さを湛えた、端正な体躯。

 しかし、それは完全な『人間』の姿ではなかった。


 濡れたように光る、濃藍色(こいあいいろ)の髪の間からは、蒼い毛並みを残した三角形の獣耳が、激しい消耗ゆえに力なく伏せられている。

 腰元からは、血と泥に汚れた重厚な尾が、冷たい石床の上に力なく横たわる。

 彼が人間と獣の狭間に立ち、どちらの世界からも拒絶された存在であることを、雄弁に物語っていた。


 青年は、激しい熱と安堵が混ざり合う意識の混濁(こんだく)の中で、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

 視界の端に映ったのは、自分を見下ろす、燃えるような静かな深紅の瞳。

 そして、自分の首元に新たに咲いた薔薇を、慈しむように、あるいは絶対的な支配を宣言するように一瞬だけなぞった、白く細い指先の感触。


「……あ、……ん、た……、は……」


 (かす)れた声は、意味を成す言葉になる前に途切れ、彼は再び深い眠りへと落ちていく。

 だが、その魂の最奥には、初めて自分を『モノ』や『部品』としてではなく、痛みを持つ命として扱った、夜の底のような深く静かな温かさが刻み込まれていた。


 青年の首元には、先ほどまでの巨大な獣の首を飾っていたものと同じ、あの薔薇のチョーカーが、静かに咲いている。

 つややかなベルベットが、彼の体躯に合わせて(あつら)えたかのように、寸分の狂いもなくその輪郭をなぞっていた。


 ベルローズはチョーカーの形を整えると、手を静かに引いた。


 自らの膨大な魔力を分け与えたことによる、指先からの(かす)かな疲労感。

 だが、それ以上に彼女を満たしていたのは、忌々しい過去の呪縛を一つ、自らの足で完膚なきまでに踏み潰したことによる、静かな解放感だった。


「ピピ。この男を地下の客室まで運びなさい。それからアマンダを呼んで、傷を塞ぐ菌糸と薬草を用意するように言って」


「えっ、僕がですか!? この、血まみれのデカい男を!? ……っ、もう、分かりましたよ! 磨き上げたばかりの廊下を汚さないように運ばなくっちゃ……」


 文句を言いながらも、ピピは自らのルーツである城の石材に意識を向けた。

 ドラクロワ城の深い鉱脈から生まれた石の精霊である彼にとって、この城を構成する岩や床は、自らの五感の延長線上に等しい。


 ピピが細い指を軽く振ると、薔薇園を囲む石床の一部が震え、意志を持つように剥がれ、浮き上がった。

 それは滑らかな岩の台座へと形を変え、横たわる青年の体を慎重に、かつ事務的に受け止める。


「いいか、絶対にはみ出すなよ。もし絨毯(じゅうたん)を汚したら、一週間は寝かせないからな」


 ピピは宙に浮いた岩の台座を魔力で操り、重さを微塵も感じさせない軽やかな足取りで、廊下の奥へと消えていく。

 振動を最小限に抑えるかのような細やかな魔力操作から、彼の几帳面さが(うかが)えた。


 ベルローズは一人その場に立ち残り、血と脂に汚れた指先を、黒いレースのハンカチで静かに拭った。

 彼女の視線は、遠く王都があるはずの空を、拒絶を込めて見据えていた。


(……これでもう、あなたは誰の道具でもない)


 彼女は見えない鎖を確かめるかのように、自分の首筋に指を当て、冷たく微笑んだ。


(……私以外の前で、勝手に壊れることも、勝手に果てることも許さない。死ぬ時さえ、私の許可を得なさい。……それが、あなたの務めよ)


 夜の静寂の中心で、新たな運命の鼓動が、力強く確かに刻まれ始めている。

 それは凍り付いた城に灯った、青白く、決して消えることのない炎の始まりだった。

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