第1話:邂逅
――首筋に突き立てられた聖銀のプラグが、魂を数字へと変えていく。
その痛みが、今も消えない。
禁忌の森はその夜、わずかに騒いでいた。
王都という名の秩序が排出したあらゆる澱みが、この森へと流れ着く。
捨てられた罪人、壊れた魔導具、そして日の当たらない場所へ追いやられた異形たち。
王都の喧騒から遠く離れ、濃い霧に守られるようにして佇むドラクロワ城。
その最上階、城の主であるベルローズは、色褪せた長椅子に、深く身を沈めていた。
魔導書の頁を繰りながら、淡々と綴られた歴史に視線を落とす。
漆黒の髪が夜を溶かしたように肩から流れ落ち、深紅の瞳が文字を追う。
ふと、彼女の手が止まる。
頭部に聳える角が、微かな疼きを伴って月光を跳ね返した。
(……また、疼くのね)
それは、愛したはずの男から「醜い不具合だ」と断じられた、孤独の証。
彼女は無意識に角へ触れようとして、指を空中で止めた。
指先さえ、今はひどく冷たい。
途端、私室の扉を急かすようなノックが響く。
「大変です、ベルローズ様!」
「……入りなさい」
重い扉が、主の返答を待ちわびたように押し開けられた。
駆け込んできたのは、整えられた銀髪を振り乱した少年、ピピ。
背中にある結晶質の羽が、主への報告を急ぐあまり、乾いた音を立てて震えていた。
「落ち着きなさい、ピピ。磨き上げたばかりの床に、傷をつけてしまうわよ」
「掃除どころじゃありません! 西の庭園……、崩れた外壁のそばに、見たこともない蒼い狼が倒れているんです。あんな魔力、今までこの森を通ったどの魔物とも違います!」
「……どういうこと?」
「ただの魔物が持ってるような魔力じゃないんです、なんていうか……、もっと鋭くて澄んだ、本当に妙な魔力で……」
ピピは、飲み込むようにして一度言葉を切る。
そして、潔癖な彼が嫌悪感に顔を歪めるほどの、不吉な事実を吐き出した。
「それに、首には、……『聖銀の首輪』が嵌められていて。そこから嫌な、王都の魔導院が使う魔力が漏れてます」
「……蒼い狼。それに、聖銀の首輪?」
ベルローズの指が、頁をめくる動きを完全に止めた。
心臓の奥が、氷の楔を打ち込まれたように冷える。
かつて自分を所有物として縛り、魔力の出力効率だけを値踏みし、その尊厳を『醜い』と切り捨てた場所、王都。
そこに住まう魔導士たちが研究のために愛用していた、美しき管理の象徴。
その執拗な影が、この城にまで届いたというのか。
「わかったわ、ピピ。庭園まで案内して」
「えぇっ、行くんですか!?相手がどんな化け物か、まだ確かめてもいないのに――」
「化け物なら、ここには私という先客がいるわ」
ピピの言葉を遮るように、ベルローズは静かに立ち上がった。
黒レースの裾が、夜の影を引きずるように床を這う。
「私の城の敷居を、断りもなく跨いだ不作法な客よ。……その首を絞める不浄な鎖ごと、庭の外へ叩き出してあげなくては」
ベルローズは長い回廊へと足を踏み出した。
窓の外からは、風に乗って微かに獣の唸り声が聞こえてくる。
◆
「ベルローズ様、あそこです……!」
先導するピピの鋭い声が、湿り気を帯びた夜気とともに回廊に響く。
鼻を突いたのは、生々しい獣の血が放つ鉄臭さと、過負荷に陥った大気を焦がすような、魔力の残滓。
生命が根こそぎ削り取られる際に発せられる、剥き出しの悲鳴のような臭気だった。
視線の先、西の薔薇園の崩れた石壁のそばに、それはいた。
月光を反射して怪しく光る、深い藍色の毛並み。
泥と枯れ葉にまみれ、無惨に汚れながらも、その毛並みは気高さを失っていない。
だが、その肺は限界を訴えるように、途切れ途切れの低い喘鳴を漏らしていた。
横たわるそれは、狼に似た体躯を持っていたが、通常の獣よりも遥かに大きい。
四肢の先からは制御を失った魔力が淡い燐光となって漏れ出し、周囲の地面を、季節外れの薄氷のように白く凍らせている。
そして、その首筋を深く押し潰し、柔らかな毛並みの下の肉に食い込むようにして嵌められた、忌々しい聖銀の首輪。
そこから溢れ出すのは、彼女が最も憎む王都の術式。
対象を縛り、人格を封じ、その魔力を一滴残らず搾取するために設計された、呪いの輝きだった。
(……私と、同じ)
泥濘の中で倒れ伏す獣の姿に、彼女はかつての自分自身を、救いようのないほど鮮明に重ねていた。
もしあの日、森の暴走が自分をこの城へ運ばなければ、自分もまた、こうして魂を銀に焼かれながら、名前さえ奪われて朽ちていったはずなのだ。
「ベルローズ様、近寄っちゃダメだ! まだ息がある、下手に触れたら噛みつかれるよ!」
背後で叫ぶピピの制止を、彼女は冷徹なまでに聞き流した。
繊細な黒レースの裾を泥に汚すことさえ厭わず、一歩、また一歩と、死にゆく蒼い幻獣へと歩み寄る。
彼女の白い指先が、その首元で鈍く光る聖銀の首輪に触れようとした、その時。
絶命を待つだけだったはずの獣が、カッとその瞳を見開いた。
至近距離で、二つの色が火花を散らす。
ベルローズの、燃えるようでいて静かな深紅と。
激しい苦痛と濁った憎悪の奥で、なお消えぬ誇りを宿した、吸い込まれるようなサファイアブルー。
喉の奥で、獣が低く地鳴りのような声を上げた。
それは明確な殺意を孕んだ警告であり、同時に、絶望の淵からの悲痛な拒絶だった。
「来るな、殺せ、触れるな」――言葉にならぬ叫びが、視線を通じてベルローズの胸を突く。
だが、ベルローズは微塵も怯まなかった。
彼女の手が、震える獣の頬に、そして首輪へと吸い寄せられるように伸びた。
聖銀の冷たさが指先を突き刺し、彼女自身の魔力を糧として吸い上げようと、術式が牙を剥く。
「……構わない。噛みたければ噛みなさい。私の指を食いちぎり、この喉を裂けば気が済むのなら」
彼女は、自分を拒絶する獣の視線を真っ向から受け止め、逃げなかった。
その瞬間、聖銀の首輪がキチキチと、耳障りな軋み声を立てた。
ベルローズの魔力を外敵として拒絶し、排除しようとする防衛反応か。
あるいは、永い飢餓の中にあった獣が、初めて差し出された温かな糧を求めて、その手を飲み込もうとしているのか。
「あなたのその誇りごと、この銀に焼かせるわけにはいかないの」
彼女の呟きと共に、庭園の薔薇が一斉にその蕾を震わせた。




