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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第1章:契約の薔薇

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第1話:邂逅の予感

――首筋に突き立てられた聖銀のプラグが、魂を数字へと変えていく。

その痛みが、今も消えない。



禁忌の森はその夜、わずかに騒いでいた。


森を覆う霧は、白濁した巨大な獣の吐息のように重く、木々の隙間を這い回っている。

風は、熟れすぎて地面に落ちた果実の甘さを孕んで淀んでいた。

それは生命が腐敗へと向かう瞬間の、官能的で不吉な香りだ。


王都という名の秩序が排出したあらゆる澱みが、目に見えぬ境界を越えてこの森へと流れ着く。

捨てられた罪人、壊れた魔導具、そして日の当たらない場所へ追いやられた異形たち。

この森の中継地点に漂うのは、逃れようのない死と、ゆっくりとした変質の気配だけだった。


王都の喧騒から遠く離れ、濃い霧に守られるようにして佇むドラクロワ城。

その最上階、主であるベルローズ・ド・ラ・クロワの私室は、外界の騒がしさを拒絶するように、時が止まった静寂に支配されていた。


高い天井の隅では、主の魔力に当てられた蜘蛛が銀の糸を紡ぎ、幾何学的な紋様を描いている。

窓から差し込む青白い月光は、まるで冷たい舌で床を舐めるようで、部屋の影をより濃く、深く引き立てていた。


ベルローズは、色褪せたベルベットの長椅子に深く身を沈めていた。

膝の上には、革表紙の古い魔導書。

彼女は指先でページを繰りながら、淡々と綴られた禁忌の歴史に視線を落とす。

漆黒の髪が夜を溶かしたように肩から流れ落ち、深紅の瞳が整然と並んだ文字を追う。


彼女にとって、この読書は知識の探求ではない。

かつて耳にした、冷徹な数式や効率。

無機質な言葉から逃れ、意味を持たない空想の海に意識を沈めるための儀式だった。



ふと、彼女の手が止まる。

額の角が、微かな疼きを伴って月光を跳ね返した。


(……また、疼くのね)


かつて愛したはずの男から「醜い不具合」だと断じられた、孤独の証。

真珠の飾りや冷たい銀細工で、窒息するほどに覆い隠されていた、忌まわしき漆黒の角。

彼女は無意識にその角へ触れようとして、指を空中で止めた。


指先さえ、今は石のようにひどく冷たい。



「ベルローズ様、お茶の時間ですよ」


重厚な木蓮の扉が、沈黙に抗うような軋みを立てて開いた。


現れたのは、淡いベージュの髪を揺らした小柄な少女、アマンダ。

彼女は、この城の湿った石床に咲く菌類から、ベルローズの魔力が気まぐれに生み出した精霊だ。


アマンダは足音もなく歩み寄ると、主の足元に広がる絨毯の模様を、愛おしげに指先でなぞっていく。

新しい菌糸が広がり、生命が腐敗へと向かうのを祝福するような、無邪気で異質な所作。


「……アマンダ。今日は少し、来るのが早かったわね」


「はい、ベルローズ様。今日の気分は、少しだけ『湿った青』ですね。だから、お茶も少しだけ、暗い色にしてみました」


見上げる琥珀色の瞳は、人間とは決定的に異なる生命の深淵を覗き込んでいる。

善悪や倫理ではなく、ただそこに在るという事実だけを無条件に肯定する、底知れない瞳。


アマンダにとって、死は終わりではなく、次の生命への肥沃な始まりに過ぎない。

彼女の手元の銀のトレイには、花の蜜のような甘い香りと、わずかな土の温もりを漂わせるハーブティーが載っていた。


「ありがとう。そこに置いてちょうだい」


ベルローズは短く応じると、カップを手に取る。

甘い香りとは裏腹に、心の奥底に染み込ってくるような、澄んだ風味だ。

アマンダはふと虚空を見つめて、鼻を小さく鳴らした。


「今日の森は、とても騒がしい匂いがします。誰かが泣いて、誰かが笑って……そして、誰かが死にたがっている。そんな、重たくて湿った匂い」


「森はいつもそうでしょう?王都に拒絶され、捨てられたものたちが、腐って土に還る場所なのだから」


ベルローズは冷めた声で言った。

ここは、王都が「美しくない」と判断したものを投げ捨てる掃き溜めだ。

自分自身も含めて。


「いいえ。今日はもっと、熱い鉄の味が混じっています。……とても、痛そうな音。ベルローズ様の角が疼く時の色に、よく似ています」


アマンダが小首をかしげ、瞳を細めた、その時だった。


「大変です!ベルローズ様!」


扉が、先ほどとは打って変わった乱暴さで押し開けられた。


駆け込んできたのは、整えられた銀髪を振り乱した少年、ピピ。

背中にある結晶質の羽が、主への報告を急ぐあまり、カチカチと乾いた音を立てて震えていた。


「……落ち着きなさい、ピピ。磨き上げたばかりの床に、傷をつけてしまうわよ。あなたの完璧主義はどうしたのかしら?」


「掃除どころじゃありません!西の庭園……、崩れた外壁のそばに、見たこともない蒼い狼が倒れているんです。あんな魔力、今までこの森を通ったどの魔物とも違います!」


「……どういうこと?」


「ただの魔物が持ってるような魔力じゃないんです、なんていうか……、もっと鋭くて澄んだ、本当に妙な魔力で……」


ピピは、飲み込むようにして一度言葉を切る。

そして、潔癖な彼が嫌悪感に顔を顰めるほどの、不吉な事実を吐き出した。


「それに、その狼の首には……『聖銀の首輪』が嵌められていて。そこから嫌な、王都の研究施設が使う魔導具の匂いがするんです。僕、あんな不浄なもの、この城の敷居を跨がせたくありません!」


「……蒼い狼。それに、聖銀の首輪?」


ベルローズの指が、ページをめくる動きを完全に止めた。

心臓の奥が、氷の楔を打ち込まれたように冷える。




王都、聖銀、そして異形の力。


かつて自分を所有物として縛り、魔力の出力効率だけを値踏みし、その尊厳を『醜い』と切り捨てた場所――王都。

そこに住まう魔導士たちが研究のために愛用していた、美しき管理の象徴。


その執拗な影が、この城にまで届いたというのか。


「アマンダ、あなたはここで待っていなさい。ピピ、案内して」


「えぇっ、行くんですか!?相手がどんな化け物か、まだ確かめてもいないのに――」


「化け物なら、ここには私という先客がいるわ」


ピピの言葉を遮るように、ベルローズは静かに立ち上がった。

黒レースの裾が、夜の影を引きずるように床を這う。


「私の城の敷居を、断りもなく跨いだ不作法な客よ。……その首を絞める不浄な鎖ごと、庭の外へ叩き出してあげなくては」


ベルローズは長い回廊へと足を踏み出した。

窓から差し込む月光が、彼女の漆黒の角を妖しく照らし出し、崩れた庭園の方角を淡く射抜いている。


その先に横たわっているのが、かつての自分と同じように『命』ではなく『モノ』として扱われた存在であることを、彼女はまだ知らない。

だが、彼女の内に眠る、冷徹に凍りついたはずの憤怒が、微かに熱を帯びて拍動し始めていた。


窓の外からは、風に乗って微かに獣の唸り声が聞こえてくる。

それは長い静寂が終わりを告げようとする、最初の予兆だった。


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