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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第3章:静寂と熱の境界

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第19話:誰かを待つという、不慣れな毒

 ピピの賑やかな小言と、ルシアンの重厚な足音が霧の向こうへ消えてから。

 ドラクロワ城には、以前よりもいっそう深く沈黙が沈んでいた。


 城を囲むのは、天を突くほど高く、密集して光を拒絶する古の巨木たち。

 雨を含んだ湿った土と、長い年月をかけて降り積もった腐葉土の匂いが、今日は一段と濃く、重く感じられる。

 森の静寂は時として、そこに佇む者の輪郭さえも霧の中へ溶かし、曖昧(あいまい)にしてしまうかのようだ。


 ベルローズはテラスのテーブルで、薄い磁器のカップを手にしていた。

 立ち昇る白く細い湯気が、彼女の肌をかすめ、虚空へと消えていく。


 その向かいの席には、ベルローズへの給仕を終えたアマンダが、当然のように腰を下ろしていた。

 彼女は琥珀色の瞳を細め、ベルローズの手元をじっと見つめている。


「……今日は、少しだけ苦い匂いがしますね、ベルローズ様。焦げついた期待と、湿った不安が混じり合った、雨上がりの土のような匂いです」


 アマンダは穏やかに、けれど迷いのない声で言った。

 彼女は、テーブルに活けられた野の花の薄い花弁を愛おしげに撫でながら、ベルローズの表情を覗き込む。

 そこに他者の領域を侵すような悪意はなく、ただ森に咲く花の色を確かめるような、無垢で残酷なまでの純粋さだけがあった。


「……苦い? ()れ方はいつもと同じはずよ、アマンダ。茶葉もピピが厳選したものだし、あなたが地下の霊水で淹れたのでしょう」


「淹れ方の問題ではありません。ベルローズ様の心の奥の、ずっと深い場所に、小さな淀みが溜まっています。……ルシアンさんが、あの霧の向こう側へ行ってしまったからですか?」


 ベルローズは、静かにカップをソーサーに戻そうとした。

 だが、アマンダの言葉が核心に触れた瞬間、持ち手を支える指先が微かに震え、茶の水面に小さな、けれど確かな波紋を作った。

 ベルローズはわずかに視線を逸らし、それをごまかすように、音を立てずにカップを置く。


 アマンダは他者の感情を、言葉や論理で理解しようとはしない。

 ただ、大気中の胞子を感じ取るように、そこに流れる熱や冷たさを直接的に感知する。

 魔女が幾重にも張り巡らせた心の結界も、この森の落とし子には、陽光を通す薄布のような意味しか持たなかった。


「信じているわけではないわ……。ただ、ようやく馴染み始めた道具を早々に失うのは……、効率が悪いと思っているだけ」


「効率。……不思議な言葉ですね、それは」


 アマンダの肌からは、雨上がりの森のような、清涼でどこか懐かしい香りが漂ってきた。

 ベルローズの瞳が、わずかに揺れる。


「昨日の夜、ルシアンさんが見回りから戻ってきたとき。ベルローズ様の角から、少しだけ蒼い光を感じましたよ。あの子が戻ってきて、よかった……。って」


 アマンダが小首を傾げ、テーブルの上に置かれたベルローズの手を、自分の冷たくて柔らかい指先でそっと包み込んだ。


「そんなことは……」


 否定しようとした言葉が、喉の奥で熱い塊となって詰まる。

 ベルローズは、不意に自覚してしまった。


 先ほどから何度も、手に持った魔導書の同じ行を読み返していること。

 わずかな風の音に耳をそば立て、霧の薄い部分を無意識に視線で追っていること。


(私は……、待ってしまっているの?)


 一度芽生えた自覚は、鏡に走った亀裂のように一気に広がっていく。

 効率や、支配という言葉で塗り固めていた偽りの平穏が、内側から崩れ落ちる。

 そこには、孤独を恐れるただの人間の顔が、無様に露出し始めていた。


「森の深い場所にある根っこが、恵みの雨に喜んで揺れるみたいに。優しく、優しく光っていました」


「…………」


 ベルローズは、何も答えられなかった。

 重ねられたアマンダの指先から、微かな魔力が伝わってくる。

 それが頑なな心の表層を静かに撫で、強張(こわば)りを解いていく。


 実のところ、先ほどから自身の胸元や指先に、微かな、けれど熱い共鳴が届いていた。

 遠く離れたルシアンの感情の断片が、あの薔薇のチョーカーを通じて流れ込んできているのだ。

 それは彼女がこれまでの孤独な人生で、呪いとして、あるいは不純物として必死に排してきた、他者の体温そのものだった。


「もしあの人が、このまま人間たちの街で、新しい居場所を見つけたら……。ベルローズ様は、また独りぼっちに戻って、枯れてしまいますか?」


 アマンダの言葉は、何の(てら)いもなくベルローズの胸の急所に触れてしまう。


『独りぼっち』。


 それはベルローズがかつて自ら選び、唯一の安全圏として守ってきた聖域だったはずだ。

 誰にも期待せず、誰の期待も背負わなければ、裏切られる絶望に喉を焼かれることも、守れなかった後悔に身を引き裂かれることもない。


 それなのに。

 アマンダの問いに、喉の奥が引き()るような空虚さを感じてしまうのはなぜか。

 あの不器用で、けれど真っ直ぐに自分を射抜く蒼い瞳を、いつの間にかこの霧の中で待っている自分がいる。


「……あの子は私の騎士よ。あの薔薇が枯れない限り、私の側を離れることは許されない。そうでしょう?」


「そうですね。……でも、ルシアンさんの薔薇、今日はとても元気に脈打っていましたよ。苦しくて動くのとは違う、生きるのが楽しい、って脈動です」


 アマンダはそう言うと、どこからともなく取り出したキノコの傘を、ふわりと揺らした。

 微かな光を帯びた胞子がキラキラと雪のように舞い、テラスの空気を穏やかに沈めていく。

 それは、言葉を持たない広大な森が、孤独を愛しすぎた魔女に捧げる、静かな抱擁のようだった。


「命令されているからじゃなく、ベルローズ様に、素敵なものを見せたいって思っている匂い。……あの人の想いは、もう森の霧よりも濃くなっています。隠そうとしても、隠しきれないくらいに」


 ベルローズは、アマンダの不思議な安心感を与える魔力に包まれながら、深い森の奥へと続く道をじっと見つめた。

 指先に届く共鳴が、先ほどよりも少しだけ、誇らしげな熱を帯びて跳ねる。

 誰かを待つという行為が、こんなにも毒のように胸を締め付け、同時に、凍てついた血液を溶かすような熱を与えるものだとは。


 ベルローズは、冷めかけた茶を一口、ゆっくりと喉に流し込んだ。

 舌に残る微かな渋みと、遠くから響く鳥の羽ばたき。

 それが今、この城の静寂を繋ぎ止める唯一の感覚だ。


 かつての彼女なら、この不快な熱を冷徹に切り捨てられたはずだ。

 けれど今はもう、どうすればこの熱を手放せるのか、その方法すら思い出せない。

 一度知ってしまった体温は、彼女の魔力では決して洗い流せない。


 たとえ彼が戻ってきても、戻ってこなくても。

 もはや彼女は、彼を知る前の自分へと浄化されることはないのだ。


 木々のざわめきの向こう側、霧の層が僅かに揺らぐ。

 彼女はそれを、瞬きさえ惜しむように見つめ続けた。


 不慣れな毒は、すでに彼女の体内に深く回っている。

 それは、孤独という名の絶対的な特効薬を、鮮やかに塗り替えてしまうほどに、残酷で甘美な温度を持っていた。

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