第19話:誰かを待つという、不慣れな毒
ピピの賑やかな小言と、ルシアンの重厚な足音が霧の向こうへ消えてから。
ドラクロワ城には、以前よりもいっそう深く沈黙が沈んでいた。
城を囲むのは、天を突くほど高く、密集して光を拒絶する古の巨木たち。
雨を含んだ湿った土と、長い年月をかけて降り積もった腐葉土の匂いが、今日は一段と濃く、重く感じられる。
森の静寂は時として、そこに佇む者の輪郭さえも霧の中へ溶かし、曖昧にしてしまうかのようだ。
ベルローズはテラスのテーブルで、薄い磁器のカップを手にしていた。
立ち昇る白く細い湯気が、彼女の肌をかすめ、虚空へと消えていく。
その向かいの席には、ベルローズへの給仕を終えたアマンダが、当然のように腰を下ろしていた。
彼女は琥珀色の瞳を細め、ベルローズの手元をじっと見つめている。
「……今日は、少しだけ苦い匂いがしますね、ベルローズ様。焦げついた期待と、湿った不安が混じり合った、雨上がりの土のような匂いです」
アマンダは穏やかに、けれど迷いのない声で言った。
彼女は、テーブルに活けられた野の花の薄い花弁を愛おしげに撫でながら、ベルローズの表情を覗き込む。
そこに他者の領域を侵すような悪意はなく、ただ森に咲く花の色を確かめるような、無垢で残酷なまでの純粋さだけがあった。
「……苦い? 淹れ方はいつもと同じはずよ、アマンダ。茶葉もピピが厳選したものだし、あなたが地下の霊水で淹れたのでしょう」
「淹れ方の問題ではありません。ベルローズ様の心の奥の、ずっと深い場所に、小さな淀みが溜まっています。……ルシアンさんが、あの霧の向こう側へ行ってしまったからですか?」
ベルローズは、静かにカップをソーサーに戻そうとした。
だが、アマンダの言葉が核心に触れた瞬間、持ち手を支える指先が微かに震え、茶の水面に小さな、けれど確かな波紋を作った。
ベルローズはわずかに視線を逸らし、それをごまかすように、音を立てずにカップを置く。
アマンダは他者の感情を、言葉や論理で理解しようとはしない。
ただ、大気中の胞子を感じ取るように、そこに流れる熱や冷たさを直接的に感知する。
魔女が幾重にも張り巡らせた心の結界も、この森の落とし子には、陽光を通す薄布のような意味しか持たなかった。
「信じているわけではないわ……。ただ、ようやく馴染み始めた道具を早々に失うのは……、効率が悪いと思っているだけ」
「効率。……不思議な言葉ですね、それは」
アマンダの肌からは、雨上がりの森のような、清涼でどこか懐かしい香りが漂ってきた。
ベルローズの瞳が、わずかに揺れる。
「昨日の夜、ルシアンさんが見回りから戻ってきたとき。ベルローズ様の角から、少しだけ蒼い光を感じましたよ。あの子が戻ってきて、よかった……。って」
アマンダが小首を傾げ、テーブルの上に置かれたベルローズの手を、自分の冷たくて柔らかい指先でそっと包み込んだ。
「そんなことは……」
否定しようとした言葉が、喉の奥で熱い塊となって詰まる。
ベルローズは、不意に自覚してしまった。
先ほどから何度も、手に持った魔導書の同じ行を読み返していること。
わずかな風の音に耳をそば立て、霧の薄い部分を無意識に視線で追っていること。
(私は……、待ってしまっているの?)
一度芽生えた自覚は、鏡に走った亀裂のように一気に広がっていく。
効率や、支配という言葉で塗り固めていた偽りの平穏が、内側から崩れ落ちる。
そこには、孤独を恐れるただの人間の顔が、無様に露出し始めていた。
「森の深い場所にある根っこが、恵みの雨に喜んで揺れるみたいに。優しく、優しく光っていました」
「…………」
ベルローズは、何も答えられなかった。
重ねられたアマンダの指先から、微かな魔力が伝わってくる。
それが頑なな心の表層を静かに撫で、強張りを解いていく。
実のところ、先ほどから自身の胸元や指先に、微かな、けれど熱い共鳴が届いていた。
遠く離れたルシアンの感情の断片が、あの薔薇のチョーカーを通じて流れ込んできているのだ。
それは彼女がこれまでの孤独な人生で、呪いとして、あるいは不純物として必死に排してきた、他者の体温そのものだった。
「もしあの人が、このまま人間たちの街で、新しい居場所を見つけたら……。ベルローズ様は、また独りぼっちに戻って、枯れてしまいますか?」
アマンダの言葉は、何の衒いもなくベルローズの胸の急所に触れてしまう。
『独りぼっち』。
それはベルローズがかつて自ら選び、唯一の安全圏として守ってきた聖域だったはずだ。
誰にも期待せず、誰の期待も背負わなければ、裏切られる絶望に喉を焼かれることも、守れなかった後悔に身を引き裂かれることもない。
それなのに。
アマンダの問いに、喉の奥が引き攣るような空虚さを感じてしまうのはなぜか。
あの不器用で、けれど真っ直ぐに自分を射抜く蒼い瞳を、いつの間にかこの霧の中で待っている自分がいる。
「……あの子は私の騎士よ。あの薔薇が枯れない限り、私の側を離れることは許されない。そうでしょう?」
「そうですね。……でも、ルシアンさんの薔薇、今日はとても元気に脈打っていましたよ。苦しくて動くのとは違う、生きるのが楽しい、って脈動です」
アマンダはそう言うと、どこからともなく取り出したキノコの傘を、ふわりと揺らした。
微かな光を帯びた胞子がキラキラと雪のように舞い、テラスの空気を穏やかに沈めていく。
それは、言葉を持たない広大な森が、孤独を愛しすぎた魔女に捧げる、静かな抱擁のようだった。
「命令されているからじゃなく、ベルローズ様に、素敵なものを見せたいって思っている匂い。……あの人の想いは、もう森の霧よりも濃くなっています。隠そうとしても、隠しきれないくらいに」
ベルローズは、アマンダの不思議な安心感を与える魔力に包まれながら、深い森の奥へと続く道をじっと見つめた。
指先に届く共鳴が、先ほどよりも少しだけ、誇らしげな熱を帯びて跳ねる。
誰かを待つという行為が、こんなにも毒のように胸を締め付け、同時に、凍てついた血液を溶かすような熱を与えるものだとは。
ベルローズは、冷めかけた茶を一口、ゆっくりと喉に流し込んだ。
舌に残る微かな渋みと、遠くから響く鳥の羽ばたき。
それが今、この城の静寂を繋ぎ止める唯一の感覚だ。
かつての彼女なら、この不快な熱を冷徹に切り捨てられたはずだ。
けれど今はもう、どうすればこの熱を手放せるのか、その方法すら思い出せない。
一度知ってしまった体温は、彼女の魔力では決して洗い流せない。
たとえ彼が戻ってきても、戻ってこなくても。
もはや彼女は、彼を知る前の自分へと浄化されることはないのだ。
木々のざわめきの向こう側、霧の層が僅かに揺らぐ。
彼女はそれを、瞬きさえ惜しむように見つめ続けた。
不慣れな毒は、すでに彼女の体内に深く回っている。
それは、孤独という名の絶対的な特効薬を、鮮やかに塗り替えてしまうほどに、残酷で甘美な温度を持っていた。




