第19話:隠れ市の沈黙
『鴉の止まり木』に足を踏み入れた瞬間、ルシアンの五感は、外界特有の汚れに激しく揺さぶられた。
石畳の隙間にこびりついた古い油の匂い、人間の汗、埃。
そして隠しきれない、剥き出しの欲望が混じり合った魔力の残滓。
城の清謐な空気に慣れきった彼の肺にとって、それは毒にも等しい生臭さだった。
「……くせぇな。風が淀んでやがる」
ルシアンは、深く被り直した外套の中で鼻を鳴らし、不機嫌さを隠そうともしない。
だが、その足取りだけは音もなく、獲物の群れに分け入る捕食者のような、圧倒的な威圧感を放っていた。
外套の裾から覗くブーツが、無機質な石畳を冷徹に踏み締めていく。
視界の端には、煤けた肉を串刺しにして焼く屋台や、出所不明の工芸品を並べる露店がひしめいている。
不意に、ルシアンの足が止まった。
一軒の露店に、粘りつくような魔力の淀みを感じたからだ。
店先には、かつて生き物であった形を辛うじて留めている、干からびた骨や何かの鱗などが、魔法の触媒として雑多に並べられていた。
そして、その中央に置かれた水槽。
濁った水の中で、複数の瞳が浮遊し、こちらをじっと見つめていた。
その中の一つ、ルシアンの髪色を思わせる、深い藍色の瞳。
ルシアンは反射的に視線を逸らした。
だが、鋭敏すぎる嗅覚が、防腐薬の奥に隠された死の臭いを容赦なく捉えてしまう。
視線を落とした先。
無意識に探してしまったのは、それらに括り付けられた値札だった。
聖銀の檻で、自分も同じように値踏みされていた記憶。
胃の底からせり上がる吐き気を、彼は奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
「……おい、ピピ。あんな店、放っておいていいのかよ」
「やだね、関わりたくもない。趣味が悪いったらありゃしないよ。ああいう連中は……、価値の扱い方が雑なんだから」
ピピはルシアンの視線に気づき、一瞬だけ歩く速度を落としたが、事務的に先を急ぐ。
その冷徹さこそが、ルシアンを部品ではなく騎士として扱う、この城の秩序だった。
「まずはあそこだ。いい?黙ってついてきなよ。君はそこに立っているだけでいいからさ。余計な牙は見せないでね、ルシアン」
先を行くピピが、乾燥した香草の香りがむせ返るほど漂う、一軒の薬種問屋の前で足を止めた。
店先には、怪しげな液体が詰まった琥珀色の瓶や、泥がついたままの薬草、カビの生えた根のような素材が、値札もなしに乱雑に並んでいる。
ピピはその中から、ベルローズが好む特別な茶葉の袋を手に取ると、一瞬で眉をひそめた。
「……話にならないね。ゴミを売るのが商売かい?」
ピピの灰色の瞳と声は、冬の朝の氷のように冷ややかだった。
彼は澄んだ瞳で、じっと茶葉の袋を見つめる。
「この乾燥の甘さ、標高が足りない場所で摘んだね。昨日の雨で湿気を含んだものを、無理やり熱魔法で乾かした粗悪品だろ?」
店の奥から慌てて出てきた脂ぎった顔の店主を無視し、ピピは茶葉を一摘みした。
指先で軽く擦ると、乾燥しきっていない茶葉から鈍い音が鳴る。
彼はそれを鼻先に近づけ、目を細めて香りを精査した。
その動作一つにも、彼の妥協なき矜持が滲んでいる。
「芯まで焦げて、香りが死んでるよ。ベルローズ様の喉を通すには、あまりに不潔だ。これじゃあ雑草を煎じた方がまだマシだね」
ピピは、魔法の雑な熱によって茶葉の命が冒涜されていることを、はっきりと感じ取っていた。
子供のような外見の少年に、その道の玄人でも見抜けない工程の欠陥を即座に指摘された店主は、言い返そうと顔を赤くする。
その瞬間、ピピの背後に影のように控えていたルシアンが、音もなく一歩前に出た。
ただそこに立っているだけ。
だが、フードの奥の暗がりに灯るのは、凍てつくようなサファイアブルーの瞳。
その奥で、円形の瞳孔が獲物の急所を定めるように鋭く絞り込まれ、冷徹な光を放つ。
店主は、自らの喉元に目に見えない冷たい刃を突きつけられたような、絶望的な死の予感に打たれ、言葉を失う。
ルシアンはピピに言われたとおり、声を出さなかった。
だが、彼から放たれる圧倒的な野生の覇気と、ベルローズの魔力が混じり合った異質のプレッシャーが、店主の膝をガクガクと震わせた。
商人は額の脂汗を袖で拭い、震える手で不出来な茶葉の袋を下げる。
言葉を交わさずとも、その目がすべてを制圧していた。
その後も、ピピの苛烈な商談は続いた。
野菜の鮮度、肉の熟成具合、さらには城に飾られた鎧を拭うための端切れの質感に至るまで、執拗なまでのこだわりを見せている。
いつもならピピをただの生意気な小僧と侮り、まがい物を掴ませようとする老練な商人たちも、今日ばかりは背後に控えるルシアンを一瞥しただけで、その卑屈な企みを飲み込んだ。
ルシアンは、周囲から注がれる畏怖の視線を冷笑するように受け流していた。
荷車を引く屈強な男たちや、遠巻きにこちらを窺う女たち。
彼女たちは、フードの陰に見えるルシアンの端正な横顔と、彼が纏う冷厳な魅力に視線を奪われていたが、誰一人として不用意に近づこうとはしない。
ルシアンの瞳が放つ拒絶の色が、あまりに絶対的で、不可侵だったからだ。
「……おい。そんなに細かくやる必要あんのかよ」
重くなった荷袋を両肩に軽々と担ぎながら、ルシアンが低い声で問いかけた。
「当たり前だろ。ベルローズ様はね、魔法で作った偽りの金なんて好まない。正当な対価で、正当な品を揃える。その秩序を愛してらっしゃるんだ。適当なものを持ち込むのは、主が守る世界の純度を下げるんだよ」
ピピは満足げに鼻を鳴らすと、入り組んだ路地の奥にある店へと向かった。
「さあ、次はこれ。君の訓練用の長剣に差す油を買うよ。ベルローズ様からの特命だ」
ピピは、厳重に封をされた小さな琥珀色の小瓶を、恭しくも無造作にルシアンへ手渡した。
並みの騎士ならひと月ぶんの給金に相当するであろう一級品だ。
瓶を傾けると、詰められた油が重たく落ちていく。
「いいかいルシアン、これはベルローズ様が君に期待しているから買うんだよ。だからこそ、わざわざこんな特級品を買い与えるんだ。……しっかり受け取りな」
それは、ピピなりのルシアンへの激励だった。
ルシアンはその小さな瓶を、自身の無骨な掌で慎重に受け止める。
指先に伝わる瓶の冷たさと、見た目以上にずっしりとした重み。
それはただの手入れ道具の重さではなく、主から託された期待の重みそのものだった。
「……あぁ。わかってる」
ルシアンは、自身の首元の薔薇にそっと触れた。
外界の不潔な匂いの中で、そこから漂う主の冷やかな残り香だけが、彼に戦う理由を思い出させるものだ。
周囲の視線はまだ彼を追っていたが、ルシアンはもはや、それを気にする必要さえ感じなかった。
彼の居場所は、この有象無象の雑踏にはない。
あの森の奥、薔薇が咲き誇る城で、美しくも孤独な魔女の騎士として、ただそこに在ること。
それが彼の選んだ誇りだった。
そして、ルシアンはふと気づく。
ベルローズが城の中で優雅に、冷徹に佇んでいられるのは、こうしてピピが泥臭く、執念深く、外の世界との境界線で城の質を死守しているからなのだと。
言葉で揶揄い合うことはあっても、ピピは、主の尊厳を物理的な物質の面から守る、もう一人の番人だ。
(……こいつもこいつなりに、戦い以外のやり方でも、あいつの縄張りを守ってんだな)
彼は肩に食い込む重い荷物の感触を、主の平穏を守るための誇りとして受け止め直すと、ピピの後ろ姿を黙って追いかけた。




