第18話:黒の栞、初めての報酬
市場を巡るピピの足取りは、昼を過ぎても衰えることを知らない。
むしろ、その鋭さは増す一方だ。
ピピが次に立ち止まったのは、年代物の魔石や触媒を専門に扱う、路地裏の古びた交易所だった。
大小さまざまな魔石、魔導書、怪しげな魔法薬などが、うっすらと埃をかぶって並んでいる。
カウンターの奥に座る店主の老人は、ピピの幼い外見を一瞥すると、その濁った瞳の奥に浅ましい計算を走らせた。
(……何だ、こんなガキが使いか。高慢な物言いの割に、中身は何も知らない坊ちゃんだろう。適当な二級品を貴族御用達の値で売りつければ、ひと月は遊んで暮らせるな)
老商人は、ピピに向かって揉み手をして卑屈な笑みを浮かべると、奥から小汚い布に包まれた、魔力の濁った石を取り出してきた。
だが、彼が口を開くより先に、ピピの放つ冷ややかな気配が、黴臭い店内を凍りつかせた。
ピピは老人の言葉を待たず、カウンターに身を乗り出す。
その灰色の瞳には、人間の子供にはおよそ宿るはずのない、精霊特有の傲岸不遜さが宿っていた。
ピピが無言で指先を弾くと、老人の手元にあった石が、まるで拒絶されたかのようにガタガタと悲鳴を上げて震えだす。
「……僕の目を節穴だとでも思ってるわけ? 泥を売るなら他所でやりなよ」
老商人は、その圧倒的な格の違いに言葉を失うと、助けを求めるように、背後に立つ大柄な護衛に目をやった。
ルシアンは商人の視線に気づくと、腕を組んだまま、フードの奥に潜ませたサファイアブルーの瞳を、塵でも見るかのように興味なさげに細める。
牙を剥く必要はない。
ルシアンから放たれる、死線を幾度も潜り抜けてきた幻獣特有の覇気が、老商人の浅知恵を砕く。
老人は恐怖に顔を引き攣らせ、慌てて金庫の最奥から取り出した本物の『特級魔石』を震える手で差し出した。
「……目立つねぇ、やっぱり」
取引を終えて店を出た後、ピピがぽつりと、肩越しにルシアンを盗み見るように言った。
「なんだよ。言いつけは聞いてやってるだろ? 立ってるだけでいいって言ったのはあんただぞ」
ルシアンの背後には、最高級の小麦粉、厳選された蜜蝋、そしてベルローズのための贅沢な刺繍糸など、ずっしりと重い荷物が山のように積み上がっている。
人間なら数歩で音を上げる重量だが、ルシアンの強靭な背は、それをまるで羽毛か何かのように軽々と受け止めていた。
「便利と言えば便利だけどさ。……ルシアン、さっきからあちこちで熱い視線を浴びてるよ。少しは愛想でも振りまいたらどうだい? 営業妨害だよ」
「……知るか。どいつもこいつも、癪に触る匂いしかさせねぇ。……虫唾が走る」
ルシアンの鋭敏な感覚は、周囲の人々が向ける感情を、望まぬほど鮮明に拾い上げてしまう。
憧憬、畏怖。
あるいは「希少な存在を私物化したい」という、王都の魔導士たちと同じ、浅ましい所有欲。
それらは彼にとって、かつて自分を冷たい檻に閉じ込めた人間たちの欲望と何ら変わらぬ、濁った色をしていた。
だが、一軒の古びた細工物屋の前を通り過ぎようとしたとき、ルシアンの足が唐突に止まる。
店先の雑多な陳列の中で、それは不自然なほど静かに、異彩を放っていた。
漆黒の銘木を極限まで薄く削り出し、鏡のように磨き上げた一枚の栞。
主の角を思わせる、光を吸い込むような、深く、底のない闇を切り出したような黒。
その上部には、一粒の小さな宝石が嵌め込まれている。
彼女の瞳の色を彷彿とさせる、妖しくも透明な、深い紅色の小石。
(……あいつ、いつも指を本に挟んだまま、窓の外を見てるからな)
ルシアンは無意識のうちに、主が独りきりで過ごす静寂の時間を想像した。
彼女が本を閉じる瞬間。
その指先の代わりに、この黒が彼女の物語を繋ぎ止める光景。
想像した瞬間、ルシアンの足は石床に縫い付けられたように動かなくなった。
ピピはそれを見逃さなかった。
彼の視線が、ルシアンの表情と、見つめる先にある黒い栞の間を往復する。
ルシアンが、自分のための武器や装飾品に興味を持つはずがない。
その執着が誰に向けられたものか、ピピは瞬時に察した。
「ねぇ。……それ、欲しいの?」
「……別に。ただの木の板だろ。……もう行くぞ」
「嘘だね。フードに隠れてたって僕にはわかる。耳が今、ぴくっと動いたよ」
ピピに図星を突かれ、ルシアンは苦々しく舌打ちをして顔を背けた。
隠したつもりだった本能的な高揚を、ピピの鋭い観察力は逃さなかった。
「でも、ざーんねん。君、一銭も持ってないだろ? この街じゃ力はあっても、信用……。つまり『貨幣』がなきゃ、枯れ葉一枚買えやしないよ」
ルシアンは黙り込んだ。
かつての彼の世界では最強の牙こそが法だったが、この人間たちの社会では、美しくも無機質な円盤が価値を決定する。
主のために何かをしたいと願っても、その手段を持っていない自分。
それが、今の彼にはひどくもどかしく、腹立たしかった。
「うーん、貸してやってもいいけど、君に余計な恩は売りたくないし……。あ、そうだ。ちょうどいいのがあった」
ピピは悪戯っぽく笑うと、懐からずっしりと重い革の小袋を取り出し、ルシアンに放り投げた。
チャリン、という硬質な音が、ルシアンの掌に響く。
「これさ。君が昨夜倒した、あのキメラが消えた跡に落ちていた魔力の結晶を、さっき馴染みの換金所に流した分だよ。朝、城の結界を点検しているときに見つけたんだ」
ルシアンが怪訝そうに眉を寄せると、ピピは「やれやれ」と肩をすくめて続けた。
「君の蒼炎が、不純物だけを綺麗に焼き払ってくれたおかげで、核の魔石が最高級の純度にまで精錬されたんじゃないかな。これだけの価値が出るなんて、商人も腰を抜かしてたよ。……まったく、君は無自覚に高価なものを作るねぇ」
ピピは、城の運営費を計算するような手つきで空中に指を走らせる。
「本当は全額、城の補修費に入れるつもりだったけど……。今回は特別に、君の取り分としてあげるよ」
「……俺の、取り分?」
「騎士としての初報酬、ってところかな。自分の力で獲った獲物だ、君の好きに使いなよ」
ピピはそう言うと、自分より二回りか三回りは大きなルシアンの背中に手を伸ばし、まるで後輩を励ます先輩のように、ぽんと叩いた。
「……あ、お釣りはちゃんと確認しなよ? 騙されて端金を掴まされたら、城の、いや、僕の教育が疑われるからね」
ルシアンは、小袋の重みを確かめるように握り締めた。
誰かに与えられた恵みではない。
自分の牙で、自分の力で得た、正当な対価。
ルシアンの蒼い尾が、外套の下で一度だけ力強く、誇らしげに揺れた。
彼は視線を落とし、添えられた値札をじっと見つめる。
数字の意味はまだ完全には理解できないが、そこに刻まれた価値という概念が、今の自分には重すぎる気がした。
だが、磨き上げられた黒の表面に、自分の蒼い瞳が映り込んだ瞬間、迷いは消えた。
自分の瞳の色を飲み込むほどの、深い黒。
それはあの城で、自分を景観の一部だと認めた主の色だ。
「……これ、全部だ。それでいいだろ」
彼は今度こそ、その小袋を細工物屋の店主に差し出す。
交渉も値切りもしない、ひどく一方的で、不器用な買い方だった。
店主は袋の中の金貨を見るなり、泡を食って「お釣りが……!」と叫んだが、ルシアンは既に栞を懐に仕舞い、背を向けていた。
その姿を眺めていたピピは、呆れ顔だがどこか満足げだ。
「……馬鹿だね。ちゃんとお釣りを貰うように言っただろ?あの袋なら、店の棚ごと買えたよ」
「うるせぇ……。俺には、これ一枚で充分だ」
細かい計算など知ったことではない。
彼の中ではもう、価値は決まっているのだから。
手に入れた栞は、木の温もりを宿して、驚くほど軽い。
かつて彼を繋いでいた、冷たく重苦しい銀の鎖とは対極の質感。
彼はそれを慎重に、外套の内ポケットへと仕舞い込んだ。
高鳴る心臓の鼓動に近い場所で、小さな木の感触が伝わってくる。
その微かな硬さが、自分には帰るべき場所があり、報いたい主がいることを、より確かなものにしている気がした。
「さーて、荷物持ち! 仕事に戻るよ。アマンダが待ちくたびれて、城の入り口をキノコだらけにされる前にね」
「……分かってるよ」
ルシアンは、先ほどよりも少しだけ足取りを速めて、ピピの後を追った。
山のような重い荷物も、今は不思議と苦になりそうもない。
ポケットの中にある小さな紅と黒が、主の静かな書庫に馴染む光景を、無意識に、そして誇らしげに思い描きながら。
彼は初めて、自分自身の意志で踏み出す一歩の、確かな重みと喜びを感じていた。




