第8話『愛の化身』
時は十分ほど前に遡る。
各々が試練を開始してから、未だ二十分ほどしか経っていないにもかかわらず――その中の一組が、早くも入口から姿を現した。
「んひー楽ちかったーー!また遊ぼうねお兄ちゃんっ!」
「いやいや僕は……もういいかな……」
「んーなんでぇ?ぱずる嫌い?」
「そうじゃないけどね。あの部屋暗いし、不気味だったし……"まじゅま"ちゃんは怖くなかったの?」
「んーまじゅまは慣れっこだからね!」
「慣れっこ……?」
あの明らかに異質な状況を、満面の笑みで「慣れっこ」と言い切る少女。その声色は無邪気そのもので、あまりにもあっさりとしている。だからこそ、日凪 駒琴は背筋にぞわりと悪寒が走った。
「うん!よかったら、お兄ちゃんもこんど遊びにきてよ」
「遊びにって……どこへ?」
「まじゅまのおうち!"りんどへんぼ"――あっ!」
不意に、まじゅまは慌てた様子で口を抑えた。
「これはないしょなんだった。いけない、いけない!お口チャック、お口チャック……」
そう言って、まじゅまは自分の口にチャックをするような仕草をしてみせる。次の瞬間には、何事もなかったかのようにくるりと背を向け、軽い足取りでスキップしながら駆け出していった。
他チームの様子がよほど気になるのか、それとも動いてないと気が済まない性分なのか。
少女は立方体の外壁をこんこんと叩いたり、ぴたりと耳を押し当てたりしながら、何やら楽しげに周囲をうろついていた。
「まじゅまちゃーん、あまり他の人達を邪魔したら駄目だよー」
「はーーーい」
返事こそしつつも、その足取りが止まる気配はない。
駒琴の注意などどこ吹く風といった様子で、まじゅまはずんずん奥へと進んでいく。
「……まいったなぁ」
好奇心旺盛な謎の少女――小鳥遊まじゅま。
年齢は十三歳を迎えたばかり。
言動や振る舞いだけを見れば、実年齢よりもずっと幼く感じられる。良くも悪くも"純真無垢"。
子供らしい無邪気さを全身にまといながら、その何気ない言葉の端々には、どこか得体の知れない不気味さが滲んでいた。
駒琴は小さく息を吐き、ひとまず目の前の現実へ意識を戻す。とにかく今は、運よくこの試練を乗り越えられたことに、安堵するしかなかった。
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その頃、開始直後の緑チームでは――。
「私は忘 真白。職業は警官を務めている。貴殿とこうして会話をするのは初めてだな。一時的とはいえ同じチームとなったからには、よろしく頼む」
今回の試練は、互いの協力が不可欠だと事前に説明されていた。ならば、始まる前に相手の素性を多少なりとも把握しておく必要がある。そう判断した真白は、友好の証として右手を前へ差し出した。
いわゆる形式的な握手というものだが、初対面の相手との距離を測るには、それで十分だった。
「へぇ、女警官……どうりで……」
目の前の男は、どこか興味深そうにそう呟いた。
目深に被ったシルクハットは、まるで舞台上のマジシャンを思わせる。しわ一つない真っ黒なスーツをびしっと着こなし、その佇まいは一見して隙がない。巨漢の煙団太には及ばないまでも、身長は優に百八十センチを超えているだろう。
整えられた顎髭に、肩口まで伸びた金髪のミディアムヘア。細身ながらもがっしりした体格と、黒ずくめの装い。初見の印象だけで言えば、少し威圧感のある怪紳士――といったところか。
だが、次の瞬間。
「――アタシはミストゥビオ♡友達にはミスティって呼ばれてるわ♡大変だけどお互いよろしくね、マシロン♡」
「マ、マシロン!?」
予想外にもほどがある、妙に艶やかなオカマ口調。
しかも初対面で、どこかで聞いたことのある洋菓子のようなあだ名まで付けられてしまった。
あまりの落差に、真白は差し出した右手をほんの一瞬だけ固まらせてしまう。対するミストゥビオは、そんな反応など気にした様子もなく、左手でシルクハットを脱ぎ去ると、丁寧な所作でそれを胸元へ添え、空いた右手で真白の手を包むように握り返す。
「あ、ああ……よろしく頼む。ミスティさん」
真白はわずかに動揺するも、できる限り冷静にそう返答えた。
「早速で悪いんだけど――ちょっとテストしてもいいかしら?」
「……なにをだ?」
問い返した、その直後。
グイッ――と。握られた右手に、突然凄まじい力が込められる。
「っ……!?」
一瞬、真白の体が前のめりにもっていかれる。
だが、彼女の反応は凄まじく早かった。引っ張られる力に逆らうのではなく、あえてその流れに身を預ける。
一歩踏み込んだ足を軸に、身体を空中でくるりと反転させると、握られた手首を捻るようにしてするりと抜き、危なげなく床へ着地した。
まるで舞踊のようにしなやかで、アクロバットじみた受け身術。
その無駄のない動きに、ミスティの目が僅かに見開かれる。
「な、何する気だっ!」
真白は即座に距離を取り、警戒心を露わにしてミスティを睨む。
対するミスティは、悪びれた様子もなくぱちぱちと拍手を叩く。
「Excellent…♡素晴らしい身体能力…♡
日本の警察ってやっぱり凄いのね。アタシ感心しちゃった♡」
「本来であれば、状況によっては公務執行妨害、あるいは準暴行罪に問うところだぞ……」
「ええ、試すような真似してごめんなさい」
ミスティは肩をすくめ、にこりと艶やかに微笑む。
「お詫びといってはなんだけど――アタシの秘密を、マシロンには特別に教えたげる♡」
「ひ、秘密だと……?」
「ええ、マシロンに今――"コレ"はいる?」
そう言って、ミスティは小指を一本立ててみせる。
「な、なんだ急に!私はそんなもの……」
「あらヤダ、お堅いわねぇ。いいじゃないの、こういう時こそ恋バナで心をほぐすのよ♡ちなみにアタシはねぇ、沢〜山いるわよ♡」
「た、沢山…!?」
「ええ、そりゃあもう!"老若男女・世界各国千差万別"♡今のところ年長は七十七、年少は二十歳。よりどりみどり、なんでもござれ♡」
「そ、そそ、それは…全員と付き合ってるのか?」
真白の声が、本人の意思とは裏腹に思わず裏返る。
「あったり前のもちロンギヌス♡ 愛には国境も年齢も性別も関係ないの。全員等しく平等に、たっぷり愛してるわ♡」
真白の常識で塗り固められた城壁は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。警官として、これまで様々な人間を見てきたつもりではあったが、世界はまだ、彼女の想像よりもずっと広いらしい。
「そ、そうか、そんな世界もあるのだな。勉強になっ――」
言い終えるよりも前に、真白はこめかみを強く押さえ、その場に膝をついた。
「マシロンッ!?ちょっと、急にどうしたの!」
「ぐっ……!き、気にするな、問題ない……」
額からはたらたらと汗を流し、体は小刻みに震えている。
「ごめんなさい、アタシの秘密がそんなに衝撃だったかしら!?」
「いや……断じて、そうではない」
真白は苦しげに息を吐きながら、震える指先で額を押さえた。
「思い出したのだ。私には確かに……かつて"恋人"がいた」
荒い呼吸を整えながら、真白は記憶の輪郭をなぞるように言葉を紡ぐ。
「そうだったのね、その殿方はどんな人だったの?」
「昔からの……間柄だった気がしている。それこそ、幼馴染のような……」
そこまで口にしたところで、真白は苦しげに眉を寄せる。
「……駄目だ。これ以上は思い出せない……」
「大丈夫よ。無理に思い出そうとしなくていいわ」
ミスティは先ほどまでの軽薄な調子を完全に引っ込め、真白の呼吸が落ち着くまで静かに介抱した。
「ほら、立てるかしら?」
「……すまない。感謝する」
真白は差し出されたその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「さ――思ったより長話しちゃったわね。他の子たちはもう行っちゃったみたいだし、アタシたちもそろそろ行きましょうか♡」
「ああ、改めてよろしく頼む」
「ふふっ♡マシロンのこと気に入っちゃったわ。だから――"お互い"、必ず生き残りましょう」
先ほどまでの冗談めかした口調とは違う。
今のミスティの眼差しは、どこまでも真剣そのものだった。
「ああ。必ずだ」
そうして二人は、それぞれ別々の入口へと向かっていった。
――生き残る。
その言葉に引きずられるように、真白の脳裏へぼんやりと誰かの後ろ姿が浮かび上がる。
目つきが悪くて、お調子者で。
勉強もできず、担任にいつも怒られてばかりいた。
それでもなぜか、放ってはおけない"彼"の姿。
けれど、真白はまだ思い出せない。
かつて自分の隣にいたはずの――その名前を。
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【44:50】
【44:49】
【44:48】
……暑い。
……猛暑い。
……酷暑すぎる。
突き刺すような熱気が、肌をじりじりと灼いていく。
額から、首筋から、背中から。
全身をぽたぽたと垂れる汗が、止まらない。
今の室温は何℃なんだろう。
嗚呼……水が飲みたい。カラッカラだ。
本来は大嫌いなジンジャーエールでさえ、今なら飛び付いて飲み干す自信がある。
幸い意識ははっきりしている。
今はまだかろうじて、耐えられる範囲ではあるが、あと十五分も経過したらどうなるかなんて、今の私には保証できない。
一刻も早く。
一秒でも早く。
今はただ、手を動かすことだけに集中する。
目の前に散らばる、千にも及ぶ集合体。
そのひとつひとつに、全神経を注ぎ込んでいく。
――なんだろう、この不思議な感覚。
暑さで遂に頭がおかしくなったのだろうか。
周囲の雑音という雑音がゆっくりとボリュームダウンして。
つられて恐怖も、苛立ちも、焦燥感も、ゆっくりと輪郭を失なっていった。
やがて訪れるのは、何も感じない無の静寂。
痛みもない。
熱もない。
焦りすらない。
ただ、目の前の物事を、淡々と、作業的にこなしている自分だけがそこにいる。そしてその姿を、私はどこか遠くから眺めていた。まるで天井近くに浮かび上がり、他人事のように、自分自身を見下ろしているみたいに。
これがいわゆる、"神視点"というやつなのだろうか。
ああ、こんなことを続けていたら、私は一体どうなってしまうんだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
例えるなら、私の体が少しずつ、少しずつ。
薄青から、透明へ近づいていくような感覚。
もちろん、本当に透明になっているわけじゃない。
混じり気のない、純度百パーセントの自分。
まあ、こんなことを考えている時点で、雑念まみれじゃねーかという至極まっとうな反論については、ひとまず置いておくとして。
今はただ、このくだらない試練を終えることに専念するとしよう。
「ニヤニヤ。やっぱり――"瑠璃"は特別だに」




