第3話『被験体』
「ど、どうしたんですか!?瑠璃さん、ちょっと――!」
烈々子の制止を振り切って、私は立ち上がる。
止められるのは当然だ。
だけど、このまま手をこまねいている時間はない。
向かう先はテーブルの上。
だらしなく口を開いた黒十字の救急箱。
狙いは、その中に整然と並べられた注射器。
不気味なほどに透き通った、まるでかき氷のシロップみたいな青い液体が、細い筒の中に存在している。
(ん?……おかしい)
ボタンは"十一個"しかなかったはず。
それなのに、注射器の数は"十二本"。
ここにきて、数を間違えるなんてことがあるだろうか。
いや、あり得ない。
こんな悪趣味な密室をわざわざ用意して、なんなら毒ガスまで仕込んでいるような連中が、そんな杜撰な真似をするとは思えない。
ならば――この"一本多い"注射器には何らかの意味があると考えるのが自然。
……駄目だ分からない。一先ず今はここで立ち止まって結論を出している時間はない。私は並べられた十二本の中から――あえて、"作為的"に一本を選び取った。
「……瑠璃さん…?何をするつもり……」
烈々子が慌てふためく姿をよそに、私はセーラー服の袖をまくり上げると、青い液体が満たされた謎の注射針を自らの腕に突き刺した。
「――ッ!」
ぶすり、と鈍い感触。勢いがつきすぎたのか、針の根元からぷつりと血が滲み、そのまま赤い筋となって肌を伝う。
「きゃああああああああああああああッ!!!」
烈々子の絶叫が響きわたる。
「おぉ〜大胆だね」
対照的に、百千切はどこか感心した様子で呟く。
「っ、ぅ……!」
痛みを噛み殺しながら、私は親指にぐっと力を込める。
押し込まれた青い薬液が、じわりじわりと腕の内側へ侵入してくる。血管の奥を、冷たい何かがぬめるように這っていく感覚に、背筋がぞわりと粟立った。
今になって思えば、なんて無謀な選択だったのだろう。
注射器なんて、誰かに打ったことすらない。
ましてや、自分自身に向けて打ったことなど一度だってない。
打つ場所を誤れば、急性ショックや神経障害を引き起こす可能性だってある。最悪の場合――死に至ることさえ。
そんな危険を孕んでいながら、それでも私は躊躇しなかった。
どこの誰が仕組んだのかは分からない。
けれど、きっとどこかでこの異常な光景を、嬉々として眺めている連中がいる。私たちが怯え戸惑い、壊れていくのを。
安全地帯から娯楽目的で見下ろしている誰かがいる。
そう考えた瞬間、胸の奥から怒りがふつふつと湧き上がった。
いわば、これは度胸試し。
さっきのボタンだってそう。そして今度はこの注射器。
こちらに与えられた選択肢は、どれも“いかにも怪しい”ものばかり。仮に『打てば助かる』とでも、ご丁寧に張り紙がされていたなら、誰だって多少の躊躇はあってもいざとなれば打てるだろう。
だが、実際は違う。
この青い液体の正体は不明。
有害なのか無害なのか、何か別の仕掛けなのかも分からない。
どれほどの即効性があるのかも、皆目見当がつかない。
かといって、だらだらと戸惑い、迷い何ひとつ行動を起こさなければ、全員揃って仲良くお陀仏コースが待っている。
――どうせ死ぬのなら。
最後の“選択”くらいは自分の意思で決断したい。
それが正しいか、間違っているかはひとまず置いておくとして。
何より、私がこの注射器を打つと即決した理由は、もう一つあった。
「百千切さん――あなたですよね。私が打つより先に、この注射を使ったのは」
そう言って、私は救急箱の中から一本の注射器を取り出した。
私が使った物とは別の、中身をすべて吐き出しきった空の注射器を――。
百千切は黙って私を見つめる。
それから、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「よく分かったね。うん、そのとおりだよ」
「注射器の中身が安全と分かっていたなら、どうしてそれを黙っていたんですか?」
「いいや、残念ながらそこまでの保証はないさ。いくら闇医者とはいえども、薬物投与は専門外だからね。だけど――そこには都合よく十二本の注射器があったんだ。しかも被験体まで揃っていたしね」
百千切の視線が、私からゆっくりと外れる。
視線の先には――目を見開いたまま、微動だにしない痣花の姿があった。
「さすがの僕も、正体不明の薬をノータイムで自分に打つほど勇敢じゃなくてね。だから、被験体で一度試させてもらったのさ。結果、少なくとも即効性の腐食毒や壊死毒じゃないことは分かった。もしそういう類なら、注射部位か死体の表層に、何かしら目に見える変化が出ているはずだからね」
あまりにも、平然とした物言いだった。
「“生体スカベンジャー原理”って知ってるかい?この薬液は、おそらく高親和性捕捉剤の類だ。それなら、あの有毒ガスが体内で標的に結合するより先に、血中で横取りして無力化できる可能性がある」
べらべらと。まるで退屈な大学の講義でもしているかのように、百千切は淡々と語り続ける。
「……百千切……ッ……あなたって人は!」
脊髄反射だった。
気がついた時には、私は百千切へと向かって駆け出していた。
たとえ痣花が死体だったとしても。
もう二度と動くことのない存在だったとしても。
それを、得体の知れない投与物の試験に使うなんて――あまりにも、人道を踏み外しすぎている。
「落ち着け、今は争っている場合じゃない」
不意に、背後から両肩を押さえ込まれた。
「は、離して下さい!!」
私はもがく。だが、どれだけ力を入れてもびくともしない。
腕力などではなく、確かな技術をもって制されているような。
力任せに押さえつけられているというより、関節と重心を正確に制されている感覚。捕縛術、というやつだろうか。
両肩はがっちりと固定され、無理に暴れれば暴れるほど、こちらの動きだけが封じられていく。どれだけ抵抗しても無駄だということは、すぐに理解させられた。
「ならん。物事には優先順位というものがある」
冷徹で、なおかつ毅然とした力強い声音。
背後を見やると、そこには警官の格好をした眼鏡の女性が立っていた。
「このままでは、貴殿を除いた全員が死ぬ。注射器の中身が毒ガスに対して有効なのであれば、まずは投与が先決だ。あの男の裁定は、全員が助かった後でも遅くはない」
「……っ!」
確かにこの人の言っている事は正しい。
この場でいくら百千切を責め立てたところで、毒ガスが止まるわけではない。冷静さを欠きこの場を混乱させているのは、むしろ私の方だ。
苦虫を噛み潰すような思いで、私は抵抗する意思を手放す。
途端に、全身から力が抜けた。
悔しさと情けなさが胸の奥で燻ったまま、私は崩れ落ちるようにその場へ座り込む。
「……すみません」
「構わん、気を落とすな」
彼女は、短く一言そう呟いた。
――それから先は、あっという間だった。
警官姿の女性の指示に従い、私以外の全員が身をかがめながら救急箱へ向かう。すでに室内へ充満しつつある毒ガスを、少しでも吸い込まないようにしながら。
そして全員が無事に注射器の投与を終えると、しばらくして金属製のノズルから噴き出していたガスも止まった。
私はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。
冷静さを欠き、危うく全員を死なせかけてしまった。
そう思うと、自責の念が胸の奥を重く締めつける。
✳︎ ✳︎ ✳︎
辺りにはなおも黄濁色の煙が立ちこめていたが、誰ひとりとして体の異変を訴える者はいない。
とすれば、やはりあの注射器の中身は、毒ガスに対する何らかの解毒剤だったと捉えていいのだろうか。
突如、背後の真っ白な壁が、ウィーン……と機械的な駆動音を響かせ始める。
さっきまでただの壁だったそれは、上下に分かれるようにしてゆっくりと開いていったと同時に、室内に充満していた煙がみるみる奥へと吸い込まれていく。
濁っていた視界が、少しずつ開けていった。
「私たち……助かった……のかな?」
烈々子がぽつりと呟く。
「恐らくな。今の所、全員体に異常はない。
あそこを見てくれ。扉が出現している」
警官姿の女性の言う通り、壁が開いた向こう側には、扉らしきものが見えている。
「でも、でも……痣花ちゃんが……痣花ちゃんがぁああぁぁぁぁあ〜!!」
壁にもたれかかった痣花に駆け寄ると、烈々子は大粒の涙を溢しながらその体を強く抱きしめた。
出会って間もないとはいえ、痣花と烈々子が仲良さそうに、気軽に言葉を交わしていたことを私は覚えている。
私自身、痣花に特別な感情があったわけじゃない。
それでも、目の前に突きつけられた"死"という現実は、言葉では到底言い表せないほど残酷で――どうしようもなく、取り返しがつかなかった。
「メス豚がいつまでもキィキィとやかましい……こんな仲良しこよしの連中と同じ空気を吸ってたら、気が狂うわ。フン、行くわよ罪深」
「……は、はい」
「声が小さい。返事は?」
「は、はいっ!忍不様!」
「チッ……役立たず」
「おい、待たんか!」
警官風の女性が呼び止める。だが、梯宮は聞く耳すら持たなかった。
隣には、梯宮が罪深と呼んでいた少女がいる。
左目に眼帯をつけ、ピンクと黒のフリル服に身を包んだ、いかにも地雷系といった風貌の少女だ。
梯宮は乱暴に扉を押し開くと、こちらを一度も振り返ることなく、そのまま先へと進んでいった。
二人は元から知り合いなのだろうか。
明らかに、ただの同行者とは違う空気。
主従関係に近い、歪な上下関係がそこには存在しているようだった。とはいえ、今はまだ何も断定できない。
そもそも私と彼女の関係値は、現時点で最低を通り越して、ほぼ地中深くまでめり込んでいる。
聞き出す余地はあるはずもない。
「……後で追うことにしましょう。それより、さっきは取り乱してすみません。あなたのおかげで助かりました」
私は、自らの失態を改めて詫びる。
「気にするな。この状況では、誰もが判断を見誤ることはある」
警官姿の女性は、落ち着いた声でそう言った。
「それに事実、貴殿の勇気ある行動のおかげで、私たち全員が助かった。私からも改めて感謝する」
そう言って、彼女は深々と頭を下げた。
「失敬。そういえばまだ私のことを何も話していなかったな。職業は一応、警官をしている」
――あ、コスプレじゃなくて本職の方だったんだ。
とんでもなく失礼な勘違いをしていたことに、私はここにきてようやく気づいた。
言われてみれば、制服も小道具めいた安っぽさはない。
細部までしっかり作り込まれているし、何よりあの立ち振る舞いは素人のそれではなかった。
ついでに本物の警察手帳までご丁寧に見せてもらった後、私は彼女について、いくつか教えてもらった。
本名は忘真白。二十九歳。
眼鏡をかけていて、髪は真っ黒で少し低い位置でポニーテールのように髪を結んでいる。
女性陣の中ではもっとも背が高く、そのうえ驚くほどスタイルがいい。職業は警察官、それも階級は警部。
女性警察官としては歴代最速でそこまで上り詰めたらしい。
その見た目の印象どおり身体能力もかなり高く、特に剣道の腕前に関しては、学生時代"全国ベスト4"に入るほどの実力者だったという。幼少期から文武両道を叩き込まれて育ち、警察になってからも優秀な成績を収め続けたらしい。
その結果が、警部という地位――しかも“歴代最速”のおまけつきだ。なるほど、あの冷徹さと妙に人を従わせるような迫力にもこれで納得がいく。
「真白さんは、記憶がはっきり残っているんですか?」
「記憶……?ふむ、言われてみればここに来る少し前の記憶は無いな。それ以外は特段、問題なく覚えているが……どうかしたのか?」
「そうでしたか。いえ、ありがとうございます」
どうやら彼女は、私よりもずっと過去の記憶が残っているようだった。記憶の喪失には、人によって差があるのだろうか。
今思えば、烈々子も、百千切も、菖蒲原も、自分の職業や過去についてはある程度覚えている様子だった。
私だけなのか。自分の過去をほとんど覚えていないのは。
「……」
くよくよしていても仕方がない。
まずは、この得体の知れない場所から脱出すること。
私はそう自分に言い聞かせ、無理にでも思考を切り替えた。
「百千切さん」
「なんだい」
「先ほどは、すみませんでした。あなたの考えは道徳的にどうかとは思いますが……合理的でもありました。根拠もないまま自分に投与した私の方が、よほど無鉄砲だったと思います」
「ハハ。顔をあげてよ、むしろ僕は感動したんだ。一見無謀ともいえる君のその心意気に、ね」
百千切は笑みを浮かべながら、私にゆっくりと近付いてくる。
「あぁ〜いい、すぅんごくいい。瑠璃ちゃん、僕は君にさらに興味が出てきたよ」
百千切はそう言って、私の頬へ手を伸ばしてくる。
私はその手を、すぐさま払いのけた。
「やめて下さい。あなたのした事を、私は肯定するつもりはありませんから」
「ハハハ。嫌われてるみたいだ、片想いっていうのは辛いね。初めての感情だよ。ゾクゾクするなぁ〜、ビクビクするなぁ〜」
駄目だ、やっぱりこの男ヤバい奴だ。
何を考えているのか全く理解できないし、到底分かりたくもない。自分の両肩を抱きしめ、ブルブルと身体を震わせている変質者を視界の端へ追いやりながら、私は改めて扉の方へと向き直った。
「行きましょう。いつまでもここに居ては危険です」
「わだじは、痣花ちゃんと一緒にここに残る……ます、ぐすん」
「烈々子さん…気持ちは分かりますがそれは駄目です」
「ど、どうして……?」
「私たちは今、完全に掌の上で転がされている状況なんです。"あちら側"の判断次第で、生かすも殺すも自由自在。いわば生殺与奪の権を一方的に握られている状況。あちら側が扉を開いたのであれば、次に進めという指示でもある。悔しいですが今は先に進むしかありません」
「う、うぅ……ぐすん……でも……」
「大丈夫です。烈々子さんはアイドルなんですよね?」
「は、はい……とはいっても、所詮売れない地下アイドルですけど…」
「関係ありません」
私は首を横に振る。
「少なくとも、私が保証します。烈々子さんの笑顔と癒しのオーラは、間違いなくアイドルになるべくしてなった逸材ですよ」
「あ、ありがとう……ホメラレチャッタ…」
「ファンの方が待ってます。私もいまやその一人です。だからこそ、一緒にここを脱出しましょう。ここを出て、私に烈々子さんの歌って踊っている姿を見せて下さい」
「うんっ……うんっ……いつまでもメソメソしてたら駄目だよね……私頑張る……みんなと一緒にここを出て、またアイドルとしてステージに立ちたい!」
泣き濡れていた彼女の瞳に、少しずつ光が戻っていく。
どうやら、烈々子は立ち直ってくれたようだった。
「その調子です。烈々子さんにはやっぱり笑顔が似合います」
「ありがと瑠璃ちゃん!よーし張り切っちゃうぞ〜みんなー!待たせてごめんなさいっ!涙はおさらばただいま笑顔!ほら、れつこちゃんと一緒に、レッツゴーだよ!」
切り替えが早い……まぁとにかく良かった。
痣花さんの死を、なかったことにはできない。
あの光景も、あの悲鳴も、胸の奥に焼きついたままだ。
それでも、私たちが今やるべきことは、悲しみに足を止めることじゃない。烈々子を先頭に私たちは扉の方へと再び歩き出していくのだった。




