第一章:割れた瓶、平岸の静かなる蹂躙
「暴力の予感は、いつの間にか日常へと溶け込んでいた。
セリカのハンドルを握る僕の手は、あの日から一度も止まることはなかった。」
その夜、平岸の「白い店」は、いつも通りの穏やかな沈黙に包まれているはずだった。マスターは不在。カウンターで飲む僕は、どこかこの場所の主権を預かっているような、心地よい錯覚の中にいた。
異変は、隣り合った二つのボックス席から始まった。
一方は常連の藤田さんとその友人。もう一方は、仕事帰りの興奮を引きずった左官屋らしきグループ。
鋭い破裂音が響いたのは、僕が次のタバコに火をつけようとした瞬間だった。
ガシャッ、というビール瓶が砕ける音。
藤田さんの友人が、頭から鮮血を流して崩れ落ちるのが見えた。
思考よりも先に、体が動いた。
僕は理屈を飛び越えて戦場へ踏み出していた。逃げ出す左官屋たちを追い、夜の路上へと飛び出す。
「……待てや、コラ!」
怒号とともに、僕は一番前にいた男の腹に蹴りを叩き込んだ。男が崩れ落ちる。とどめに、僕は迷わずその顔面にキックを見舞った。足の甲に伝わる硬い衝撃。それは、僕が「ただの遊び人」から「暴力の行使者」へと変貌した瞬間でもあった。
逃げ去る男たちの背中を見送り、静まり返った店に戻る。怪我人を病院へ運ぶ藤田さんの車のテールランプが遠ざかっていく。
店に残されたのは、僕と、怯えた表情の女の子三人。
数分後、再びドアが開いた。
なだれ込んできたのは、人数の増えたさっきの左官屋たちだ。一人の目は見る影もなく腫れ上がり、復讐の熱気が店内の白い壁を侵食していく。
カウンターの隅。一人の女の子が、僕に目配せをした。彼女の視線の先には、いざという時のための木刀が置いてある。
僕はそれを横目で流した。ここで木刀を握れば、もう後戻りはできない。僕はあえて椅子から立たずに、彼らを冷たく見据えた。
「……そっちも怪我人が出た。こっちも出た。お互い様だろう。これ以上、何を望んでるんだ?」
僕の声は、自分でも驚くほど低く、安定していた。
「暴力」の後に訪れる奇妙な静寂。
男たちは、僕の背後に控えるマスターの影や、目の前の十九歳の青年の「躊躇のなさ」に気圧されたのか、最後には捨て台詞を残して立ち去っていった。
嵐が過ぎ去った後、僕は震える手でようやくタバコに火をつけた。
のりこが、何も言わずに割れたビールの破片を片付け始める。
これが、僕が足を踏み入れた世界の正体なのか。
白い壁に飛び散ったわずかな血痕が、二度と消えないシミのように僕の記憶に刻み込まれた。




