log.56 館内遊泳禁止
「行動開始!」
そう砂盛が宣誓を上げ、一歩踏み出したのがほんの三秒前。
四人を真っ暗な幕が覆い始めたのが二秒前。
実際に飲み込まれたのがほんの一秒、いやそれよりも短い時間前。
そして、吐く息が泡を形成し、踠く手足が重みを覚え、全身を冷たく、流動的なそれが覆っているのが今だ。
(水…?!この量はやばい!息が…!)
咄嗟の判断で口を手で覆い、漏れる空気を最小に。
だが、これはあくまで反射で行っただけのものでしかなく、脳で考え動いたわけではない。
つまり、一瞬で体内への酸素供給の停止かつ多量のみパニック状態に陥った脳と身体はこの状況に見合う最適解を出せていない。
(どうすればいい?空気…はあるはずない!じゃあ虚無で部屋を作るか?いや、そもそも空気がないんだ空間作ったって息なんて出来ない!)
思考を加速させる。
ただひたすらにぐるぐるぐるぐると思考をぶん回して最適解に辿り着くまで続けるのだ。
「…ち…!お…!」
まずいのは水量。おそらく結界内部全域はこの水で満たされているだろうと予測される。
仮にこれが事実だとすれば、ここからの脱出は不可能。息が持つ間の少ない時間では、結界の主を見つけ出し、不利な状況下で撃退するのも、外殻を見破り無理な脱出を図るのも、出来っこないと断言できる。
ぬけぬけと主が姿を現してくれたら話は別だが、そんな不用心な相手なら今頃ここに四人はいない。
(考えろ考えろ!このままじゃ全員死ぬ!水に呑まれて全員溺死だ!何か、何かないか?!オレたちに使える手段で現状を乗り切れるもの!何か!)
「………け!お…つ…!」
うるさい。今考えんたんだから邪魔すんなよ。
こんな状況を打破する方法なんて、いくら考えたって出てこないって分かっちゃいる、分かっちゃいるんだ。
でもやめれない。止まらない。パニくった頭じゃ、複雑な脳内を整理することだって出来ない。
また泡を吐き出す。
吐き出そうとして吐き出した訳じゃない。混乱している身体が、水を飲み込みすぎた身体が勝手に吐き出したのだ。
「落ち着け!」
一度頰を叩かれて正気に戻る。筋肉質で大きな手、病院の長椅子で頭を撫でてくれたあの手が紅葉の頬を叩いたのだ。
しっかりと前を見れば、そこではモスキュールがじぃっと顔を覗かせている。肩をがっしりと掴み、いつもの生真面目な顔で。
「これは水じゃない!水だと思い込んだ相手にだけ水の性質を発揮する能力だ!」
水ではない。彼はそう叫ぶ。
だが、紅葉の視覚は揺蕩う水流に水面を、触覚は肌に纏わり付く濡れた衣服を、聴覚は流水音を捉えており、自分の置かれた環境を脳は『水中』と結論付けている。
「自分に言い聞かせるんだ。繰り返し繰り返し、これは水じゃないと言い聞かせるんだ!」
脳内がこう結論付けていても、それが仲間の言うことを信じない道理にはならない。
何度も繰り返し、頭の中で叫ぶのだ。「これは水じゃない」と、叫び続けるのだ。
目を瞑り、視覚からの情報をシャットアウトしてさらに自己暗示の深度を高める。
これは水じゃない、これは水ではない。
これは水ではない、ここは水中ではない。
ここは水中ではない、ここは息が出来る。
ここは息が出来る、ここなら戦える。
そして目を開いた時には、えも言えぬ浮遊感や張り付いた衣服の感触、耳の中まで満たした水の感覚は姿を消していた。
紅葉はしばらくの間、ぼんやりとしながらモスキュールの顔を眺めていたが、足元に赤い血が飛び散って来たので現実に意識を戻される。
「ふぅ〜…」
深く息を吐いてすぐに吸う深呼吸。
ガコン、と重い音が鳴る。
自らの背丈と同じ程はある大きく真っ黒なナタを背に掲げた彼女の頬に一滴の血。
足首まで届く長いコートを纏う彼女の周りには両断されたダツが五尾とその血が舞う。
「これで全力で戦えるね♡」
振り向きざまにフードの中から整った顔立ちで満面の笑みを見せる彼女は、若干恐ろしく映った。
内部は館内を完璧なまでに再現していた。
唯一異なるのは、水槽が水槽として機能していないことだけ。
アクリルの壁は軒並み取っ払われ、中に居たはずの生き物はみんな姿を見せてくれないのでなく、そも存在していなかった。
『静寂に呑まれた水族館』というのがここから受けた印象だった。
「はぐれんなよ。お前らじゃ、はぐれた瞬間グシャリだと思え」
砂盛にはこう警告された。
別にここにまで嫌味を感じるほど落ちぶれちゃいない、事実結界の特性にも気付けず取り乱していたし、何より経験不足過ぎる。
はぐれたらその時が自分の最期になることくらい、紅葉にだって容易に想像出来るのだ。
だが、モスキュールまで、とは行かなかった。
何度か訓練で手合わせをしたことがあったが、その時の実力は『ひばりには届かずとも負けず劣らず』と言った具合。
十分ここでも活躍出来るとは思うが、実戦ではこれでも役立たずなのだろうか。それとも二人の要求するレベルが高過ぎるだけなのか。
幾許か歩き続けたが、中々に何もない。
まああったことにはあったのだが、特別語る必要はないような些事ばかり。
とてもここが危険な術式結界の中だとは思えないほどに穏やかで、眠たくなって来たら深夜の誰もいない水族館に迷い込んだのかと思い違いをしてしまいそうになるくらいだった。
「改めて、状況整理でもしよっか♡」
館内に設置されたレストランの一角、本来なら大窓から屋外エリアとその奥に望む水平線が映える場所なのだろうが、今や窓は真っ黒に染め上がってしまっている。
一度は出入り口まで戻ったのだが、座れるとこがかるならそこを使おうということでここまでやって来た途端に、パンと手を合わせて微笑みながらこう提案すると、長いマントがシワにならないように腰を下ろした。
反対意見なんて出るはずもなく、三人も続くように椅子に着く。
「えーと、今僕たちはここをおおかた一周して見てきたよね、大した襲撃も攻撃も無く。」
出入り口から屋外エリアに続く道のりまで歩き、また出入り口まで歩く、順路に沿って歩いて来たのでおおかた一周したというのは事実。
大した襲撃も攻撃もなかったのもまた事実。
道中に数種の生物から攻撃を受けはしたが、はっきり言ってささやかで、そよ風、いやここならさざ波かと疑う程度のもんばかりだった。
全員の首が縦に振られたのは言うまでも無く、訂正の必要すらもなかった。
「そうだな。
流し見程度じゃあるが、異常がないかの確認もしながら行った。…が、ここまで目ぼしいもんも出てこんとはなぁ。」
簡単にではあるが、パッと見で分かるような異常はなく、それは見れば見るほどに普通に運営されている水族館にしか見えなくなるほどにだった。
普通ならこれで「異常ないしこれで」と上がれたことだろうが、ここでは異常がないのが異常事態。
熟練の砂盛、大那田がこの違和感に頭を抱え、唸り出すくらいにはおかしなことが起きているのだ。
紅葉は分からんちんなのでケロリとしているけれど。
「外殻になってそうなとこも見当たらなかったな。
館内の再現度が高過ぎて本来のサイズより小さくまとめられてるって可能性はないだろうか?」
「ありえなくはないが、正直考えにくいな。」
モスキュールの出した仮説は、やんわりと否定された。
そもそもモスキュールの結界術への造詣の深さは浅く、ほんのり齧った程度。突っぱねられるのはまあ当然のことだ。
だが完全にきっぱりとNOを突きつけるのでなく、やんわりとないと返したのが、紅葉には気になった。
別に分からない話だからとタカを括って呆けていた訳じゃない。ちゃんと流れは聞いてたし、見ていた。
「そりゃまた、何で?」
「ここの主は一度も俺らの前に出て来ないどころか、声も出さない臆病もんと来たる。
それが外殻に触れん、逃げ口のない結界になんてするとは思えんからな。」
一旦は納得した素振りをしてみせる。
理解が出来ない訳じゃなくて、そもそもとして結界のいろはとか知らないし、それを使う奴の特徴とか余計に知る訳ないから、「へーそうなんスねー」程度にしか受け取れないのだ。
(知識が足らな過ぎる…
手っ取り早く強くしたいなら、まずこの辺のこと教えておけよ…!)
脳内で誰とは言わないが二人ほどを思い浮かべる。 一つ上の部長とアラサー教師の顔を。どんな意図があったにしても、まずは知識つけさせておけよ、と
言っても仕方ない愚痴をぶん投げるために。
副部長は、って?いいんだよ、ちゃんとお世話になったし、面倒見てくれてたから。
「どうした?
腹の痛そうな顔をしているが」
目頭を押さえ、キリキリとした痛みが走ったような顔でため息を吐いているのを心配してくれるのはモスキュールだけだ。
まだ身内全員悪魔じゃなかったことを嬉しく思うと同時に、彼の方に手の平を向けて平気だとアピールする。
「大丈夫っス。無知が罪だと思い知っただけっスから。
むしろ、オレのことはいないもんだと思って話して下さい。役立てそうにもなさそうなんで。」
最初の威勢はどこへやら。
最早ゲンナリとして、組んだ手の上に顔を伏せる始末だ。
だが役に立ちそうにもないというのもまた、残酷だが事実だ。真剣な会議に門外漢が連れて来られたようなもんだから。
幸いだったのは砂盛も大那田もここでバッサリと切れる人だったことだ。「そうか」と一言言ったらすぐにその通りに話を進め出してくれた。
まぁ、結界師を「足手纏い」と切り捨てるようなとこから考えれば当然だろうが。
「じゃ続けるが、外殻は結界の強度に直に関わってくる。
結界はいろんな条件の上で強度が決まる。
こんだけ持続してるってことは、どっかしらで特別弱い弱点露出させる代わりに強度を上げるっていう交換条件で成り立ってる可能性が高い。」
結界とは複雑な術だ。
それ抜きにしても魔術も結界術も数多くの足し引きと掛け割りで成り立っている。
砂盛の言うことでは結界の要は展開した本人と術式、そして外殻。
どれか一つでも欠ければ結界は維持できずに瓦解する。これを防ぐために手っ取り早いのは外殻の強度を上げることだ。ここさえ押さえてしまえば他二つも解決したも同然のもん。
だから結界を張る時は何かと条件を付けて強度を底上げするのが定石となる。
砂盛は今回のそれも、そこから外れるとは考えにくいと考え、満たしていそうな条件の中でこれが最も可能性が高いと推測した。
遠くで魚が泳ぎ去っていったのを紅葉は見逃さなかったけれど、危害を加えてきた訳でもないしと捨て置くことにしようと決めた。
(どうせ結界が消えたらあれもそれもまとめて消えるしな)
逸れた紅葉の視線は、目の前でヒラヒラと振られた柔らかそうな小さな手と、喉の周りまでガッチガチの筋肉で固められた男の声で連れ戻され、会話には混ざらなくても聞きはしろと諭される。
そうして青髪ウルフカットは柔らかく微笑みかけてから、両手の指を交差させて組んで話し始める。
「付け加えるなら、犠牲者が確認出来てないってとこもかな。
取り込まれた生存者はまだしも、死体すら見つかってないのは流石に奇妙だからね。時間的にはとっくに死者が出ててもおかしくないし。」
あんな可愛らしい顔からおっそろしい現実を突きつけられるギャップで風邪を引きそうになる。
けれど、これは紛れもなく事実だし今現在進行形で起こっている現実の話だ。どうせいつかは直面することなんだから、風邪引かされるくらいがちょうど良かったのかも知れない。
「あり得る可能性は、戦犯が外に持ち出したか、魔物に喰われたかだけど、ここは魔物が生まれる程魔力は濃くないし、こっちはないと思う。
だとしたら、外殻は絶対に触れるとこにあるだろうね。」
手を一つ二つと出してピースの形にして候補を並べるが、二つ目を消して人差し指が残る。
おそらく敵は人間。
目的は不明だが、犠牲者は戦犯の手により外に出されている可能性が高いとされ、そうだとしたら連れ出すことが出来る箇所は必ずあることも推測される。
つまり、砂盛の技術的な理由に理論的なものを付け加えたってことだ。ここまで揃うと確かにある気がしてきた。
「あ、でもさっき見た生き物とかの餌になってる可能性もあるか。」
気がしてきたとこだったんだけどなぁ…
顎に人差し指を当て、思いついたようにそう言った大那田のせいで一気に引いていったような感じがする。
一つの可能性に傾倒し過ぎるのも良くないし、姿勢を正せたってことで、まぁ良しとしようか。
だとしても骨は残るだろ、と唱える。
いや問題はさっきの理論を一気にぶっ壊したことじゃないのか?と疑問符を残す筋肉ゴリラもいます。
紅葉はやっぱり遠くにいる魚が気になって仕方なかった。
他に話すべきことと言えば、やはり「これからどうするか」だろう。
勿論、今の内に話せることは全部話しておいた方がいいのでこちらにも取りかかることに。
「やっぱ二手に分かれた方がいいだろうな。
遮蔽も多いし、そもそも広過ぎる。順路に沿って進む一組と逆回りする一組とに分かれて確実に敵を討つ。これがベストだろうな。」
複雑、とまでは言わないが入り組んでいて、大小様々な水槽が設置されるのに十分なスペースがある。
ここを四人でずっと歩いていても、敵が動いていたらいつまでも辿り着かないイタチごっこになるだけ。
二手に分かれて挟み撃ち、とはそうならないとても良い、最適解と言えるだろう。
流石はA級、よくぞここに辿り着いたと褒めてやろう。
しかし、ここにあえて反論をするとするならばこうだ。
「だが、連絡手段がない時の戦力の分散は危険じゃないか?
仮に敵の攻撃がゆるい理由がそこにあるとしたら、バラバラになるのは攻撃のチャンスを与えることになるんじゃ?」
そう、戦力分散だ。
二手に分かれて挟み撃ち、というのは一見有効な手に感じるが、意外とそうでもない。
実際、これが有効打になるのは基本「敵の位置が把握出来ていてほぼ確実に奇襲可能な時」のみに限られる。
おまけに、結界内では大方の電波が遮断されるケースが多く、ここも例に漏れずだ。
即ち、離れれば連絡不可。会敵してもそれを伝えられないし、助けが欲しくても呼べない。
モスキュールの言う通り、敵が隠れている理由が「戦力が集中していて攻めにくい」ところにあるとしたら、急激に攻撃が激化する可能性がある。
となると、連絡が取れないというのは死活問題。絶対に避けるべき事象。
であれば、これを選択する理由などどこにもない。
「それもまた真実だね。
だけど、攻撃しに来てくれるなら逆に好都合。尻尾掴むチャンスが勝手に来てくれる訳だし。」
しかしながら、こちらはA級。
占星術士のこれからを担う実力者が二人。その力を笠に着てもなんら問題はない。
「戦況が不利」というのは些事に過ぎない、とまでは言わないけれど、最低限生きて帰ることには絶対の自信があるようだった。
「だが、これをやる一番の理由は被害発生から時間が経ちすぎてるってとこだ。
さっきも言った通り、とっくに死体が転がっててもおかしくねえ。手っ取り早い救出が求められてんだ。
だとしたら、やっぱこれがベストになる。」
例え生きていようがいまいが、救出は占星術士に最も求められることだ。
生きているなら早急な救出、死んでいるならせめて回収。これが仕事なのであって、原因の根絶はあくまで二の次。
そして、現在は生存者がギリギリいるかいないかというところ。ちんたらイタチごっこしてる間に回収する遺体が増えてちゃ世話無い話だ。
だから選ぶべきは挟み撃ち。
モスキュールも納得がいったようだし、紅葉はそもぺーぺーなので口を挟めないので絶対服従の姿勢だし、他二人もやる気な様子だし、と全員を見渡した後に砂盛が真剣な顔でこう切り出す。
「問題は組分けだが、俺ら二人とそっち二人で組んだらそっちくたばるだけだから無し。
相性考えたいからお前らそれぞれ出来ること言ってけ。」
二人組を作る上で絶対的に重要となるポイント、相性。
何と残念なことにここは出会ったばかりだし、さっきまでの戦闘は砂盛によって無かったことにされたので紅葉もモスキュールも活躍する場面がなかった。
つまり、このA級たちは二人のことをてんで知らないのである!
「造る。切る。」
「近距離戦闘がメイン、というかそれ以外ができないな。」
「どっちも足りてんなあ…」
当然のような顔で告げる二人とは対照的に頭を抱えた砂盛の頭がはじき出す。ほんの二通りしかない組み合わせで想像でき得る可能性を。
そして答えを出すのはほんのすぐにで、椅子を引いて歩き出す。
「まあええ、パッパと行くぞ。」
叩いた肩は紅葉の。
顎をくいっと動かしてやると、ギョッとした顔の紅葉がわなわなと震え出してしまった。
けれど騒がなかったのは僥倖と言えよう。紅葉も成長したものだ。




