37.「おかえり」
朝刊の一面を飾り、どこの朝のニュース番組もこぞって同じ話題をしているのをコーヒー片手に優雅な朝食を食べながら片手間に見る。
正直なところ、明星ってすごいお金持ちが襲われたとか、オッドマウスって子が何をしているとかはまるで興味がないし、今日も今日とてろくに稼げない日々にうんざりとするのが嫌だから「せめてご飯だけは優雅に」とのことで雪お義母さん監修の下、手を付けて来なかった料理をして見ているだけだ。
あ、そうこうしてるうちに優雅な朝が終わってしまう。砂糖たっぷりのコーヒーが最近の唯一の楽しみだと言うのに。
「新葉さん。これ、お願いしてもいいだろうか」
足の悪い雪に代わり、膳をシンクまで運んで来るのは義父、紅葉の祖父にあたるアハトで、いつもなら「手を借りる必要はない」と言ってスポンジに洗剤をかけて来るのだが、今日は違ったようだ。
「もちろんいいですけど、お義母さんと何処かにお出掛けですか?」
泡立ちスポンジを置き、手を軽く流して膳を受け取りつつ質問をしてみる。
普段口数の多い人ではないから滅多に喋る機会がないから、こういう時ぐらいに話しておかないと最後の会話が「石鹸切らしちゃったから買ってきてもらってもいいですか?」とかになっちゃう。基本、言葉が返って来ることは無いから一人相撲になりがちだけど、たまに「あれも切らしていたから買って来よう」って言ってくれたりする。ウチで旦那と一二を争うくらいに不思議な人。
雪とは日頃から隣に並んで支え歩いたり車椅子を押したりして、お揃いの白髪を揺らして仲睦まじげにしているのをご近所さんもとい、お客さんから密告されるのを聞いていたから今日は早いうちから散歩にでも行くのかと思って聞いてみたが、どうやら違うようで…
「いや、孫の迎えに」
膳ごとこの手をすり抜けて行って、皿が割れてタンブラーやカトラリーがダンスを踊る。
口から漏れた情けない声に応えるように箒と塵取りで割れた皿を片すアハトが些細な情報を伝えてくれる。
居ても立っても居られなくなって、無意識のうちに言葉を紡いでいた。
ずっと言わせてあげたかったこと、言ってあげたかったことがたんまりとある。
最初にそれを言うのは私が良い。
「私に行かせてください!」
どうせ今日も仕事はしない、出来ないだろうと踏んでボサボサのままだった髪を梳いていつものお母さんヘアーに結び、厨房に籠る気満々の旦那を引っ叩いて準備をさせたら時間がないので簡単なメイクだけをして車に乗り込んで全速力。
「ここまでお願い!」
ホルダーに挟んだスマホの地図アプリに表示された目的地は小さな喫茶店。そこそこに距離があるが問題はない。強いてあるとするなら後続可能距離があと30kmもない事くらいだが、そんな些細なこと気にすることはない。止まったら押して行きゃいい。
「最初ガソリンだけ入れてくよー」
と言うわけにも行かず、夫の走らせる車は最寄りのガソスタに直行。新葉のはやる気持ちもこののんびりとした夫のお陰で少しは落ち着くかと思われたが、そうともいかず、寧ろ悪化してるようにも見える。
給油の間ずっと鳴り響く心臓を押さえ付けるように深く息を吸い、こんがらがる頭を整理し続けても中々まとまってくれない。
「そんなに焦んなくても紅葉は逃げないよー」
給油を終えて戻ってきてまず最初にそう言ってきた夫に「逃げちゃったからこうなってるんでしょ?!」と威嚇。
「怒ってますけど?」電波を傍受すると「そうねー、じゃ急ごうか」と言ってほとんど法定速度と変わらない速度で走り出す。普段なら褒められたもんかも知れないが、今だけはコイツをぶん殴ってやりたい。
…とか思ってる間には手が出てた。驚いた車が左右に揺れる。
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文月も中旬に入ってもうすぐ夏休みという頃、朝の教室に集まる生徒たちは何を語らうのだろう。
残念ながら作者にその経験がないので答えは分かりません。迷宮入りだ、ザマーミロ。
「また迷宮入りしちゃうのかねぇ。まったく、警察たちももっとちゃんとしなさいよね。ここ最近逃げられてばっかじゃない」
朝っぱらから虫の居所の悪そうな深雪にもっぱらの恐怖心を抱く瞬が無茶振りを警戒して透馬の後ろに隠れるが「シュン、ちょっと税金ドロボーって叫んで来なさい」と目を付けられる。理由は一番声デカいからとのこと。
「迷宮入りはしてないだろ、見出しにも犯人の名前堂々と書いてあるし。あと、シュン。やるんなら署の前でやれよ。なるべく色んな人に聴こえるようにデケー声で」
悪ノリを始めた透馬は滅多にない分、止まらないし要求する内容がそれはもうすごいことになる。多分今のも割と本気で言ってる。
そしてそれを止めるでもなくただケラケラと凛が笑い、静が「やめたげてよぉ」と困惑顔をしているのがここ最近の常である。
「そ、それよりさ、ほら…神河くん。神河くんが無罪だって証拠出てきたんだよね?良かったね」
静がそれらを遮るように放った言葉が気に触ったのか深雪の手の内のアルミ缶を潰し、中身のカフェオレが噴き出して水溜まりを形成する。
「『警察庁高官の汚職の発覚と同時』に、ね!ったく、思い出しただけで腹が立ってくるわ。あのジジイ共のせいであいつがどんな目にあったか、私の手で味あわせてやらないと気が済まないわ!」
警察庁内部からの告発に加味して、大きな影響力を持つ二人の人物の後ろ盾によって公衆の面前に晒された『オッドマウス対策本部』を構成する数名(うち高官五名を含む)の醜態により、これまで「オッドマウスは神河紅葉である」という世論は完全に覆され、指名手配もまた同時に解除された。
「ちょっと透馬!あんたピストル貸して!一発ずつ頭に撃ち込んで来てやるわ!」
流石にまずいと思ったのか透馬は首を縦には振らないが「俺がやるから駄目だ。他の方法を探せ」、とか言いやがったので凛が頭頂にゲンコツを入れる。ぷっくりと膨れたタンコブがかなり痛む。
「次そういう事言ったら一発じゃ許さないからね。みーちゃんもだかんね、分かった?」
過激派二人がお叱りを受けたところで強火も鎮火されて瞬も静もホッと胸を撫で下ろす。
少し落ち着いたので瞬も心置きなく素朴な疑問を投げかけることが出来る。
「んじゃさ、モミジは今日から学校来れんの?ミユキ家隣っしょ?なんか知らんの?」
静が瞬の隣で首を縦に振って同意している。
甘い匂いのする水溜まりを雑巾で拭く深雪はそちらを一瞬視線だけで覗くがすぐに戻してしまう。
「何も。強いて言うなら、今朝すごい形相のおばさんが車に乗ってるのを見たくらい」
言っちゃあ悪いがあれはお世辞にも綺麗とは言い辛かった。『パン屋の美魔女義親子』として知られるあのおばさんがそれはそれはひどい形相で、あと多分あれはスッピン、あるいはほぼスッピン。
「相当焦ってたのかなぁ…?」
店頭に立ってる時だって深雪がちょろっと顔を出す時だってあんな感じになってるのは見たことが無かったからボソッと口から溢れて来た言葉に「いや、おじさんはいつも通りだったな」と思い直す。
「いやどういう状況だし…」
という凛のぼやきには「知らないわよぉ」と帰ってくる。
現状最も情報を持っている深雪が知らないのであれば他の誰かが知っている筈もなし。おそらく同じ疑問を持っていた瞬も肩を落としていた。
一般生徒諸君があまり強くない空調の生温い、涼しいとも暑いとも言えないなんとも形容しがたい教室で過ごす中、職員室の教師陣はこんな強力な空調の快適な温度、涼しい部屋で過ごしていやがったかと思うとちょっと、ほんのちょーーっとばかしイラつくが仮にも恩人なので言葉にはしないで置いてやろう。
「私は朝練の後で汗だくなのになんで散々シゴいてきたアラサー教師がこんな快適に過ごしてるのよ」
「ちょっとは隠そうとしてくれよ、明星。割とグサッと来るから、アラサーとか特に」
可哀想な三十路直前バツイチ男性の泣き言は聴くに耐えないのですっ飛ばすとして、アラサーじゃなくて数え年三十なんだからアラサーとか若作りしないでくれるか。なんか…見苦しいから。
「西園寺。全部出てる。隠して欲しかったとこぜーんぶ出てる。先生はとても心が痛い。人の痛みが分かる大人になりなさい」
言い切って、眉を挟める猿川は溜め息一つ落として机上の授業計画と出席表をまとめた一冊の本を閉じる。
庇うつもりはないが、一応猿川は三十路まであと三ヶ月はあるし、バツが付く前に別れたからバツナシ。
なんか思い返すとイラついて来るな、これ。
「とにかく、早いとこ本題に入ってくれ。先生も暇じゃないんだから」
仮にも用があると言われて待ってた側の自分が好き勝手言われたい放題状態であることはもうこの際気にしない…いや気になるし割とちゃんとイラッと来るけど忍び耐えてやることにしてささっと本題に入らせる。じゃないと限界が来そうだし。
おい更年期とか言った奴誰だ、出て来いよ。
「めちゃくちゃ暇そうにコーヒー飲んでたじゃないすか」
このガキィ…お前来るの待ってたんだろうが。昨日のことで急ぎの話かと思って空けておいてやったってのによぉ…
表情筋が引き攣ってるのかなこれ。目尻とか口端が小刻みに震えてやがるぜ。
はい、先生はキレました。もう体裁とか知りません。
「お前ら放課の練習メニュー倍増しな」
「マジで勘弁してください」
ただでさえキツい異能部の練習メニューを倍増されればもうそれは罰ゲームとかのレベルに収まらない。まして夏場の昼過ぎとか地獄以外の何物でもない。
だが強い言葉で批判しようものなら「三倍な」とか言われかねないので、これ以上汗臭くなるのは御免被りたいし我慢しよう。
「そんなしょーもないことはどうでもいいんで、僕の話聞いてくださいよ」
表情筋ってこんな元気に動くもんだっけ?ずっとピクピクしてる気がする。しょーもないのはお前の彼女だ、あとお前もや。
震える手をなんとか抑え、深い息を吐いては吸い、 改めて話を聞いてやる。
「ふざけやがって…で?どんな話?」
力也もやっと真面目な顔に切り替わり、彼女に先に教室に行くよう促し、扉前で手を振り走る彼女に小さく手を振って応えてまた猿川に向き直す。
「…ここで話すのも何なんで二人きりで話せる場所行きましょう。昨夜のこと、ちゃんと言っておきたいことあるんで」
顔だけで外に出るよう促す。
猿川も早くに察して「分かった」と言って先を歩いて『いつもの場所』まで足を運ぶ。
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何の変哲も無い街角にポツンと建つ喫茶店はこれから出勤する人々が一息つけるちょっとした憩いの場所になっていて、客のいるテーブルは決まってモーニング。常連が言うには「この店はモーニングがいいんだよ。モーニング以外は全然ダメ」らしく、なんで喫茶店として成り立っているのか理解に苦しむ店。
…の裏の路地に黒のバンが駐車している。外からはよく見えないが五人くらいの動く影がチラッと見えたので、確信して小走りで近付いたら窓を軽くノックする。
驚いた素振りも無く運転席を開け出て来たスカジャンの男にこちらが驚いてる内に「紅葉、出てき。他は待っとれよ」と言って後ろ扉を開けて見知った髪、見知った姿の子供が出て来る。
すぐにでも迎えに行こうとするが制止がかかってしまう。紅葉が俯いたまま、動こうとせず立ちぼうけになっていたから。
「まずはすんません。親御さん方のお子さん、守りきれませんで、こないケガまで負わしてしまって…ほんまにすんません」
ガラの悪そうな印象からはあまりにかけ離れた深過ぎるまで下げた頭にほんの少しの困惑を抱いて、すぐに理解した。
「頭上げてください。あなたが謝る必要なんてありませんから。寧ろ、お前らの子供返しに来てやったぞくらい言ってください」
確かに紅葉の身体はお世辞にも五体満足、健康そのものとは言い難い。あちこちに傷跡が伺えるし包帯だって…
胸が締め付けられる感覚に苛まれる。
見れば見るほどに、「どうして」って気持ちが心臓を鷲掴みにして離さない。
スカジャン男、もとい慶猯は頭を上げて言われた通りに面をあげるが、その表情はとても良いものとは言えず、行き先を見失った子どものよう。
「いや怪我のことだけやなくて、コイツはまだ子どもで、知らんでええ感情だってある。ワシらはそれから守ってやれへんかった。どころか、消えへん傷まで負わせることになってまった」
見れば分かる。
だって、見るからにこの子は変わった。
いつもならこのくらいで軽口叩いて頭引っ叩いたかれてる頃のはず。それ抜きにしてもずっと俯いていてこっちを見てくれやしない。固く結んだ唇が微かに震えていることだけが確かでいる。
慶猯もまた暗い顔のまま、新葉と夫を見つめている。
「ワシらは人の親やないさかい、救いきれんかった。だから、あんたらが救ってやってくれ。ワシらに出来ることは、これ以上日陰に近付かないようにしてやることだけや」
日の当たらない路地の誰かに向けた謝罪は誰に向けて放たれる。
香りの強いコーヒーの匂いがゴミ漁りネズミの鼻腔をくすぐっている。
「ほな、あとはあんたらでお好きにやってくれ。日影者はここらで退散するでな」と言い残し、慶猯がバンを走らせ去って行ったのを見送って路地裏を出る。
改めてよく見ると久しぶりと言うほど長い時間は空いてない再会を果たした息子は少し背が伸びた気がする。
背丈なんてとっくに追い越されてるのに、心ここに在らずな様子の息子の顔がまた離れたかと思うとそれがまた寂しい。
「紅葉、ちょっとこっち来な」
未だ影に入ったまま、日向に出て来ない紅葉を呼ぶ。
二人を見ようとしない。いや、見れないのが正しいか。
長い間会っていなかった両親の姿は最後に見た時とまるで変わっていなかった。いつもと同じ服装に身を包んでいつもと変わらない声色でそこに来た。
紅葉は動こうとしない。
今はとても、とても二人に顔を向けられない。
足元に広がる湾曲した地べたには蟻が列を成し蝶を運ぶ。細かく咬み千切られた蝶の羽根に出来るのはただ鱗粉をばら撒くことだけ。
ふぅ、と一息ついて影に入ってくる母の足は変に着飾っておらず、されどいつも通りのスニーカーですらないクロックスに不揃いの靴下。
蟻の軍行の道を遮るクロックス。
両頬を叩いて離さない手が無理に前を向かせる。
「ちょっとはこっち見なさい。黙って突っ立ってたって仕方ないでしょう…が!」
グイッと引っ張られた頭が前を向く。影の中からやっとの思いで表情が姿を見せる。
腫らした縦長の瞳孔の朱色の眼が映す目の前の女性を脳は紛れもなく母だと訴えている。
酷い隈にボサボサの髪、服装だってジーパンに合わないような柄物。極め付けには目も当てられない程雑なメイク。いくら能天気な母と言えど、こんな格好で外に出ることはない、あってたまるか。
「良かったぁ…元気そう、って感じでもないか。でもまたあんたの顔見れただけでも良しとするか」
にへらと緩んだ顔の母は身体の力まで抜けてしまったのか紅葉へともたれ掛かるように覆い被さる。両腕を回してキツく抱き締める手で父や祖母と同じ銀髪を撫でてくる。
温かく優しいそれのせいで堪え切れないものが溢れ出てくる。
「少なくとも、泣くくらいの元気はあるみたいだね」
優しく頭を撫でる手は止めず、くすりと微笑む母の腕の中で大粒の涙を溢す。
止めどなく溢れる雫を受け止めてくれる腕の中で大きな声で喚く。
「ごめ、ごめんなさい…ごめんなさい…」
父は何も言わないままでいるが、背後から頭を軽く叩いて二人の様子を眺めている。言いたい事はきっとあるだろう。いや、この父親のことだ。何を言えばいいか分からないって思っていたりするんだろう。
だが、今はそれがいい。
この距離感が父と自分にとって一番心地良く感じられる。
父と母は泣きじゃくりながらひたすらに謝罪の言葉を吐き続ける息子の姿を見て、二人で目を合わせてからこう言うのだ。
「おかえり、紅葉」
爽やかな夏風に木陰が揺れる。
木の葉から覗く夏の朝を照らす陽の光が三人を照らす。
忘れてはいけないのはここが朝の出勤ラッシュ直下の大通りに店を構えた喫茶店の目の前であることかな。




