34.太陽のノクターン
朝方、少女はネグリジュから着替えもしないで脇目も振らず部屋中をあちこちに動き回っていた。
(ない…ない、ない!なんで?なんで?)
確かに昨日までは身に付けていた筈の物が目を覚ました時には消えていた。普段外す時は分かりやすくよく目立つ場所に置くかケースに仕舞うことにしているのに、そのどちらにも見当たらない。
(寝る前はちゃんとあったのに…どこ行っちゃったの?)
ベッドの下はただひたすらに暗闇が広がるだけ。机の上には写真と手紙が乱雑に置かれてるだけ。ベッドの上じゃ枕と布団が組んず解れつの大乱舞。クローゼットの中は幾らかの洋服が「私を見ろ」とばかりに主張し合っている。
その全てに探し物の姿は愚か、気配さえもない。
「お嬢様、朝食の準備が出来ましたのでッ…!……お迎えに上がりましたぁ…お探し物でしたら後ほど私どもの方でさせていただきますから…」
惨状が広がる光景を目の当たりにしたメイドが顔を引き攣らせながらも丁寧に朝食の案内をする。脳内では「誰が片付けると思ってんだこのボンボンは」と思い浮かべながら。
仕方ない、とだだっ広い食卓のある場所まで足を運ぶ。その道中にもどこに行ったのかを考えておきながら。
(寝る前…書斎に行ってる途中に落としちゃったかな?でもそんなすぐ外れる物じゃなかったんだけどな…)
それでも思い当たる節は全部確認しておきたいが為に昨日の道順をそっくりそのまま辿ってみることにするが、どちらにせよ朝食に向かわないと行けないので断腸の思いで後回しに。
少しでも早く探したいとはやる気持ちに正直に小走りで食堂に向かう。
気は乗らないが今日は見合いの日、探せる時間はそう多くないのだから。
道中、メイドや執事の噂話が聴こえてくる。
「明日なんでしょう?私たちは離れておいた方が良さそうかしら」
不安げに語るメイドに何処か安心した執事の話し声。
「そう焦る必要はないでしょう。大切な物だけ持って一時避難するだけで良いのですから」
何のことかは分からなかったが自分には関係ないことだと割り切り無視して小走り。
そうでなくても避難も何も、今日中に見合い相手の家に押しつけられでもしたらもう関係ない。
押しつけられずとも、彼女に「逃げる」という選択肢は十中八九与えられない。
少女は此処に縛られている。
他所見している合間に見逃した廊下に孤独に輝くアウイナイト
割れた宝石が少女の辿った道のりを蒼く照らしている
結局、どれだけ急いでも指輪を探す時間はもらえなかった。
―――――――――――――――――――――――――
昨夜に聴いたいつも通り電話越しに聞く幼馴染の声はいつもに増して真面目だった。
なんでも「明星家の守衛にお前も使いたい。けどこっちはもう申請とか出してる余裕ないから自分でやってくれ」だと。ぶん殴ってやろうかと思ったし、口に出してやった。
警察と占星術士が業務提携を結ぶ際に必要な書類は別に必ず警察が出す必要は無く、占星術士が出す事だって出来る。
但し、まあまあ面倒くさい。
これが前日とかじゃなければ二つ言葉で了承出来たかもしれないが、もう時間が無いって時にこれをやれと言ってくるとは思いもしなかった。
良かったな、書類出してからの手続きとかは時間かかんなくて。
と、言う訳で彼―猿川楽は絶賛授業の合間合間を使い書類を埋めて、昼休みを使い申請を出しに全力ダッシュをしている真っ最中ってとこだ。
やっぱりいつかぶん殴ってやろう。真夏の真昼間にアラサーのダッシュはなかなかにキツイ。
横目に流れていくリムジンを見て叶うことなら乗せてくれないかと思いながらアブラゼミと人々が織りなす喧騒の中を駆ける。
「そちらでしたら昨日既に申請が出されておりますよ」
B.M.Cの受付を越え、申請所まで走ってきたのに受付嬢から突き付けられた現実にあんぐりとした。
「どうせ似たような作業一つ増えるだけですから、と若い刑事様が出してくれましたよ。猿川様のメールにも既に通知が届いているかと思いますが、よろしかったら致しましょうか?」
取り敢えず「はい」と答えておいてその書類とやらを確認するとそこには確かに猿川が書いたものとよく似た書類があり、提出人に田白錠と記されていた。
メールを見ると丁度十時間前に通知メールが届いていたのも確認できた。ちなむとメールは確認は夜にまとめてする派だ。
帰ってから問い詰めてやると「嫌がらせとかじゃ無くて本当に部下が気を利かせてくれただけ」らしいので取り敢えずこれからはこまめにメールは確認することにした。
真夜中、三人だけで立つ豪庭は途方もなく広く感じる。
現在、「結局大きく動くのはS級三人だから事前に諸々の確認しときたい」と言うことで明星家にお邪魔させてもらっている真っ最中。しかし、「だったらもう前日から守り固めとくとかで良いんじゃないですか?」と言うことで申請を受けたA級の占星術士もちらほらと動いている。
「んで、実際のとこ具体的な作戦とかあるか?あるんならその通り動くけどないんなら自由に動くからな」
昼間のこともあり猿川は若干キレ気味だが、まあ仕事になったら切り替えるだろうと言うことでそこは無視。作戦のことだけ伝えておく。
「俺たちについては遊撃だな。固まって動くんじゃなくてバラバラに動いてもらう。結界も張ってあるから侵入地点により近いやつが速攻で動いてもらって、後にS級は合流。A級、警備隊は定位置を決めてあるからそこに配属。A級は時間稼ぎ、警備隊は報告。質問は?」
煙草を吸いながら伝えた作戦に異議を唱える者はなく全員が了承したようで、より詳細まで伝え散開させる。
今夜は月が綺麗だ。
ジメつく熱帯夜の中でも天に輝く月は涼しい顔で地上を照らす。
池のほとりでは蛍が飛んでいる。
求愛に輝く蛍は何故こうも人の情に訴えかけてくるのだろう。それはきっと人の一生も蛍と等しく、輝くのは僅かだと知っているから。
夜空で激しく散る花火。
何処かで祭りでもやっているのだろうか、先程から大きな爆発音を轟かせ、夏の夜を鮮やかに彩っている。
(祭り…)
右手薬指のアウイナイト。
昨年の今頃繋いだ手は今は隣になくて…
「ひばり」
彼女の名を呟く。応えてくれる明るくこっちまで元気になる声はなく、静寂に沈みゆくだけ。
嗚呼、蛍。どうかこの心に空いた穴を埋めておくれ。お前たちの一瞬の蛍火でこの眼を包む闇を晴らしておくれ。
「術式結界」
―黄昏の舞台
蛍の姿が消える。
池が埋まる。
花火が消える。
轟音届くことなかれ。
幕が降りる。
紅白の幕が、サーカス劇場によく似たあの幕が降りる。
舞台が迫り上がる。その中心には取り残された豪邸。
客席では不定形の黒い影が不気味な笑顔を浮かべている。
どうして考えなかった?
どうして思い付かなかった?
何故悪人が事前予告通りに動いてくれると思い込んだ?
何故、不透明な彼の行動理念を度外視した。
龍田ホールによる新人戦の襲撃、有名貴族や富裕層の襲撃、病院への新入、ひばりにかかった呪い。
頭を捻れば辿り着いただろう。
何故、何故無視した―――
―――――――――――――――――――――――――
帰りのリムジンの中、空気は最悪だ。
ひばりは俯き、膝の上握りしめた拳がわなわなと震えている。
ほんの少し前まで行われていたものは見合いといえば聞こえはいいが、実状は人身売買だ。
少女は齢十七にして奴隷になった。
フィンガーテル家嫡男ニスダード・フィンガーテルの第八夫人として売りに出されたのだ。
一目見た瞬間に判った。
これはまずい、と。あの眼は人を人と見ていない、獲物を見る獣の眼に他ならなかった。
彼女が磨き上げ、弟子にも教え込んだ第六感にも近い鋭敏な『恐怖』が騒しく警鐘を鳴らしていた。
いつも通りに声が出せたらきっと丁重にお断り出来たかも知れない、声が出なくても魔力さえあればその場を滅茶苦茶にしてでも逃げることだって出来た。
しかし、今の彼女にはそのどちらの選択肢も取れない。
ただ、怯えながら話を黙って聞くことしかできなかった。
よく考えたら分かることだった。
高校二年生の女子相手にニュースにちらりと映っただけで一目惚れしたと言って我が物にしようとするような男がまともな訳がないと。
煙を上らせるパイプが燃えた煙草の臭いを車内に充満させる。醒次の所有物である車の中、母もそれに文句は言わなかったし言える訳がなかった。
醒次の表情はぴくりとも動かず、ひばりが潤んだ瞳で睨みつけようと終ぞ無表情のまま。
「貴様には感謝されこそすれ恨まれる謂れはない。利用価値のない貴様に価値を見出しここまで育て、今日この日に最初で最後の対価を得てやったんだ。それに何の文句がある」
震える手が止まらない。
涙が目に溜まって仕方ない。
この男はその全てを顧みずにさっさと仕事の電話を取りやがる。
この女もずっと扇子で自分を仰ぐだけで、一度こちらを一瞥すると蔑む視線を浴びせやがる。
憎い、憎い。
愚かな己が憎くて仕方ない。
いつ間違った。
いつ選択を誤った。
いつ、どう道を進んでいれば結果は違った?
思い当たる節が沢山ある。
あの時、この時と頭に過ってくる。
どうしてその時に見せてくれなかった。そうしていればその選択肢は選ばなかったのに。
心内、静かに号哭する。
それでもこの耳はよく聞こえているようで―
「…君のお陰で万事上手く行きそうだ。明日の芝居までつつがなく行えば報酬は倍にして払おう」
「君のお陰」「明日」「芝居」
今朝聴いた噂話は何だったか、確か「明日は何か避難しないといけないものがある」だとか何だとか。
明日…避難しないといけない…芝居…
気まぐれに流れているラジオがニュースを流している。
「インターネットにて出されたオッドマウスの予告状」について「遂に明日に控えています」とか言うハガキをパーソナリティの芸人が読み、好き勝手放題に眉唾物のネットに転がる陰謀論染みたことを言っている。
「予告状じゃ明星って明星グループのトップのお家が狙われてるんだっけか?まぁー後ろ暗いとこあるでしょうから狙われたんじゃないですかね」とか笑っているところでラジオが切れた。
車内で大きな音が鳴り、二つの人影が転がる。
「アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
聴くに耐えない女の絶叫。
音を鳴らすことを忘れた喉が鳴らす叫び声は嫌に高く掠れていて、とても綺麗とは言えない。
拳は醒次の左頬に食い込み吹き飛ばす。マウントを取りそのまま何度も何度も、何度も、何度も、何度も。
「オ゛ッ…アェ…ガ!オあッ…ェがァ!ォァエア゛!ゼン…ヴッ!エ゛んう!」
何度も、何度も、何度も、何度も。
涙が溢れてたまらない。
この拳が止まらない。
この心が叫んで止まない。
もっと馬鹿に生きていれば、もっと空っぽな頭でいれたらどれだけ良かった。
彼女は気づいてしまったのだ。
この男がオッドマウスと繋がっていることに。
裏で手を引き、自分が貴族の仲間入りを果たす為に手を染めたことに。
「アアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」
もう一度、見たくもない面に拳を突き立てる。
「ちょっと!さっさと何を見ているの!さっさと静かにさせてちょうだい!」
久しぶりに聞いた母の声。
それは娘を心配するものでは無かった。
母の一声の後、ハッとしたように車は停まり、黒服がひばりを引き剥がす。
その間も少女は晴れ着の上に醜い叫び声を纏い、涙で崩れた顔で暴れていた。
―――――――――――――――――――――――――
術式結界。
結界術の中に魔術や能力の術式を織り込んだ高等術。
又、結界と結界は互いに打ち消し合わず、押し合っている場合、混合し二つの術式が同時に発動される。
しかし、今回は完全に事前に張った結界は押し負け消え去った。
(これはまずい…!)
結界の端まで橙色のコートを靡かせながら急いで駆ける。
最悪だ。敵の実力を見誤った。侵入者を検知し妨害する結界は完全に消え去り、侵入はし放題。その上敵の作った『術式結界』、恐らくは…
静寂を打ち破る轟音が天峯の右半身を連れて行く。鎖に繋がれたそれは地に着き草を焼いた後に宙を舞い主人の下へと帰還する。
遅れてやって来た轟音が空気を引き裂く。
…侵入し放題
「随分と呆気ないな、不死鳥。これではまだ吾輩は満たされぬぞ」
寸胴のような体躯をした巨漢、深く被ったフードの影で顔を見えないが見た目通りの低音が響いている。
鱗のような柄をした鎧に身を包み、棘の付いた鉄球を退屈そうにぶら下げている。
「致し方無し、《修道女》の方へと向かうとしよう。少しは期待通りの戦が出来ればいいが…ッ!」
この場を去ろうと背を向けた巨漢を貫かんとしたのは不定形、両刃の剣。
背後に居たのは右半身を取り戻した『不死鳥』天峯界斗。
「人のこと二つ名で呼ぶなら由来くらい調べて来いよ。犯罪初心者か、お前」
両者共に後ろ跳び、一度に大きく距離を取る。天峯の背後には蠢くダークマターが常に飛びかかれるよう控えている。
影の下、目を見開き己が敵を観察する。
先程消し飛ばした右半身があるどころか、コートまである。だが、血が付いた箇所を見る限り先程の一撃は確実に奴の半身を削った筈。
(…何かしたな)
「面白い!」
鉄球がゆっくりと回転を始め、徐々に加速していく。加速は止まらず、次第に辺りに旋風を巻き起こし先程の轟音が唸る。
「我が敵にとって不足無し!いざ、いざ!いざ!尋常に!勝負!」
靡くフードとコート。
派手な黄色の髪を靡かさせ天峯が睨みをきかせる。
「悪いけど、俺はお前の相手してる時間はないんだわ」
一切にダークマターが襲いかかり、無数のダークマターの中を天峯が奔る。ダークマターに手を突っ込んで取り出すのは一本の突槍。
「すぐに片付けてやる」
館の屋根は滑りやすい傾斜になっているが、それを尖った飾りの上に立つことでカバーする。
見下ろすはこの広い豪庭。
それとその中心に立つ一人の男。
「メイドのスカートの中ぁ見物料五億になりまぁす」
見上げる視線は彼女―メイドの姿をし、顔の変装を解いた修道女。今宵は烈火の如く朱に染まったベールや修道服を脱ぎ、黒基調ロングドレスのヴィクトリアンメイド服に身を包む。
メイド服に不釣り合いな鋸からまだ新しい鮮やかな赤が滴り、屋根板を融解する。
「それ、あんたの墓前に備えておいてもいいか?」
手鎌を肩に担いだ猿川の余裕の笑みが修道女に向けられる。
この際五億は払えるんだ、なんていうツッコミは忘れておくが、ここ最近の猿川は虫の居所が悪いもんで、軽口叩きながらも常にこの場は一触即発。
喉に溜まった魔力はいつでも爆ぜられる。
「残念ながらテメェの冥土の土産なんでぇ現金即時払い以外受け付けておりませぇん。金がねぇなら死んで詫びなぁ!」
飛び降り着地点が割れ、瞬く合間に跳躍しまた地割れする。
鋸と鎌が火花を散らして衝突。
宙を舞う赤は一体誰の物。
―――――――――――――――――――――――――
少女は一人、部屋に俯せていた。
呪われた一日の晴れ着を脱ぎ捨て、殆ど裸同然の姿のままベッドにも入らずに床に倒れ込んでいた。
愚かな己を悔い、己を産んだこの家を呪いただ目を腫らすことしか出来なかった。
どこからが間違いだったか、答えは単に一つ。
産まれて来なければ良かったのだ。
産まれて来さえしなければ、いくら泣こうと興味を持たれない悲しみも、躾と称し鞭打たれることも、生傷見えようと抱き抱えられることのない淋しさも、親の愛に固執することも、彼女が望んだ全てを持って産まれた弟に嫉妬することも、こうして涙を流し苦しむことさえも…
…誰かを愛することだって知らずにいられた。
苦しいよ。
誰か助けてよ。
もう嫌だ。
ずっとこのまま、私は私でいる傷を心に負って生きていかなくちゃいけないの?私は私を恨んで死んでも死に切れない思いを抱きながらこの先を歩いていくの?
お願いだから…誰か助けてよ。
涙が止まらないの
足元だって見えないよ
涙を拭けば拭くほど目が腫れてくるんだよ
痛いよ
苦しいよ
辛いよ
寒いよ
淋しいよ
もう、疲れたんだよ
この世界に神なんていない。
この世界において神を名乗るのは国を統べる主人たる者共で、苦しむ人々の目の前に現れ救いを与える存在なんて在りはしない。
だっておかしいじゃないか。
私が今こんなに助けを求めているのに、何度も何度も神の名を叫んだのにそいつは来てくれやしなかった挙句ここまで放置だ。
善人がどれだけ苦しもうと救われるのは死んで全てを失った後。罪人が罰せられるのも死んだ後。
助けて欲しいのは紛れもない“今”なのに、天罰を望むのもまた“今”なのにそれらは決まって“今”起こることは無い。
こんな不条理を泣き寝入りで済ましてなるものか。
ココロの中、黒より暗い感情が蠢いている
少女の腕が横這いの身体を起こす。
鎮まることを知らない衝動がこの身体を突き動かしている
弱々しい脚が全身を支えている。
ただ一つ、彼女の望む物を手に入れる為に。
身体が熱い
今にも灼けてしまいそうだ、とココロが叫んでいる
調理場に落ちていた包丁。お前は肉を断つ物だ。さぁ、お前が何処までやれるか見せてみろ。
黒く黒く、闇よりも黒く染まってく
純白のネグリジュを身に纏い、淡い水色のボブカットが澱んでく
暗く、暗く沈んでく
如何様な光が差し込もうと吹いて消えてしまうように沈んでいく
ココロを鋭利に研ぎ澄ませ
この扉一枚失くなればもうすぐそこだ
牙を、刃を鈍らせるな
使える物をなんでも使え
お前の全てを否定しろ
重い音を立て、内開きの扉を押し開く。
いつもと変わらぬ醒次の職務室。
窓も、机も、並んだ本も椅子も何もかも変わった様子は無い。
ただ二点、違う点が少女の目に映り込み、驚嘆させる。
窓の外、この時間なら夜景が見えている筈だ。さほど高くない場所から見る夜景は綺麗とは言えないだろうが、今日はそんな物であってもこの目に入れることは叶わず紅白の幕が降りている。
醒次の首に手がかかる。
首を握り絞める手を掴み、どうにか放そうと踠いている姿がそこにある。
「オッド…マウス…!貴様ァ…謀った…な!」
白黒ツートンの嗤う仮面、漆黒のタキシード、鮮やかに彩る髪は正しく金糸、鮮血のように紅い大鎌。
紛れもないオッドマウスがそこに立っていた。
「ご機嫌よう、お嬢さま。其の手の物を見るに貴女も私と同じ腹かな」
目の前で繰り広げられている光景とはとても相応しく無い、不気味な程に柔和な声に目が泳ぐ。
溢れんばかりに流れていた涙が鳴りを潜める。
握り締めた包丁がカタカタと震えて、パクパクと死に際の金魚のように口を動かすが音が出ない。
「おや、どうしてここに?という顔をしているな。安心したまえ、君を殺す予定はない。…いや、やはり殺しておくか」
右手に掴んだ首を放り、大きく音を立て転がりひばりの爪先に当たるか当たらないかというところで止まった。
首についた手形からどうやら本当に殺そうとしていたらしいが、碌に傷は見受けられない。の癖に呻き声を上げ苦しんでいる。
「君が殺せ。元よりそのつもりだったのだろう?」
視線をナイフに向けた奇術師が突発的に放った言葉にひばりの息が乱れ、目線が奇術師の仮面と足元を行ったり来たりとする。
片手のナイフを両手に持ち替え握り込む。
「どうした?君の其の手の物は何の為にある?君は何を果たす為此処に来た?」
肉を断つ為、ある人間たちを殺してやる為にある。
この男を殺す為に来た。
瞳孔が開いたり閉じたりを繰り返している。
乱れた呼吸のまま両の手に握り締め、切先の揺れる包丁を頭の上まで振り被る。
足首を骨張った手が掴み、力を込める。
「さぁ叫べ。君の中に潜んだ怪物にその身を委ねろ」
掠れた声の咆哮はこの部屋に響くことで精一杯。
耳から脳に訴えかける甘美な誘惑に誘われて細い腕を振り下ろす。
仮面の下で誰かが嗤う。
「ガァ゛アアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
もう切先も視線も瞳孔も決意もブレることはない。
今ここで全て終わらせよう。
「ひばりィ…!この、大馬鹿女がぁ…!!」
足首を掴んでいた腕がひばりの顔まで伸びていく。
そこに高貴さは欠片も無く、死物狂いの憐れな老人がいるだけ。
「そして、ひばりという存在ごと死んでしまえ」
可笑しくて仕方がない。
不定形の観衆がケタケタと嗤っている。
この顔に張り付いた表情が『喜』で良かった。
こんな可笑しい親殺し、笑顔で迎えられないなんてなったらきっとショックで狂ってしまうから。




