35.アリア
加速する鉄球が生み出す破壊力は比類無し。
ここで戦っていたのが天峯でなかったら間違いなく死んだことを理解する暇もない内にあの世へのゴールテープを切っている。
言ってるそばから目測直径1メートルの鉄球は新幹線ばりの速度を出してあちこちに脱線してはぶち抜きながら轢き殺しに来る。
ダークマターがそれを圧倒的包容力で受け止める。
「あっぶないな。当たったらどうしてくれんの、痛いじゃすまないんだよ」
黄色の髪の中に潜む黄色の瞳は燦々と闇夜の劇場を眩く照らす。
鉄球を引き抜き、もう一度手元で加速を始めながら巨漢はまたよく見えない顔で薄ら笑う。
「我が渾身の一撃を痛いで済ました上でよく言う。死に体らしく倒れておけば良いものを」
加速により舞い上がった旋風に塵が舞うも、酷い嵐の中泰然自若。
亜音速に達したところで射出された鉄塊に向かって恐るる事莫れ。頭がひしゃげ、霧散する頭蓋の中をぶち撒けようと全速前進。
「發!」
大気を割り驀直前進、突き進む鉄球とを結ぶ鎖が形を変え横薙ぎに。
亜音速のそれを潜り抜けて頭の無い人形が懐に。
無数に縦横無尽に動くダークマターに無数の眼が開く。黄色の瞳孔が燦々と降り注ぐ。
骨盤に鉛玉三発撃ち込んだら銃身放って右の掌底を左脇に、左の拳打を鳩尾に落とす。
舞台の上、光の当たらぬ銃身と散らばる内臓がどろりとしたダークマターに包まれ姿を消す。
背後に回って背中合わせ。片足目一杯に踏んづけ、舞台にヒビを入れ、ダークマターから取り出した短剣を巨漢の肝臓に突き立てる。
壁に耳あり障子に目あり、ダークマターには口もあり。宙を這う黒いミミズから姿を見せる口が音を出す。
「さっき言ったばっかだよな、痛いじゃ済まないって」
大回りの鉄球が肋を砕き、肺が破裂して弾け飛ぶ。胃も道連れになり、内容物が飛散。
ダークマターから不定形の手が伸び近寄る。
中には剣や三叉槍といった武器を持つものもあればリボルバーを持つもの、何も持たぬものと様々。
それらが巨漢を切っては刺して。そして悲惨にも同じ足跡を辿る。
跳躍した漢の足を潜り、停止することなく駆ける鉄球は遂に音速までに達し、衝撃波を起こし辺り一面に破壊の限りを尽くす。
地に落ちた黒い影はまた集まって一つとなり、塊から産み落とされるのは『不死鳥』。それと硝煙燻る一発の弾丸。
音速を超える鉄球に掻き消される寸前、鉛玉は鋼鉄の結晶のように姿を変え暴れ回る弾頭を呑み込み勢いを殺す。
(《奇術師》曰く、此奴の能力は『物質の変換、それに伴った高再生力』だったか。死ぬべき傷は既に三回…か)
脳内で闇より黒い《奇術師》が深々と腰を掛け語る姿が再生される。
同時に感じる、この男の底知れぬ狂気を。
「不死鳥とは名ばかりの屍人、か。長い事愉しめそうで何よりだ!」
死を死と理解した上で己が死を死とすら捉えず、冥府の入り口に唾を吐き捨てる狂気―――
「遊びたい、ね。俺に飼われるんだったらもっと激しくシてやるよ」
全てを照らし自己を主張する光の中では弱々しく照る輝きは淘汰される。
ギラつき睨む眼がフードの影から望む視線と交錯する。
大気を巻く風が彼方へ昇る。
亜音速の鉄球は熱を帯び、全てを灼き砕く。
黒いミミズが口を開く。
四方に裂けた口からはA級武具『辛雨』の贋作。真作と比べ、能力は見劣りはするものの効果が消える事は無い。
「S級武具『星屑』。能力は『秒間9.8m/sの加速』だっけ?困るんだけど。そう皆強いのばっかり使われるとさッ!」
振るった刀を弾く鎖から甲高い金属音と細やかな火花。同時に立ち篭める白煙の根本は錆びて剣筋の軌跡を遺す。
音速に達する火球は轟音唸らせ、朽ちる自らの一部を省みずに軌道を描く。
地面に当てた手の平から半径約5メートルを余す事なく吸収して星の描く軌跡をいなす。
煉瓦造りの壁は粉々に破砕し、柱に引っ掛けヘアピンカーブを描く予定はズレて悉くを巻き込む星の尾が再度煉瓦を粉々に飛び出す。
音速に達する火球に目もくれず、宙に浮かび辛雨を振るう天峯の傍らにおびただしい数のミミズ。
一本の黒ミミズの腹が膨らむかと思えば次には鈍い銀一色が腑食い破り溢れかえる。
世界最重の液体。
「やっぱ速いの止めるんなら壁とかよりもこういうのだろ!」
鎖を足場に空を駆ける。マッハで接近する邪魔者は既におらず、威を存分に魅せつけろ。
辛雨が融解し形を失うも、手の内を退くつもりはないらしく、仰々しく居座る。
ダークマターが蠢き、容を変貌させる。
それは自身の果てを選り好みすることはなく、どんな物であろうと成ってみせる。
伸びた刀身は薄く、僅かに湾曲している軽い刀。
「『龍尊寺真宗』」
神具でさえもお手のものだ。
金切音が唸り、鋸刃一枚一枚が鎌を擦る度に木屑のように火花を散らす。舞台の上、あちこちに飛び散る血が煙を撒いている。
「『動くな』」
振り上げた鋸が降りて来ない。他の自由が効くあまり、脳がエラーを吐き動作が上手く繋がらない。
メイド服に穴を開ける勢いで腹に一撃を打ち込んだら同じように何発も。
九発目が終わったところでメイドがひとっ飛び、空で停止した手を利用して身体を捻って側頭蹴りを放つと同時に拘束を解き、自由となった鋸を低姿勢から猿の足切りに使う。
「やっぱ解き方知ってるんだな」
蹴りを片腕で防ぎ、鋸を足蹴にして全てを蔑ろにする男の眼は酷く冷たい。
(新人戦の時のも合わせてこれで二回目。確定だな)
手鎌から手を放し一声。
「『落ちろ』」
自由落下を始める手鎌は瞬時に加速し、地面さえも削って結界の下限まで落下する。
頭を刎ね落とすつもりだったがすんでのところで鋸を手放し撤退したのか、落っこちていたのは首ではなく手首。
「『吹き飛べ』それと『消えろ』」
薄ら笑うメイドの顔が歪んで、突風が吹くようにして玄関扉を破るまで飛んで広間に掛かった絵画を凹ませてようやく勢いが止まる。
追撃とばかりにもう一度玄関を破るのは枝の一本一本から根っこまで一本丸々含めた木。
垂れ流しの血で木を腐食して脱出を図る女の背後が熱を帯びて膨張。よく聞こえないが外で誰かがポツリと呟きやがったんだろう。
「『爆ぜろ』」
まずは絵画が一際大きな爆炎を起こし、続く煉瓦一つ一つが連鎖的に起こした爆発はまさに炸裂弾。
「お前も、『爆ぜろ』」
一度前方に弾け飛んだかと思えば活きのいいのがもう一本いた。
水分を多量に含んだそいつが熱を起こせば膨張して高温の蒸気を押し出しながら爆破しやがるんってんだからたまったもんじゃない。
大穴空いた壁の裏は少し狭いが中庭の整備をする為のあれこれがしまってある倉庫のようで、スコップやらハサミやらが転がっている。
「『飛べ』」
鉢がフワリと浮かんでメイドに目掛けて一直線。一つ二つとそつなく砕いて凌ぐ。
「女相手してんだからよぉちったぁ加減ぐらいしろよなぁクソヤロォ。あーイッテェ」
切断したはずの女の手から煙が立ち昇り、新しく手が生えてきている。漫画ならボコッボコッみたいな擬音が付いてくるあの感じで。
大穴をひょいと飛んで通り抜けた猿川もその様子を鋭利な眼を向けながらも冷静に分析をする。
「るっせーよブス。お前ら仲良くうちの生徒にちょっかい出しやがって、覚悟は出来てんだろうな」
手鎌で軽く肩を叩き、剪定バサミを掴んで投げつける。ハサミは急加速してメイドに侵入しようと試みるも、首を傾げて躱される。
(治癒…おおかた、『腐食の血』の逆式だろ。警戒はしなくていいな。魔力無くなるまで殺し続ければそれでいい)
眉間に皺が寄る彼の顔は泣いた赤子でもピタリと泣き止むこと間違いなし。凄まじい怒気を滾らせた体育教師なんて生徒にとっちゃトラウマもんだろうが、ここにその生徒はいないのだから思う存分に威嚇していく。
燻る火傷が彼女にシグナルを奔らせる。
全身を迸る電気信号が彼女に「ヤれ」と「滾れ」と叫ぶ。
「生け捕りなんぞクソ食らえだ。まずはお前から『殺す』」
足元に転げ落ちた脚立蹴り上げて宙を舞うそれを手掴みでフルスイング。中庭を映す硝子砕いてフレームに嵌ったバカは置き去りに、脚を滑らして払う。中空、払った腕からは血が飛び散る。一滴一滴までがあらゆるものを腐敗させ蝕む呪いの血。
一歩後退してフルスイングの脚立を躱し、足元払う脚に鎌を突き刺し止めるも、千切りながらも進んでくる。
「甘ぇんだよぉ!クソボケェ!」
血が目にかかる。腐食を始め、身体を少しずつ蝕んでいく。
もう一回転して立ち上がりの側頭回転蹴りを打ち込む。
「お前に言われる筋合いはねぇよ」
蹴りは片手に掴まれ、裏から覗く双眸は毅然として開き、痛みをもろともせず反撃。
顔面に連打を打ち込まれ、反撃とばかりに伸ばした手を掴まれ力一杯に引っ張られ寄った胴体に膝をめり込ませる。蹌踉めく彼女から手を机上に押し付け、手に取った剪定バサミを手の甲に突き刺す。
「『動くな』」
背後から忍び寄る血を言論によって統制。一切の接近を禁じる。
しかし、こちらにはリードは付いてないようで身体を捻って鳩尾に蹴りをぶち込み、ハサミを抜いて血みどろになった掌を無理矢理に猿川に押し付ける。
腐食が始まる。
「ちったぁいい男になったんじゃねぇかぁ?」
血も滴るいい男ってか。
何処からがメイドの血で何処からが自分のかも忘れた。眼の奥で網膜が灼き尽く気配がする。頭を針の筵にされている感触が消えてくれない。
…治癒はなしだ。
「元からだろ」
電子盤を拳が貫き、何処かで水が流れる音がする。
互いの手の甲がぶつかって弾け、猛攻の押し合い。
手鎌がメイド服の胸元から骨盤にかけてを切り裂き、肉を断つ。
壁に掛かった鋸を掻っ攫い振るう。両断された髪の毛が流れてく。鉢の破片が飛んでくるのをノールックで最小の動きで躱し、鋸を血に浸してから再度全力で振るって種や肥料の入った袋が裂けて散布する。
予期せぬ目眩しだが軌道はよく見えているのだから問題ない。窓枠にハマった脚立引っ張ってメイドの腕とっ捕まえてやったら今度は自分が窓を蹴破って中庭に出ていく。
「『撃ち抜け』!」
種子は本来の役割を忘れたのか、盛大な銃声を鳴らしメイドの肉にめり込んでいく。あの部屋にはマシンガンがあったらしく、連続した銃声はしばらく鳴り止まない。
「『潰れろ』」
銃声が鳴り止む頃に豪邸の上階部分を落とし瓦礫で覆わせる。土埃が舞い、酷い音が中庭で響き渡った跡地には瓦礫の山。土埃が晴れてもそこに人影はいない。
飛んでくる瓦礫を声一つで砕き、細かな破片だけが涼しい顔に降り注ぐ。
連続して飛んでくる瓦礫も同じ様にしてやるとズタズタのメイド服を身に纏う修道女が血管を浮き彫りにして山頂にて立ち吠える。
狼の遠吠えを聴きながらエラー音が鳴り響いてサイレンがフル回転する中庭のど真ん中で稼働し続けるスプリンクラーの水を浴びる。
「まだまだ腹八分にゃ足りねぇもんな」
「テメェマジでよぉ…!」
「飛べ」と言えば飛んでいく鎌は「戻れ」と言えば帰ってくる。投げつけた手鎌は湾曲した軌道を描いて手の内に帰ってくる。
投げつけられた方は鋸使ってブーメランよろしく飛ぶ手鎌を叩き落とし、肩を揺らして息をする。
冷たい水が熱い血を流していく。網膜を灼く棘が取れず、システムエラーを吐く電子盤が五月蝿い。
冷たい水の中で炎が狼煙を上がる。
「もっと殺る気にさせてみろ!!」
「ブッ殺してやらぁ!!」
蹴り上げ跳ねた雫がクラウンを作り、金属がぶつかり合って火花を散らせ。
細かな刃が手鎌さえも蝕み始める。
左手で鋸を掴む腕を掴み、ぐるりと回して投げ倒す。眉間に鎌の切先を振り下ろす瞬間、口に含んだ多量の血を浴び利き手の感覚を手放すが、その程度で狼狽えることは無く血を掻き分け進み続ける。
起き上がる勢いで切先に頭突きを入れるコスプレ修道女の顔は薄ら笑い、眉間は軽く血が滲むまで。
「『刺せ』」
身に纏う魔力の鎧も、限界まで固めた表皮も、頭蓋も貫き前頭葉から大脳髄質、後頭葉までを言葉一つ唱えるだけで貫く。
頭突きのせいで奥へ向かう手鎌を迎合してしまった女が仰け反り倒れていく。
その反動を使ってダラリと伸びた腕を猿川の胸骨にぶちかます。胸骨が高鳴る心臓を圧迫して必要以上に血液を押し流す。
「『循せ』」
号令に従い、心臓が一定の速度で必要以上の血を巡らせる。猿川のギアが一つ上がる。
突き刺す蹴りが女の面に一閃。ギザッ歯が欠落、鼻から血が流れる。
手鎌を引き抜き、立ち篭める煙が傷だらけの身体を修復していき万全になったところで狼共が吠える。
「ちったぁ咽せ帰れよぉ!ギリ人間がぁ!」
「お前が言えた義理じゃねぇだろ!バケモン!」
回転するレッドライト。
投げ捨てた手鎌が走る彼の手の内に帰って来てもう一度振るい、左口端を切る。断裂した肉から覗く口内から溢れる舌が舐めずる。
振り向き様に旋回して飛ばした鋸が猿川の腱を断ち、体勢を大きく崩すが、『治せ』の号令を受け血小板が集まり傷を塞ぎ、筋細胞が束になって筋繊維を織りなし元通り。
(こんのクソボケがぁ!)
熱くなる女とは対照的に空気が冷え込む。
熱く燃え上がる男の一声で葉々に霜が降り、回転するスプリンクラーが六花を振り撒く。
吐いた息が白い。
「『凍れ』」
一面の白銀世界でスプリンクラーが固まる。放物線を描く氷がアーチを形造り、サイレンライトが白銀の世界で乱反射する。
「なんでもありかよぉ、テメェはなぁ!」
膂力で身体を包む薄氷を砕き、氷の上を疾走する。
だが、この膝はとっくに限界で――
「ァ?」
転ける顔面はサッカーボール。ゴールポスト代わりに凍てついた巨木まで吹き飛ばされる。
木屑から手鎌が覗き、修道女の心臓を貫き巨木に杭を打って固定する。
踠く藁人形を後ろ目にゆっくりと歩く猿川の口が二度形を変える。
「『死ね』」
細胞の一つ一つ、血球共々が、器官が組織が活動を停止する。
力無く倒れる死体が手鎌を押し出し落下するのに追撃で巨木を倒した上で爆破する。
目を逸らさない。敵の沈黙をこの目でしかと確認するまで絶対に。
二分、三分と経っても彼女が動く気配は無く、魔力反応も見られない。そこから更に五分が経過しても十分が過ぎても彼女からの応答は無い。
「『溶けろ』」
歩きにくい地面から解放されるため、氷を水に戻す。
巨木に背を向け、屋敷を後にしようと歩き出す。
右肺に銀の弾丸が貫通し、50口径の大穴を開ける。
白い息を吐くのはマグナム―デザートイーグル。
卑しく嗤うのはスカートが破けたスリットからホルダー覗かせた修道女。
「やっと解いたなぁ!術式結界の警戒をよぉ!」
天井の見えない中庭、奪われていく視界、うずまき管を刺激し続けるエラー音。
しばらくの間それを見ていなかったのもあるが、一番の要因は何も起こらなかったことだ。
どれだけコイツが傷付こうが、死に近づこうが、実際に死のうが、何もしてこなかった。
(アイツ…!最初っからコレが目的で…!)
あの時からずっとあの男はこの結界の能力を使って来なかった。それもこれも全部、この刷り込みの為。
この結界に入った時点で、全ては彼の手の平の上で踊らされているに過ぎない――
「まんまと騙されたよ。クソビッチ」
膝をつき胸に空いた穴を埋めながら見下ろす修道女を見上げて睨み返す。
口端から温い血が流れ、血痕を落とす。
「見物料五億にプラスでショー観覧六十分コース一マン三千円になりまぁす。さっさと死んで払えよぉカモ」
見下ろす修道女の目が下卑に歪む。そばかすは左頬だけ無くアシンメトリー。
カモを目の当たりに舌舐めずり。
彼らは揃いも揃って嫌気な笑みしか浮かべない。
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一つの部屋を満たすしゃがれた声。
空間を包むのは何者でもない何者かの嘲笑。
包丁が貫き、肌から血が溢れる。
恐る恐る目を開く。
紛れもない、誤魔化しようがない自分自身が犯した罪をこの眼に収まるために。
しかし、そこにあったのは人の顔ではなくて…
彼女を背中から包む腕が暖かく、冷えた彼女を溶かしていく。
並んで歩く彼女の右の手を包む手の平に研ぎ澄まされた白刃が突き立てられている。
「良かった…今度は間に合った…」
夕日と同じ髪色をした彼が安心しきったように笑う。
仮面の下で誰かの表情が失われる。
愛する人の胸の中で少女の顔が歪み、瞼と口が何度も閉じては開いてを繰り返す。そのマメだらけの手の中にはもう牙は無く、抜け落ちた牙は弱々しく床で踊る。
「今度こそ、本当にお前を失うとこだった。ここから先に進んでたら、二度とお前に会えなくなってた」
強引に開かれた扉から入り込んだ光が二人を包む。
力也も随分と余裕がなかったようで、緊張の糸が切れたのかはたまた張り直したのか、ひばりを強く抱き締める。
彼からの愛が痛いくらいに伝わってくる。
ココロの中で止めどなく成長しては渦巻き、蠢き纏わりつく黒い蜈蚣が穴倉へと帰っていく。
力也がひばりの首筋に顔を埋める。二度も彼女を離してなるものか、と言わんばかりに。ひばりもまた何も言わず、ただ彼を許し受け容れる。
「ごめん。もっと早く来れなくて。他のもん全部投げ捨ててでもお前のこと取り返しに行けばよかった。立場とか年とかそういうの見ない振りして行けば良かった。本当に、間に合って良かった…」
血が流れる手も流れていない手も小刻みに揺れている。
「怖かった」と漏らす声はほんの僅かに震えていて、もう一度「ごめん」と呟いた。
満足したのか、抱き締める腕の力を一度緩め、目の前に彼女を立たせ互いに向き合う。
二人の瞳は泳がず、唯互いを真っ直ぐ見つめる。
彼女に聴かせる彼の声は優しく温かく、そして真摯である。
「ひばり。俺さ、決めたよ。だから少しだけ、話聞いてくれるか?」
問われる彼女は目を丸くさせながらも静かに小さく頷く。
あまりに真っ直ぐな瞳に声に、ほんの少しの驚きを見せて。
「俺は多分…お前の苦しみも痛みも共感してやれないだろうし、一緒に背負ってやることも出来ない」
ひばりの顔が俯き、暗くなる。やっぱりか、と諦めるように。
それでも彼の顔には迷いは無いし、語る口も絶対に止めない。今止めてしまったら、今度こそ彼女を手放してしまうと思ったから。
「でも絶対に、お前が無理だって言っても意地でも理解してやる。だから何度も、何度もひばりを理解出来るまで、俺の隣でお前の話を聞かせてくれ」
力強く、彼女に懇願するように言い放つ彼の想いは絶対に曲がらず、砕けないと信じられる程に堅い。
少女の俯きが無くなって、もう一度彼に向き合う。
不定形、黒い影の声が消える。観衆の存在が消え、空間を静寂が包む。
「俺が、ひばりが今まで苦しんだ分の何億倍もお前を幸せにするから。お前をもう腹一杯だって笑ってられるくらい満たしてやるから」
瞳に涙が浮かぶ。
ずっと、ずっと望んでいた。満たされることなんてないのだと諦めていた。
それをこの人は全部彼女に与えてくれると言うのだ。
一度は手放した、手放してしまった空白のままでいたココロを満たしてくれる人に、やっと、やっともう一度巡り逢えた。
「その為ならどんなもんが相手になっても全部全部ぶっ飛ばすから。もうお前に穴なんて空けさせないから」
ひばりの一歩前で膝をつき、彼女の左手に羽根を乗せるようにして自身の左手を添える。
その手にひんやりとした冷たい物が触れる。
0.2カラットの蒼い宝石が彩るは二人の初恋を契るシルバーリング。
蒼い輝きが二人のこれから歩む道を照らしてくれることを…
「だから…」
貴女を愛しています。
今の私を創る全ては貴女がくれた物だから、これからの私を創る全ても貴女から貰いたいのです。
他でもない貴女が教えてくれたこの感情を、貴女以外の誰に捧げればいいと言うのでしょう。
貴女が「苦しい」と言うのなら私は夜が更けるまで貴女に耳を傾けましょう。
貴女が「悲しい」と言うのなら私が泪を止めて見せましょう。
貴女が「楽しい」と言う時、隣で私も笑わせて欲しいのです。
貴女の「幸せ」を形作る中に私を入れて欲しいのです。
だから、この手を取れ。
「俺と結婚してくれ、ひばり」
貴方をずっと探してました。
箪笥の中に、引き出しの奥に、カーテンを開いた窓に、車窓から覗く人混みの中にずっと貴方の影を求めていました。
灰色だった私の世界が貴方に染められていることを嬉しく想っています。
私自身が貴方の色に染め上げられていくことを心の底から願っています。
私は貴方の隣にまだ、立っていてもいいですか?
貴方に相応しく生きていられるでしょうか。
不安になります。
それでも、私はやっぱり貴方が良い。
貴方以外に考えられない。
二人で奔ろう。
二人の世界を一緒に彩ろう。
明日をどう生きるかを夜が明けるまで語り合って、もう明日が来ちゃったねって笑い合おう。
いつまでもくだらないことで喧嘩して、次の日には喧嘩自体を忘れて並んで歯を磨いて顔を向け合ってトーストを齧ろう。
いつの日にか、貴方と共に居られて幸せだったってそう言って西陽の中で眠ろう。
泪が溢れる。
泪が流れて止まないのに、心が熱い。
この感情は止めないから、泪は貴方が止めて。
「はい…!」
左の薬指に受け容れた割れた宝石のシルバーリング。
頬を微かに赤らめ、少し照れたようにそれでも満開の笑顔を見せる彼女に敵うものなんて何がいるのだろう。
遅めに咲いた淡水色のスズラン。
劇場の中で夕陽に照らされたお陰か、直視出来ない程に美しかった。
ヴァージンロードを式に見合わぬ漆黒に身を包み、白手袋で雑な拍を刻みながら歩く人物は友人代表でもなければウェディングプランナーでもない。
駆け落ちには「ちょっと待った」の一つや二つあって欲しいものだもんなぁ。ただお嬢様連れて何事もなく逃げ出して二人はその後幸せに暮らしましたとさ、なんて退屈だ。
さぁ、精々踊り狂え。
「茶番は終いか?」
血を吸い過ぎた三日月が描く弧が血赤色。
零時を越え太陽も目が覚めてくる、熱狂に溺れ酔う観衆の酔いも醒めてくる。
片手を振り払い、ひばりを制止するとともに護る。
仮面の薄ら笑い
御尊顔のほくそ笑み
「あんたこそ、一人芝居はもう閉幕の時間だぜ」
風圧に窓ガラスが揺れ、空振にて粉々よ。
常人なら立つことさえままならぬ風の中、その瞬間をゴングにリングにスポットライトが二人の影を落とす。




