170.手本
高出力、高速度。という単純ながらにそれらのレベルが度を外れている恐るべき射撃に対して、ライネが氷結領域による防御を選んだ……というのは表現として少し間違っている。
黒天使はその行為を「選択」と言ったが、なんてことはない。彼女の魔力レーザーがそれ以外の行動を取らせなかった。ライネに他の選択肢を与えなかったという、それだけのことでしかなかった。
回避なんてとても間に合わない。掠っただけで全てが持っていかれる威力なのだ、それこそ転移に類する術でも持っていない限りは──あったとしても発動が間に合うかはまた別だが──そもそも回避を択に入れること自体が誤りである。
かと言って防御も難しい。少しの接触でも死が避けられない、そんな一撃を真正面から「受け止める」ことが如何に困難であるかは言わずもがなだ。生半な守りでは守っていないのと同じになる。少なくともライネは自身自慢の鎧であるはずの氷華鱗がレーザーを塞き止めてくれる、あるいは受け流してくれる想像がまったくできなかった。だから、それに頼るという択も端から持たなかった。
これはまったく正しい取捨であったろう。氷華鱗の最大展開と、魔力防御への集中。シスと一心化中だからこそ可能となるライネ最高の防御はそれだけに非常に優れており、イオが過剰魔力で強化した【離合】の拡充術でさえも一撃では貫けない、つまりは「大抵の攻撃」を完全に防げるだけの性能がある。が、黒天使の魔力レーザーはそんな彼の自慢もこれまでの常識も全てを足蹴に、易々と打ち崩す。
イオの攻撃の比ではない。これはそもそも「まともに受けよう」と思ってはいけない代物だ──。
黒天使が撃ち放つ前からそうわかっていたからには、そうするしかなかった。撃たれる前から意味のない選択を丸ごと捨てられていたからこそ行動が間に合った。速度などという言葉では本来表せないような短い時間の中で、奇跡的に追いつくことができた。
それは決断の産物。迷いを持たなかったが故の僥倖。もちろん、そうさせたのは黒天使でありレーザーであったが、けれどたったひとつ残された答えを掴み取ったのは紛れもなくライネの意志だ。だからこれを単なる奇跡や偶然と片付けるのもまた正しくない──ここで彼が生き延びたのは幸運だけがもたらしたものでなく、その手で手繰り寄せた必然でもあった。
ただし。
(驚いたな。氷結領域の形成にはまず氷霧で『唯術で満たす空間範囲』の指定を行なわなければならなかったはずだが……先のお喋りの最中にこっそりとやっていた? 俺の目を意図的に掻い潜って? それはない)
そんなことをライネができるようであればそもそも黒天使が指導に乗り出す必要もないのだ。なかんずく彼の成長の度合い、その伸び方が黒天使の目からも驚嘆の一言なだけに『絶対にない』とまでは言い切れないのだが、流石に氷霧という濃密な魔力で形成された魔術の産物が広がっていく様を丸々と見逃す、というのは仮定するにしても不自然が強過ぎて考察に値しない。
(同じ理由でレーザーの着弾までの短時間で氷霧を広げたわけでもない。これは俺が気付かない不自然に加えて術の展開が早過ぎるというもうひとつの不自然まで生えてきているから余計に考慮の内に入らない。──ならば考えられるのは)
できるようになったのだ。氷霧という仕込みなしで、事前の準備なしで唯術の拡域が可能になった。魔力レーザーを耐えるために。死から逃れるために。今の一瞬よりも短い時間でそう進化した。それこそが「答え」。
(【氷喚】というライネの唯術で満たされた空間は必定としてそれ以外の理の存在を嫌う……他の効力を弱らせる効力が、拡域にはある。それによって俺のレーザーの力を削ぎつつ、自身は氷華鱗を強化して最大以上の防御を行なう。という思案を瞬時に巡らせた上で即座に成立させたわけだ。力業にして早業、そして何より技巧的。自由な発想とその実行、君の特長であるそれらを遺憾なく発揮させた素晴らしい対応だ──ただし完璧じゃあない。何がって、そもそもこの領域の出来がいまいちだ)
黒天使を閉じ込めているこの氷球内が本当の意味で【氷喚】という一個のルールのみで満たされているのなら──支配されているのなら、他の理の効力は弱まるどころではない。ひと時たりとも存在を許されることなく即座に消えてなくなって然るべきである。発動を許している、また発動後の維持を許している時点で唯術の拡域が完全ではない証明になる。その結果が、これなのだ。
「ぐ、く、くぅ……ッ、」
氷華鱗を纏う両腕……否、両の掌。氷結領域を広げる起点としたそこで、今なお自分を刺し貫こうとしているレーザーを必死に抑え込んでいるライネの姿。これこそが端的に全てを示している。
(影響がないわけじゃない。領域内にいる以上ルールは必ず適用される……レーザーの出力は確かに落ちているし、反対にライネ君の術は強化されている。それでも君は俺のたった一発を無力化できていない)
発射口の指先へ更に魔力を集わせれば。レーザーの出力をもっと高めれば、もはや打つ手の無いライネは今度こそまともにそれを食らって一巻の終わりとなるだろう。
無論、黒天使が見たいのはあくまで「この出力」のレーザーにライネがどう対処するかだ。彼の苦しむ様を眺めたいわけでも死に様を拝みたいわけでもないのだからそんなことをしようとは思わないが、もしもライネによって自分がそういう選択をさせられていたなら面白かったのに、とは思う。
(まあ、無茶だろうさ。少々方向性が異なるとはいえ『領域』というものへの造詣は俺もそれなりに深いつもりだ。ライネ君の会得した拡域という技術はよく出来ているが、よく出来ているだけに特典を得た今となってもまだ『完成の域』には達せられないだろう。その先へ行けるのはこんな付け焼刃での理解ではなく、君が君の力をもっと正しく使えるようになってから。つまり代行者としての経験を積まないことには叶わない。こればかりはいくらシスと力を合わせたところでショートカットなんてできやしない)
要するに「完全なる氷結領域」とはそれだけのレベルにある、ということ。黒天使の位階にも届く神業の技術だということだ。今のライネにはどれだけ背伸びをしようとも手の届かない高み。いずれはそこに至るであろう、そう黒天使に思わせるだけの片鱗を現時点で見せただけライネは期待された以上の奮闘をしているが……もうこれ以上を期待するのが酷な段階にまで来ているが、しかし黒天使はそれをよくよくわかった上で。
尚も見定める。
彼女の視線の先では、ようやくライネがレーザーを散らし切ったところだった。
「ふふ……お見事、お見事」
両手がズタズタになり荒く肩で息をしているライネに、黒天使は指先を引っ込めて健闘を讃えた。都合何度目になるかわからない称賛の言葉。それにライネは喜ぶでも嫌がるでもなく自己治癒によって傷を治しながら、二発目のレーザーを警戒して身構える。一発目の対処中にこそ撃ってはこなかったが、だからこそ追撃はあり得ると──黒天使の「見たいもの」がライネにも薄々と察せてもいるために──彼女の一挙一動も見逃すまいと集中力を切らさない。
その一所懸命な様子に、だが黒天使は応じようとせず、ごく自然体に笑いかける。
「安心するといい、同じ手立ては繰り返さない。これまでもそうだったろう? やるとしてもちょっとした捻りや遊びくらいは加えるとも。ただの連射なんていうつまらない試し方はしないとも。それに何より、ここは君が設けた君だけの領域。位階の異なる俺が単純な出力任せで破ったのでは芸がないし面白みもないからね」
実のところ出力任せ、つまり「力押し」こそが黒天使の得意とするやり方である……というよりも往々にして最も手っ取り早く冴えた手段だったりするのだが、そこはライネが知らないのをいいことに胸に秘めて黒天使は続けた。
「だからこれは手本だ」
「手本……?」
ここはライネの世界、いつでもどこからでも攻撃を仕掛けられる。氷結領域が維持される限りリソースが尽きることもなく延々と攻勢を続けられる、という己が絶対有利の状況で、なのにライネには迂闊な行動が取れなかった。
とにかく攻めること。攻め立てること。拡域の特性を最大限に活かした、規格外の魔力を獲得したイオですらも逃げと守りに徹しなければならなかったあの怒涛の連撃と物量で相手を追い詰めていく……通常ならば最適解であるはずのそれが、しかし「迂闊な行動」になる。黒天使とはそういう相手だ──それを嫌というくらいに理解しているライネは故に、黒天使の動向をじっと待つ。
氷結領域には時間制限がある。特典を手にした現在のライネであればタイムアップまでの時間もそれなりに伸びているかもしれないが、黒天使と戦う上ではそれも誤差だろう。であるなら彼が憂慮すべきは手にした時間の多寡ではなく、その間に目標を。真の意味で「黒天使を上回る」という無理難題を達成するための光明を見出せるか、その一点こそが重要だった。
仮にどれだけ時間があろうとも黒天使の手の上で踊るだけなら無意味。超えるのだ。超えていかねばならないのだ。
神の道具となることを選んだからには。
(ごめん、シス。君が眠っているからって勝手に決めて)
(謝ることではないでしょう? 私はあなたの意志を尊重します。あなたが私にそうしてくれているように)
一心化中、彼と彼女は完全に同一である。思考や意識は一個となり、そこにズレなど生じない。それでいて魔術的な処理能力が二人分掛け合わさるからこそ一心化は強く、ライネの奥の手であり得る。
なので、これはただの気のせい。まるでそのような会話があったという思い込み、あるいは普段の自分たちをシミュレートした妄想に過ぎない。だが、ライネは確かにシスの声を聞いた。シスは確かにライネの声を聞いた。聞けるはずもないこの今に刻んだ、通じ合わせるまでもなくひとつであるはずの意思を通じ合わせた、その意味を。彼と彼女は互いに解し、そして共に在ることの意義を知る。
「領域の手本を見せてあげよう──こちらの流儀で悪いがね」
「!」
満ちる。ライネの唯術のみが支配しているその空間に、別の力が──黒天使の魔力が満ちていく。『領域を被せてきた』。黒天使の言う通り自分が使うそれとは原理が異なるようだが、しかし仕組みとしてはよく似ている。つまりは黒天使なりの唯術拡域に相当する代物をぶつけてきたのだと、ライネは己の世界の揺らぎからそう読み取る。
あり得ないこと、ではない。氷結領域内は他の術の介在を拒む局所でありながらも、その支配が絶対の域に達していないことはライネ自身がよくわかっている。それに、この芸当は過去に自分が行なったものでもあるからして。
「そうだね、君はまさしくこの手法でユイゼン・ロスフェウの銀世界を打ち破った。あれは成果としては完璧じゃあなかったけれど、やっていることは同じだ」
「同じと言えますかね。同時展開で鍔迫り合うならともかく後出しでの対抗はとても難しい、というのが僕の所感なんですが」
「その通り、だからあの時はユイゼンだけでなく君も領域を破綻させて終わった。一瞬の出力差で勝負は君の勝ちだったけどね。しかしその事実があっても尚相手の支配空間に自身の魔力を浸透させるのは難度の高い、超のつく高等技術ということだ。君の認識は間違っていない」
ならばライネの世界に充満し横溢しているこの力は、黒天使の力量の証明に他ならない。彼女だから事も無げに可能としているが、そうでなければまずもって再現不可能。
そもそも唯術拡域それ自体が、魔術師として半世紀以上を生き鍛錬し続けてきているユイゼンが「魔術の秘奥」と断じるほどの高等技術。行える者も今のところユイゼン本人と彼女に師事したライネだけしか確認されていない希少どころではない術なのだ──領域同士で鎬を削る、などという領域にはまだ入れていない、それは当然のことでしかなく。
そして今から自分が入らなくてはいけない領域の話でもある。
そう理解しているから、ライネの心に焦りはない。焦ったところで仕方ないからだ。
「どちらの世界がより優れているか。そういう勝負をしよう、ということですね」
「ああ。それが指導の終わりにもなるだろう。領域が消えれば君はしばらく唯術どころか魔力も使えなくなる。そこがゴールだ」
「了解です。わかりやすくて非常にいい」
もはや当初のように氷球内はライネ優位の世界ではなくなっている。そこには自分の力と同じだけ黒天使の力も存在している、まったくの互角の状態。それだって彼女があえてそう演出したのだろうと思うとつくづく無謀な試みであるが、けれどライネに諦観はなかった。
「さあ、最後は根競べだ。時間いっぱい持たせられるかな?」
「いいえ、黒天使。あえて言わせてもらいますが……決着までそう時間はかかりませんよ」
白い氷雪の如き魔力と、黒い汚泥の如き魔力が爆ぜた。




