169.どうせ
他者の治癒。自身の魔力で自身以外を癒すその技術において肝要となるのが「魔力の波長を相手に合わせる」こと。自分が持つ自分だけの揺らぎを、一時だけ別のリズムへと変える。ただ変更するだけでなく意図的に、特定の個人に近づけることを意識して行うのだ。それができるか否かが治癒者とそれ以外を分ける最も明確な線引きだった。
一流の治癒者はおよそ誰を治すにも波長合わせに苦労しない。その能力は本人の努力によって培われたものであることも確かだが、しかしそれ以上に、生来のセンス。他人の波長を鋭敏に察知できる感覚と自身の波長を操る感覚、その有無こそが重要になる。両方に恵まれていて初めて治癒者への道が拓かれ、しかもこれらは「鍛える」ための方法が未だ確立されていない、文字通りの天賦が物を言う世界。
できる者は誰に何を習わずともできるし、治癒の経験を積むことでもっとできるようにもなるが、できない者ができるようになる例は極めて少ない。魔術師界隈の常識としては後天的に治癒者への才に目覚める者はまず存在しないものとして扱われる。それくらいには珍しいということで──つまりここでの黒天使のヒントもまた出し損に終わる可能性が大いにあった。というより、そうなるのが道理ですらあった。
けれども。
「──ふむ。またしても、お見事」
素直な賞賛と、感嘆。今度ばかりはなんの含みもなければ意地の悪い悦びも感じさせない、ただ心の底から気持ちが吐息となって口から漏れ出た。そういった具合の黒天使の言葉に、未だ続く共振攻撃の最中でライネが応える。
「おかげさまで、とでも言っておきましょうか」
僅かに顔色こそ悪いが、彼は既に平静そのもの。震える脳と体にあれほど悶絶していたのが嘘のようにライネの表情には穏やかな笑みがあった。それは悠然とこちらを見据える黒天使に負けじと浮かべた、彼と彼女の意気の表れ。
「増幅されて襲い来る波長に、自身の波長を合わせることで無効化する。他者への治癒術と同じ要領で脱せる窮地だとあなたは教えてくれたんですよね……僕が自分しか治癒できないことを知りながら」
「勿論だ。君は次々にできなかったことができるようになっていっている。自分で言うのもなんだが、俺の指導は良い方向へ作用しているようだ。これでも人の成長に何度か携わってきた身だ、最低限その個人に合った教育の仕方というものは意識しているつもりだし、君に対しても同じようにしているが……だからとて全てが俺の手柄だとは言えないな。ライネ君、君は非常に優秀な生徒だよ」
「…………」
ライネは何も言わなかった。黒天使の言は正しく、まさに自身の急成長はこの教育あってこそのものだと自覚しているからだ。
身に着けた新術も新技術も、特典を得たからには、そして今後も世界を守るための戦いに身を投じていくからには。それも生き続ける限り終わりのない長い戦いへ挑むからには、黒天使からの薫陶がなくともいつかはその日々の中で手にしていたことだろう。だが、今この場で、まだ特典によって己の何が変わったのかもまるで理解しきれていない現状で、こうも新たな自分に「馴染めている」のは間違いなく彼女の指導の賜物。彼女が自分に与える負荷が絶妙なものであることの証左だった。
殻を破るのに最適な追い込み方。真実黒天使が見込んだ通りに教育が進んでいるのか、という点については彼女が見せる明け透けな悪戯心からも多少の疑問が残るものの、なんにせよ結果となっているからにはそれだって功を奏しているわけで。つまりは結局のところ、全て黒天使の計算通りに事が成っているわけで──。
「もっと感謝すべきなんでしょうね。まさかこのひと時で他者治癒の技術まで身につけられるとは思いも寄りませんでした。他人の癒し方は魔人軍が攻め入ってくる前にできれば知っておきたかったですが、誰に教わってもちっとも感覚が掴めなかったもので……自分には決定的にその才能がない。『何か』が必要なしと判じてオミットしたものと考えていましたよ」
「そこに容量が割かれていないのは確かだが、まったくのゼロというわけでもない。君がそれだけ他者の治癒に手こずったのは人の感覚を参考にしようとし過ぎたのがひとつの原因だろう。波長の受信と発信、その変動のやり方は人それぞれ。君には君に向いた正しい方法があって、それを見つけないことには治癒の取っ掛かりも掴めない。まあ……それに加えて『土壇場でこそ強い』。追い詰められて初めて本領を発揮するという君の性質に、平時における他者治癒の習得が噛み合っていなかったというのも大きな理由だったろうがね」
目の前で大切な誰かが死にかけていて、それをどうにかできるのが自分しかいない。という状況にでも陥っていたら案外とあっさりに他人の治し方を覚えられたことだろう、と黒天使は言った。
それに対してもライネに反論は浮かばなかった。むしろ納得しかなかった。
死の淵に追いやられてからの粘り。そこからの飛躍。それが強敵との戦闘に際しての自分の最もの強みであることは、否定のしようもない。その事実は敵からも指摘されてきたものであるし、シスを始めとする味方からも認知されている、そして自分自身も同意している「己が特性」である。
なるほどその観点からすると、如何にもライネという魔術師は治癒を他人に行えるはずもなかった。そんな機会に恵まれてこなかったのだから道理と言えば道理だ。
ライネには救えなかった命がある。助けられずに死なせてしまった仲間がいる……ただしそこには自分と仲間だけでなく敵もいて、悠長に治癒術による回復や蘇生を試みている暇はなく、とにかく敵を倒して安全を確保すること。そのための一時しのぎとして止血を施すくらいのことしか、彼にできることはなかった。
氷術がなまじっか応急処置まで可能にする利便性の高さを有しているだけに、あの時のライネの頭には「今ここで治癒を行なえるようになればいい」などという発想は一切思い浮かばなかった。特段にまだ魔術師としての経歴や意識に浅かった頃のことでもあり、まず思い浮かばないことが当たり前なのだが──しかしライネは「特別製」だ。だから考えてしまう。まさに今、他者治癒のコツを実にあっさりと掴んでしまったからには考えずにいられない。
あの時、もしも真に彼らを救うことだけを願えていたなら。治癒術の習得を心から望めていたなら結果は変わっていたのかと。ザッツもギルダンも、死なずに済んだのではないかと。
(──いや。こんなのは意味のない『たられば』だ。今更思い悩むことじゃない。どうせあの時の僕にそんな選択はできなかったんだから)
モニカだけに敵の対処を任せて自分は治癒に掛かりきる、なんて行動が悪手でしかなかったのも確かだ。四人全員の生存を目指すのならあの時の選択に間違いはなかった。致命傷を負った二人の確実な救助は、土台無理な高望みでしかなかった……そういう状況に追い込まれていたのだから、後からああしていればこうしていればなどと後悔する余地などなく、またその資格すらもない。
「そうだ、その通り。あの日の君に瑕疵があるとすればそれは治癒術が使えなかったことではなく、弱かったこと。仲間が傷付くのを許してしまったことにある。君がそれを防げるくらいに強くあれば、後悔だって生まれなかった」
「だから……こうしてあなたは僕を鍛えてくれているんですね。後悔は正式な代行者となる僕のこれからには、とても相応しくないものだから」
「必要に迫られるとそれだけ伸びるのが君という個体だ。それはそれは素晴らしい才能だけれど、君も重々に承知しているであろう通り、世の中そう簡単ではないからね。必要に迫られてからじゃもう遅い、ということも多々ある。後の祭りに手をこまねくのは言う通り代行者に相応しくない……というかあってはならないことなんだ、基本的にね。取り返しがつくならともかく今後君が負う使命は一度の失敗が世界の崩壊への引き金にもなりかねないんだから」
「…………」
「いやいや、プレッシャーをかけているわけではないんだよ。そうとしか聞こえないかもしれないがこれは誓って真実さ。大体、あたかも君がこれまでにない責任を背負うかのような口振りになったけれど、そんなものは所詮『ライネ』として生きてきたこの半年ほどの延長線上だ。イオとのゲームだって君が失敗すればその時点で世界は形を変えて一種の終わりを迎えていたのだから……そう、それを許さなかったのだから資格は充分さ。後悔する資格じゃあなく、後悔なく生き続ける資格のことだが」
「──あなたがそう生きているように?」
「ふふ。生憎と俺は代行者から自ら外れた異端者だ。良きにせよ悪しきにせよ悔いることはままあるしそれをしないことを良しとも思っていない。こんな言い方をすると君にどの口で講釈を垂れているのかと教育の是非にまで考えが及んでしまいそうなので──端的に言ってせっかくの楽しい気持ちが醒めてしまいそうなので、お喋りはここまでにさせてもらう」
黒天使がそう言い終わると同時、前触れもなく自身を取り囲んでいた彼女の分身──と呼んでいいモノであるのか最後までライネには判断がつかなかった──が三体共に消え去った。共振攻撃が通じなくなったから撤退させた、という理屈はわかるが、そうだとしても本人と瓜二つの分身たちである。見た目だけだとライネにはその区別が付かないという点も含めて他の利用法などいくらでもありそうなものだが……と胡乱に見つめる彼からの視線に、黒天使は飄々と手を広げてみせた。
「なぁに、再利用を強いられるほど手札に困ってはいないさ。それに分身は俺本来の技じゃない。まだブラッシュアップしきれていない物真似だからね、あまり自慢げに見せつけるのも少しばかり居心地が悪い。教える立場にいるからにはやはり授けるものやその手段には多少なりとも拘りたい──ということで、お次はこいつだ」
指先だった。黒天使がライネを指して伸ばした人差し指、その先端に、世界がぎゅっと縮まった。
「!!」
そう錯覚する程の、力。ともすれば錯覚ではなく本当に一瞬だけ、世界がその力の強大さに怯え竦み縮こまったのではないか。そうだとしてもなんら不思議ではないと思える、莫大に過ぎる「純然たる力」が彼女の指先に集っている。
「撃つよ。どうにかしてごらん」
集った「それ」が発射される。今から自分目掛けて、一直線に。そう予期して──そう事前に教えられて何もせず食らうはずもない。ただ突っ立ったまま的になどなってやるはずがない。ないのだが、しかし。
「そら」
間を置かず発された気の抜けた声。それこそが射撃の号砲だとライネが耳で聞き頭で解するよりも速く。あまりにも早く、着弾の瞬間が訪れていた。撃ったという事実がそのまま命中を意味しているが如く。いや、撃つ前からその事実が決められていたとでも言わんばかりに黒天使が放った力。高濃度の魔力が高密度に圧縮され、それが極一点へ。指向性を持たせて解放されたことで射出されたもの──言うなれば魔力の『レーザービーム』は、予告と知覚による認識の壁を飛び越えて。撃ち貫いてライネへと到達していた。
「ッッぐっ……ぅ!?」
──死ぬ。
着弾の直前、間と呼べるだけの時間すらもない刹那、ライネの脳内にはイメージが出来上がっていた。死だ。明確な死の実感。前の世界で一度だけ味わった、この世界で何度も覚悟してきた終焉が、記憶以上に克明にライネの脳裏と肉体を走り焼く。そしてこのイメージは現実になる──。
(そうは、させるかっ……!)
レーザーの到達とライネの行動はどちらが先だったのか。黒天使の射撃が速度という概念すら通じないような逸脱したものだった以上は、それに「遅れて反応」したライネの方が後を取らされた。とするのが一般的な物の考え方だろうが。しかし、だとすれば彼自身がそう実感したように、ライネはとうに撃ち抜かれて死んでいなければおかしいはずで。
「なんと、まあ。これを受け止めるか。そういう選択をするか、ライネ君」
ライネを起点に広がる、これもまた「力」だ。甚大無比な威力を有することが明白な魔力のレーザーに対抗するために彼は、己が持つ最大最高の力でそれを防ぐと決断した。その力の正体とは即ち。
「唯術拡域──氷結領域!」
美しく青く輝く氷球の内部で、威嚇のように雄々しく、鼓舞のように猛々しく。ライネは魔術の秘奥たるその術の名を叫んだ。




