117.発展
魔力防御によって体内だけでなく体表に張り付く霜も最低限以下に抑えているエミウアは、当然に普段通りの動きができている。氷霧がもたらすはずの弱体化はまるで受けていない、が、氷霧の利点とはそればかりではなく。
(うーむ、見えにくい。それに蝶まで霧の中に紛れ込んでいてやりづらいったら)
相手のテリトリーの深部にまで恐れず突き進んだエミウアであったが、そこは一段と霧の濃い場所。音を立てずに移動したシスを彼女は見失ってしまっていた。見えこそせずともこの濃霧の範囲からして近場に潜んでいることは間違いないはずなのだが、これ見よがしに影を残す蝶の邪魔もあってエミウアはすぐにシスを見付け出せずにいた。
(いや、ただ見えにくいってだけじゃあないぞ。この霧そのものがライネの魔力で出来ているから魔力での探知も極端にやりにくくなっている。それでいて向こうはどうも自分がどう動いたか……あるいはどう動こうとしているかまで「はっきりと見えている」な、これ。しんど)
こうも巧みな隠れ方をされれば霧自体が探知術になっていることが察せられる。断然に向こう有利なかくれんぼ。せめて利かなくなっているのが視界か魔力探知のどちらか一方であればまだやりようもあったのだが、このふたつが一方的に潰されている状況ではさしもの特A級テイカーも明確な不利を認めざるを得なかった。
霧の最深部においてはまともにやり合うだけ損だ。そう判断して撤退の態勢に入ったエミウア。その瞬間、まさに彼女が退避を意識するタイミングを見計らっていたシスの術が襲う。
「氷瀑」
「ッ!」
それは言うなれば氷の散弾。それも氷霧という強化も兼ねている術の助けによって弾のひとつひとつが大きく硬くなっており、それをまったくの死角から浴びてしまったエミウアが受けた衝撃は凄まじく──。
「でも、傷付きはしない。それでいい」
体勢を大きく崩しながらも、しかし倒れず踏み止まったエミウアの肉体にやはり傷はなく、目に見えたダメージは負っていない。【質量】が彼女に与える頑強さはもはや反則と言っていいほどだが……けれどそれを確かめたシスに焦りや悔しさといったマイナスの感情は窺えない。
せっかく隙をついて叩き込んだ強烈な攻撃が、それでも通用しなかった。そんな絶望を味わってもおかしくないシチュエーションで、なのに彼女は「予想通り」であると。なんの強がりでもなくただそう感じただけだった。
「氷蝶──散羽」
予想通り、だからこそ機能する第二打。エミウアの周辺に集まっていた氷蝶たちが、彼女が体勢を立て直す前にこぞって散る。先も受けた、自らの身を砕いて出来た破片を撒き散らすその散り方は二度目ということもあってシスの練度が向上したのか、先以上に強烈だった。
「くっ、そ」
再度エミウアがグラつく。ここまでやられても倒れはしないが、しかし地に手をついた。そうしなければ体を支えることができなかった──それはいい。エミウアは手をつかされたこと自体に悪態をついたわけではない。
問題なのは、この死に体に対して確実に「一手」が。それも二連続の布石から繋がる「本命の一手」が来ることだった。
「遠点凍結・最大出──」
力、と言い切る前に。氷瀑と氷蝶、それらの全てに隠し潜ませていた氷霧内でこそ可能となる目に見えない「空中氷路」。無数に結んだそれらを活用しての──その頑丈さ故にエミウアが死んだりしないと信頼した上で──全身の完全凍結を行なう、その寸前に全てが無為となった。
「【念力】拡充──『暴』」
コメリの【念力】は空間に線を描く感覚で使用される。直線であったり円であったり角であったり。それらの組み合わせによって任意の場所・対象に己が生み出した力場を働きかけさせる。その都合上、【念力】の作用はコメリの視認が何よりも重要となる。目隠しをされた状態ではどうしても上手く線が引けないからだ。
仮にその状態であっても術を使用すること自体はできるのだが、精度がガタ落ちすることは言わずもがなパワーも低下する。その出力の下がり具合は誤差と言うには大きすぎるもので、つまり「視界不良」は明確にコメリというテイカーの鬼門にして弱点に他ならなかった。
それを埋め合わせるために開発されたのが拡充術『暴』だ。これは見えない範囲にこそ最大限のパワーを叩き込むという本来の【念力】にはできなかった芸当を可能にするための技。その代償として大幅な消費魔力の増加に加えて精度の面については「落ちる」どころか「暴れ回る」という、敵味方の区別がつかないのはもちろんのことまったく術者の任意に動いてくれないアンコントローラブルの制約までついているが……しかしそれだけの問題点に目を瞑ってでもこの技の切り時は確かにあって。
今こそがまさにその時。ざっくばらんに霧の向こう側、最も白く深い場所へコメリが『暴』を放ったのは「なんとなくそうした方がいい気がする」という単なる勘によるものだったが、それはこの上なくドンピシャな救助となった。
(っ、掻き乱される……!)
氷霧も、氷路も、そして救助対象であるはずのエミウアさえも。その場にある全てが撹拌の如くに【念力】の力場によって一緒くたに掻き回され、まさしく暴の名を体現するように吹き飛ばされた。
影響から逃れられたのは一足先に脅威を察し離脱行動に移っていたシスだけ。そのシスにしたって自らの意思で退いたとはいえ「強制的にその場を動かされた」という事実に変わりはなく、そういう意味で言えばコメリはたった一手で盤面を一掃することに成功した。そう評して間違いないだろう。
氷霧の中心部、最も色濃く白が支配する場所に風穴がぽっかりと開く。
力場の大暴れが収まったそこで、その端と端の立ち位置でシスとエミウアが視線を交錯させる。【質量】で肉体を極限まで重くしているエミウアは『暴』という暴走状態の【念力】が直撃しても大して移動しておらず、また例の如くに傷も見受けられない。対してシスの仕込みは何もかもが綺麗さっぱりに失われた。氷路は結び直しな上、それ以前に空白地帯と化したこの空間に再び氷霧を展開しなければならなくなった。
(進化した氷霧であればこうはなりませんでしたが……言っても詮の無いことですね、これは)
ライオットの【離合】でも通常の手段では発散させられなかったあの時の氷霧は、ライネとシスがそれぞれに役割を分担し、術の行使の負担まで分割。その上でキャパシティは二倍にするという無法の下に成り立っていたスペシャルな術だ。今ライネは裏で精神を休めており、戦っているのは正真正銘にシスのみ。彼女一人分の実力でしかなく、一人分の実力しか出ない。
一人では、どうあっても「あの時の再現」は不可能。
(ですからここは『保険』が活きたと喜ぶべきところなんでしょう)
念じる。エミウアやコメリの捕捉から逃れながらシスが氷霧の中で打っていた保険とは、空中氷路で繋ぐ遠点凍結と近しくも異なる術。術者の解放を以てそれが、エミウアの真後ろで発生した。
「なっ──!」
「氷蛇……いえ、氷龍ですかね」
遅延かつ遠隔での発動。氷霧内だからこそ可能となるその技術で、本来なら氷礫や氷鳥からも明らかな通り術者の付近でしか生成できないはずの氷の造形物を敵の至近にて生み出す。そして速攻を仕掛けるという、単純ながらにとても効果的な技だ。
そのことを証明するように、油断なく身構えていたはずのエミウアも発生に対しての反応こそできても回避は叶わず、空飛ぶ巨大な蛇のような氷生物──龍の突進をその背へ受けた。鳥や蝶とは比較にもならない、氷霧内での生成ですら一頭が限界容量である龍の質量は莫大の一言。そんなものに急襲され背中を押されたからにはさしものエミウアとて今までのように堪えることができず。
「氷筍」
そこをすかさず狙い撃つ。再びコメリに場を(文字通り)掻き回される前にと素早く行われた追撃は、見事にエミウアを真正面から捉えた。
氷龍と、氷霧で強化されてもはや柱というより壁と言うべき氷筍の発生に挟まれたエミウアはその狭間で氷同士の激突の波に呑まれ、埋もれ、見えなくなる。そこに生じた衝撃は途轍もないものであることは疑いようもない──が、並の術者なら確実にノックアウトを奪えるだろう凶悪な攻撃をしておきながらもシスが欲したのは、威力そのものではなくて。
「接触凍結」
エミウアの埋もれた氷の残骸の山。その上から更に凍結を施す。これは己が生成物である氷を凍らせる、というよりも蓋を被せる感覚に近い。そんなことをする狙いは明白だろう。
シスが行おうとしているのは「封印」だ。大技と大技でのサンドイッチ。そこまでやってもエミウアが倒れてくれるなどとは──何度もその頑丈さを嫌というくらい見せつけられたために──露ほども思っていない彼女は、氷霧の展開から一貫して「どう倒すか」ではなく「どう封じるか」。ノックアウトではない形でのリタイアをさせることだけ考えていた。
幸いにして【氷喚】はそれに適した唯術である。氷漬けにしての行動不能状態。それに陥らせることさえできれば勝利が手に入る。必ずしも敵を倒す必要がない、というのは氷系の術者の大きなアドバンテージだと言える。……ただし勿論、そちらも容易な案ではない。
エミウアの恐ろしいところはただ重くて頑丈なだけでなく、その重さを攻撃力に転化してもいる点だ。生半な封じ方ではそれが完成する前に単純な膂力によって突破されてしまうだろう。その上で、いざとなればコメリからの援助も入るのだから、第二の道として封印を設定したとしても目標を達成するのは相当に困難であることは言うまでもなく。
故にシスは短期決戦を目論んだ。迷いのない氷霧の発動も、そこから仕掛けた怒涛の仕込みも、全ては相手方がこの状況に慣れてしまう前に。余裕を持ってしまう前に押し切ってエミウアを氷の中へ閉じ込めてしまうこと。それこそがシスの唯一と言っていい勝利の道筋にして条件であった。
「おっと。二連遅延発動とは洒落てますねー」
と、自身の真横で牙を剥く龍の顔を眺めながらハンズアップの体勢でコメリが言う。これだけの術を遠隔で、二連続で起動させる。しかもその途中で別の術も挟みながら。──唯術の練度が自分を大きく超えている。そのことに純粋な感嘆を抱きながら彼女は続けた。
「おっかないので引っ込めてくれませんか? 私はあくまでサポートですから、サポート対象がいないのでは何もできませんよ……そうですよね、ユイゼンS級」
「そうさね。もはや組手としての決着はついたと見ていいだろう」
勝者はライネである。という宣言が霧の向こうから下されたことでシスは緊張を解き、氷霧を霧散させる。それに伴って氷霧下でしか存在できない氷龍も共に消え去ったが、しかしエミウアが埋もれたままの氷の山は別だ。【氷喚】は一度作り出したものをあとから消滅させたりはできない……が、接触凍結と同じ要領で触れさえすれば融解を促進させることができる。
組手が終わったのだから早く封を解いた方がいいだろう。と、そう思ったシスが行動に移すよりも先にユイゼンが氷山の前に立った。彼女にはどうやら深い霧の中で行われた攻防の全てが見えていたようで。
「出ておいで、エミウア。そして感想を聞かせな」
その言葉に反応するように、ピシリと氷山に小さな亀裂が入り。それがあっという間に全体へ広がったかと思えば、まるで服を脱ぐような気軽さでその内部からエミウアが姿を現した。
わかっていはいたことだが、やはり彼女のどこにも目に見える傷はなく。氷漬けにされたこと自体にも大してこたえていない様子である。それにシスが呆れる中、師弟関係である二人は問答を始めた。
「どうだった、あんたの所感としては」
「……ま、ユイゼンさんが推すだけのことは確かにあるって感じですかね。自分も組手としては本気でやってたつもりですし、コメリの手助けもあった。なのに手も足も出なかった……となればもう、敗北判定にも何も言えないっす」
「そうかい。コメリ、あんたは?」
「姉弟子に同じです。特A級とやり合いながら私への対処も常に用意してるんですから、その時点で特A級と並ぶのは確定じゃないですか?」
ですので、と彼女は総括するようにユイゼンへ言った。
「ライネくんをS級へ押し上げるか否かは最終戦。その相手をするユイゼンS級次第、ということです」