アレクサンドラVS料理12【完】
アレクサンドラは手に持っていたペンを、書き物用の折りたたみ机の上に置いた。
「もう、先に自分で勉強をはじめてたのか?」
「ああ、これは違うの。ほら、見て。ルシェルカンド語でしょう?」
文字をしたためていたノートを掲げて見せると、オシュクルが興味深げに覗き込んだ。
(オシュクルって、ルシェルカンド語を流暢に話すだけではなく、読み書きもすらすらできるのね……素敵)
夫の多言語能力の高さに、改めてぽうっと頬を赤く染めるアレクサンドラに気がつくことなく、オシュクルは関心したように頷いた。
「これは、日記か? よくまとまってるな。それに綺麗な字だ」
「ありがとう。……日記と言っても、始めたのは今日からなのだけどね。あと、ついでに聞いたレシピもまとめてみたの」
今回自身がつわりになったことで、アレクサンドラは思いがけず、民族性の違いを突きつけられることとなった。
国内外だけじゃなく、地方による食の価値観の違いや、味に対する認識の違いはアレクサンドラの目にはひどく興味深く映ったので、改めて文字にしてまとめたくなったのだ。
「これからは、村や町に滞在する度に、こうやって気づいたことをまとめていこうかと思って。あと、せっかくだから、その地域ごとにレシピを聞いてみて、旅の最中に再現もしたいと思っているの。ルシェルカンドの料理は合わなくても、地域の料理ならば、私と皆で折り合いをつけられる部分もあると、今回のことで分かったから」
ルシェルカンドの味覚を皆に押し付けることはできないと分かったが、それでもやっぱり、旅の道中の料理はあまりに代わり映えがなさ過ぎると思うのだ。
たまにでいいから、今回の子ロスのように、郷土料理を再現したりして、旅の最中に相応しい料理レシピを模索していきたい。
食の好みは根深くて、簡単に折り合いはつけられないかもしれないが、だからこそ色々試してみたいのだ。
そして、それを皆にも楽しんでもらいたいと思っている。
「ふふふ。言うならば、『モルドラの郷土料理再現プロジェクト』と言ったところかしら。滞在先で、できるだけ簡単で、かつ食材の保存も効くような家庭料理レシピを聞いて、再現するの。手の掛かったごちそうとして出るようじゃないものをね」
「………」
「そうしたら自然とその地方の食材を買うことになるから、滞在先の人達だって悪いことはないでしょ? 滞在先にもお金を落とせて、私達の普段の食生活にも変化をつけられる一石二鳥のプロジェ……」
次の瞬間、アレクサンドラの唇に柔らかいものが触れた。
一瞬なにが起こったのか分からず、ぱちぱち瞬きをしていたアレクサンドラだったが、すぐにオシュクルからキスをされたのだと理解し頬を真っ赤に染めた。
「な、なにするのよ! いきなり」
「……いやだったか?」
「いやなわけないじゃない! ……で、でもこんな不意打ちずるいわ」
こんなの……どきどきし過ぎて、心臓に悪い。
心臓に手をあてながら、大きく深呼吸をするアレクサンドラに目を細めながら、オシュクルがそっとアレクサンドラの髪を撫でた。
「ーーどうしようもなくお前が、愛おしいと思ったら体が勝手に動いたんだ」
「……っ」
「相変わらずお前は一生懸命で前向きで……そして、旅の仲間のことをよく考えてくれてる。私なぞ既に今の料理に慣れきってしまって、深く考えたことがなかったが、よくよく考えれば確かにレパートリーが少ないな。これからは私も、皆が喜んでくれて、つわりのお前にも合う料理を探してみよう」
「オシュクル……」
撫でていた髪をひとふさ手にとって、オシュクルは今度はそこに優しくキスを落とした。
「お前はいつも色んなことを私に教えてくれるな。……父になるということまでも。私は何度、お前に出会えたことを感謝すれば良いのだろう」
(ーーああ、もう、この人は!)
アレクサンドラは耳まで赤くしながら、きっとオシュクルを睨みつけた。
「オシュクル……今日はやっぱり勉強はお休みよ」
「? ああ、構わないが、どうした」
「オシュクルに、指導料をもらう必要が出てきたのだもの」
そう言って、アレクサンドラは両手を広げて上目遣いにオシュクルを見つめた。
「指導料として……眠りにつくまで、私を抱き締めて、甘やかしてちょうだい」
ーー食文化を中心に、異国人視点からモルドラ国内の文化をまとめた「アレクサンドラの日誌」は、後にセルネの没後宰相となったエルセトによって翻訳及び編集、出版され、国内外で読まれることになった。
その本は、モルドラ国民にとっては自国文化を再認識させ、外国人にとっては「野蛮な未開の地」と蔑んでいたモルドラを見直させた貴重な資料として、後世まで引き継がれた。アレクサンドラの名前は、モルドラの歴史に、自分が想像している以上にしっかりと刻み込まれることになるのだが。
当の作者は、もちろんそんな未来が待ち受けていることなど予想もせずに、ただ愛しい夫との一時に、幸福そうに目を細めていたのだった。




