12 海で心を揺らす
次に向かったのは海に面した地域だった。
潮の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
遠くから、規則正しく寄せては返す波の音が聞こえてくる。
ざあ、ざあ、と絶え間なく続くその音に、ダリルへのモヤモヤが少しだけ薄れていく。
馬車の窓から、真っ青に澄んだ海が見えた。
「わぁ……綺麗!」
思わず身を乗り出したオフェリー。
「本当ですね……! すごく綺麗です」
カーラーも穏やかに目を細めた。
「エミとニコルも連れてくれば良かったわ。きっと、海を見たら 喜ぶだろうな」
「またいくらでも機会があるさ。次回はエミとニコルも連れてこよう」
ダリルがオフェリーに、柔らかく微笑んだ。
オフェリーはそれには答えず、わずかに視線を逸らせた。
ダリルは、一瞬だけ何か言いかけてやめる。
トリスタンは気まずい 二人の様子には気づいていない。
ただ、オフェリーが海を見て喜んでいることが嬉しかった。
「……もしかして、オフェリーは海が初めてか?」
「はい。ずっと見てみたいと思っていました」
その答えを聞いた瞬間、
トリスタンの整いすぎた顔がわずかに緩んだ。
「そうか。なら、今日はしっかり楽しもう。海はいい場所だ。魚も貝も美味いし、潮風に当たっているだけでも気分が晴れる。……初めて見るなら、なおさらだ」
「お父様……今の私は視察に来ているんですよ?」
少し困ったようにそう返すオフェリーに、トリスタンはますます嬉しそうな顔になる。
「分かっているさ。だが、視察だからこそだ。自分の領地の空気を知るのも、領主の務めだろう。ところで、オフェリー。なにか欲しい物はあるか?なんでも買ってやる……」
ダリルはそれを見て、はあっとわざとらしくため息をついた。
「父上、親馬鹿になってますよ。『この世の全てを買ってやろう』なんて言い出しそうな顔付きです」
「は?それは、どんな顔だ?」
「お父様って呼ばれたのが嬉しいのでしょう? バレバレです」
「……なにを言っている? 勘違いするな!」
トリスタンは咳払いをひとつして顔を背けたが、耳のあたりがわずかに赤い。その様子に、カーラーがくすりと微笑み、オフェリーはきょとんとしたあと、少しだけ頬を緩めた。
「あの時、咄嗟にお父様と呼びたくなったんです。いきなり呼んでごめんなさい……お父様」
何度もお父様と呼ばれて、流石のトリスタンも、思わず満面の笑みになる。
「いや、あんなに嬉しいと思ったことは、ダリルが生まれた時以来かな……」
「えっ! そんなに?……」
オフェリーは思わず目を丸くした。
浜辺に降り立つと、海の家がずらりと並んでいる。
こうして見ると、飲食店や土産物屋の数はかなり多い。
どの店も綺麗で賑わっているが、その中でもひときわ大きな店で、威勢の良い声を張り上げて串焼きを売る男が目についた。
真っ黒に日焼けした肌。頬には深い傷跡。頭にハチマキを巻き、得意気に串焼きの説明をしている。
「朝獲れの貝だぞ、炭火で仕上げてる。熱いうちに食ってけ、損はさせねえ!」
オフェリーとパチリと目が合う。
「そこの綺麗なお嬢ちゃん。金はいらねぇ、ひとつ食っていきな!」
今日のオフェリーは、貴族の令嬢らしい装いではなかった。海辺に向かうため、涼しく動きやすいワンピース姿だ。
ダリルが代わりに受け取って金を払おうとすると、男は首を横に振り豪快に笑った。
「この子の兄さんか? 金はいらねぇよ。しかし、あんまり似てねぇな。あんたにもどうぞ。美男美女の兄妹がここで旨そうに食ってくれりゃ、人が寄ってくるってもんだ」
「おい! 私の娘と息子を客寄せに使うつもりか!」
ゾクリとするほどの殺気を漂わせ、トリスタンが声を上げる。
だが男は一瞬身震いしたものの、すぐにガハハと笑った。
「おっかない保護者付きか……しかし、とんでもねぇ殺気だな。こりゃ敵わねぇ。ただ者じゃなさそうだ。あんた、誰だい?」
トリスタンが口を開く前に、客の中から声が飛んできた。
「サリム管理官! また店先にでてるんですね!」
(えっ、この人がこの地区の管理官なの?)
オフェリーは目を見開いたまま固まった。トリスタンも驚いたような顔をする。
串焼きを受け取ったダリルだけは冷静で、店の者から皿とフォークを受け取ると、ホタテを串から外しフォークに刺した。
「男の俺なら串から平気で食べられるけど、オフェリーは口が小さい。串が喉に刺さる危険もあるからな。ほら、食べろよ」
そう言いながら、オフェリーの口元にそっとフォークを近づけた。
その男が管理官だという事実と、目の前に差し出されたホタテ。
どちらに反応すればいいのか、一瞬迷った。
「……え、あの……」
戸惑いながらも視線だけが行き来して、結局、差し出されたフォークに意識が引き寄せられた。
「ほら、早く口を開けろよ。こっちが照れるだろ!」
一瞬だけためらったが、ダリルの言葉に押されるように、オフェリーはそっと口を開けた。
噛んだ瞬間、じゅわっと甘い旨みが広がり、思わず目を細めた。
「美味いか?」
オフェリーは、蕩けるような笑顔を一瞬浮かべたダリルに戸惑った。
(また優しくなった……どうして?)
「ちょっと、サリム! また串焼きを焼いていたのかい? それは私の仕事だよ」
「いや、エルザは定食屋をやっていたろう? だから中の食堂を手伝え! 俺は海を見ながらこうして焼いているのが好きなんだよ。今日のホタテは最高にうまいぞ!」
(えっ。エルザ? 定食屋……)
オフェリーが声のする方に振り向くと、 目が合ったエルザが大きく叫んだ!
「あらま! もしかしてオフェリーかい?」
「定食屋の女将さん?ど、どうしてこんなところに?」
「下町がさ、 住みづらくなっちゃってね。だから遠縁のサリムを頼ったってわけさ」
「と、遠縁?……こんな偶然って……」
「ん? 二人は顔見知りかい? 世の中ってのは狭いな」
サリムはガハハと笑った。
◆◇◆
「なんだよ、そんなことがあったのか!」
号泣しているサリムへトリスタンがハンカチを渡すと、ずーっと鼻をかんで サリムがトリスタンに返した。
オフェリーが 今までのことをエルザに話していた時のことだ。
海の家の食堂でエルザが生魚を薄く切ったり、串焼きを作って、オフェリーたちに振る舞う。
「それにしてもびっくりしちゃうね。 まさかオフェリーがヴィダル伯爵様になるなんて」
エルザはニコニコと微笑みながら、生魚を盛った皿をオフェリーたちの前に置いた。
「はい 。私もびっくりしています。でも女将さんの手料理、すごく久しぶりです。それにしても、生魚なんて初めて食べます」
「そうかい? たくさんお食べよ。領主様ならオフェリー様って呼ばなきゃね。また会えて本当に嬉しいよ」
「世話になった人に会えて良かったな。生魚は海の近くでしか食べられないから、いっぱい食べるといい。ただすごく気に入ったのなら、何とかして屋敷でも食べられる方法を考え出さねば……」
「また親馬鹿になってる。父上、ここでしか食べられないから、貴重だし美味しいんですよ」
ダリルは魚の臭みを消す根菜を小さなおろし器で擦った。オフェリーの小皿の端にチョンと乗せる。そこに黒い発酵調味料も注いだ。
「俺は何回も海に来てるから生魚の食べ方は任せろ。ほら、この調味料につけて、この緑のを魚の上にちょんと乗せて、食べるんだ」
てっきり自分の口の中に入れるのかと思えば、オフェリーの口の前に自然に差し出した。
「えっ? さっきから何なんですか。赤ちゃんじゃないんだから自分で食べられます」
オフェリーは皆の視線を感じて顔が真っ赤だ。
「ふっ……ダリルは妹ができて嬉しいんだな。ずっと一人っ子で育ったから寂しかったのかもしれない。妹の世話を焼くのが、楽しくてしょうがないんだろう」
「っつ……違いますよ。そんなんじゃないです。オフェリーが痩せてるからいっぱい食べさせなきゃいけないと思って。公爵家に来た頃よりは、だいぶマシになったけど、まだまだ痩せてるから」
「ふふっ。ダリル様は妹思いなのですね。オフェリー様、優しいお兄様ができて良かったですね」
「……優しいのかな……。だって、私の手を二回も払い除けたのに……きっと、本当は嫌われています」
どうにも心に引っかかって、つい皆の前で口にしてしまった。
なぜか涙が滲んで、薄く切った生の魚にぽたりと落ちる。
ダリルは「はぁー」とため息をついてから、トリスタンの方をちらりと見た。
トリスタンが、黙って頷く。
オフェリーの顔を覗き込み、ダリルは言った。
「オフェリー。後でちゃんと説明するよ」




