第60話 前夜、村が久しぶりに“明日ちょっと楽しみ”になる
その日のハイレン村は、夕方に近づくほど妙な落ち着かなさをまとっていた。
慌ただしいわけではない。
大声が飛び交うわけでもない。
祭りの前みたいに村じゅうが浮かれているわけでも、もちろんない。
でも、静かな村のあちこちで、人の手がいつもより半歩だけ先のことを考えて動いている。
それがわかった。
「……来てるね」
るなが広場の端に立ちながら言った。
「うん」
みうが頷く。
「昨日までの“今日を終えるための手”じゃなくて」
「“明日見せるための手”になってる」
えれなが言う。
「それ」
ももかが小さく手を叩く。
「めっちゃ大事」
「かなり」
ジェシカも短く言った。
村長ドミニクは、
“浮かれるな”
“仕事の邪魔になるなら止める”
と釘を刺した。
でもその上で、
“村の仕事の延長で、小さくやるなら”
と、一歩だけ道を開いた。
だから今のハイレン村には、昨日までなかった種類の会話が生まれ始めている。
何を出すか。
どれなら無理がないか。
どれが今年の顔か。
どう並べるか。
その一つ一つが、静かな村の中で、とても小さく、でも確かに灯っていた。
◆
最初に向かったのは保存食の小屋だった。
中へ入った瞬間、昨日より空気が濃いのがわかる。
果実の甘い匂い。焼き菓子の香り。乾いた豆の匂い。布の匂い。
棚の前ではサラと年配の女たちが、保存食や瓶詰めを見比べながら何か話していた。
「おはよう」
みうが声をかける。
「あ、おはようございます」
サラが振り返る。
その顔は、緊張している。
でも昨日までの“どうせ意味にならない”の顔ではない。
“ちゃんとやるならどうするか”を考えている顔だ。
「……やってるね」
るなが言う。
「やってます」
サラが小さく答える。
「何を出すか、決めてるところで」
「お」
ももかが言う。
「来たね」
「はい」
「で、どう?」
「……」
サラは少しだけ困ったように笑う。
「難しいです」
「何が」
「全部出したいわけじゃないんです」
「うん」
「でも、どれを出すか決めると、“これは違うのかな”ってなって」
「……」
「つまり」
えれなが言う。
「“今年の自分の顔”を決めるのが怖い」
「……」
サラは少し驚いたようにえれなを見て、それから静かに頷いた。
「近いです」
「うん」
「だって今まで、そんなふうに考えたことなかったから」
「……」
「作ったらしまう、だったもんね」
みうがやさしく言う。
「はい」
年配の女が、そこで口を開いた。
「この子、焼き菓子を出す気でいるけどね」
「ばあちゃん」
サラが少し慌てる。
「いいじゃないか、別に」
「……」
「出す気なんだ」
るなが聞く。
「……」
サラは一瞬だけ視線を落とし、それから小さく言った。
「出すなら、焼き菓子がいいかなって」
「うん」
「一番“また食べたい”って言われたから」
「……」
みうが思わず目を細める。
「サラ」
「はい」
「今の、すごくいい」
「まだ慣れないです」
「知ってる」
るなが笑う。
「でも、ちゃんと前に出てる」
サラは照れたように頬を赤くしながら、木皿の上の焼き菓子を見た。
「これと」
「うん」
「あと、小さい果実の瓶を二つだけ」
「うん」
「そのくらいなら、出してもいいかなって」
「いい」
ももかが即答する。
「むしろ良い」
「焼き菓子だけだと“お菓子”で終わるけど」
えれなが言う。
「果実の瓶が少し入ると、“この村の手”って感じが出る」
「……」
「やっぱそれだよね」
サラがぽつりと言った。
「何」
「焼き菓子だけより、“村で残したもの”って見せたい」
「うん」
るなが頷く。
「それ、かなり大事」
◆
小屋の奥では、別の年配の女が布をたたんでいた。
「これも出す?」
みうが聞く。
「……」
「少しだけならね」
女は言う。
「全部は大げさだ」
「うん」
「でも、今年の織りの中で、まだましなのを一枚」
「……」
「それ、いい」
ももかが言う。
「色は地味だけど、今の村には逆に合ってる」
「派手じゃなくていい」
ジェシカが言った。
「“これが今年の村”って見える方が大事」
「……」
サラが、その布をちらっと見る。
「その布、出すんだ」
「何か悪いかい」
「いや」
「……」
「なんか、ちょっと嬉しいだけ」
「……」
年配の女は何も言わなかったが、その無言の中に少しだけ、昔のやり方を思い出した人のやわらかさがあった。
◆
広場の反対側では、若い農夫たちが集まっていた。
エルン、ロアン、それに他の青年たち。
朝の仕事を早めに切り上げたわけではない。
あくまで仕事の合間に、“どれを出すか”を決めている。
それだけでも、昨日までとは違う。
「来た」
ロアンが言う。
「来た」
るなが返す。
「どう」
「……」
ロアンは少しだけ考えてから、地面に並べた野菜を指した。
「これと」
「うん」
「これ」
「葉物と根菜」
えれなが見る。
「なんでそれ」
「今年、状態が安定してる」
ロアンが答える。
「あと、色が違う」
「色」
「並べた時に、わかりやすいかと思って」
「……」
るなが一瞬黙る。
「今の、かなり来た」
「なに」
「“並べた時にわかりやすい”って、完全に見せる側の発想」
「……」
ロアンは少しだけ気まずそうに目をそらした。
「悪い?」
「全然」
ももかが笑う。
「むしろ超いい」
「……」
エルンは少し離れた場所で、豆を見ていた。
「エルンは?」
みうが聞く。
「……」
「出す?」
「少しだけ」
「お」
るなが言う。
「何」
「豆」
「うん」
「今年、粒の揃いがいいやつだけ」
「……」
「来た」
ももかがまた言う。
「連呼しすぎ」
えれなが返す。
「でも今のも大事だもん」
青年の一人が、少し不安そうに言う。
「でもさ」
「うん」
「こうやって選ぶと、他のやつがだめみたいじゃないか」
「……」
るなはその言葉に、少しだけ目を上げた。
「それ、結構大事な不安だね」
「だめじゃない」
エルンが低く言う。
「……」
「でも、“今年の顔”を出すなら、全部じゃない」
「……」
「仕事のために分けるのと同じだ」
「……」
「出すために選ぶだけ」
「……」
その言葉は、昨日までのエルンならあまり出なかったものかもしれない。
村の若い者の口から、
“今年の顔”
という感覚が出始めている。
それが、るなにはすごく大きく思えた。
◆
昼前、広場の一角では子どもたちが集まり始めていた。
昨日、村長が“子どもが札を描くくらいなら”と言ったのを、ももかが聞き逃すわけがなかった。
「はい、描くよー」
ももかが地面に敷いた板の前へ座り込む。
「字が書けなくても大丈夫」
「絵でもいい」
みうが横でやさしく言う。
「豆なら豆の絵」
「お菓子ならお菓子」
「野菜なら、その形のままでも」
えれなが補足する。
「これ、ただの遊びじゃないんでしょ」
るなが聞く。
「半分遊び」
ももかが言う。
「でも、半分めっちゃ大事」
「どう大事」
「“見る前提”を作る」
「……」
「絵があると、子どもも大人も止まりやすい」
「それ、ルクレツィアでもやってたやつだ」
「そう」
「でも今回はもっと素朴に」
ジェシカが言った。
子どもたちは最初こそ遠慮していたが、絵を描いていいとわかると少しずつ近づいてきた。
「これ、豆?」
「うん」
「ちっちゃい丸いっぱい」
「それそれ」
「お菓子は?」
「丸くて、ちょっと焼けた色」
「わかんない」
「じゃあ、食べた時の顔でもいい」
「それ何」
「楽しそうなやつ」
「……」
そのやり取りに、少しずつ子どもたちの笑いが混ざる。
静かな村に、子どもの声が小さく弾む。
それだけでも、広場の空気は変わっていった。
「……やっぱ子ども大事だね」
るなが言う。
「うん」
みうが頷く。
「大人だけだと、どうしても慎重さが勝つから」
「子どもが“見たい”を先に出してくれる」
えれなが言う。
「そう」
「で、それを見た大人が少しゆるむ」
ジェシカが言った。
◆
午後になると、村全体が少しだけ“不自然な静かさ”から、“準備している静かさ”へ変わっていった。
それはたとえば、
小屋の前で、
「その瓶はこっちの方が見える」
「いや、こっちだ」
と小さく相談する声。
畑の端で、
「今年の根菜ならこの形の方がいい」
「その葉、少し落とすか」
と選ぶ声。
広場で、
「札は木の皿の前」
「絵はこっちの方がわかりやすい」
と子どもに教える声。
そういう、“明日を見ながら動く声”が、少しずつ増えていく。
「……来たね」
るなが言う。
「うん」
みうが微笑む。
「村が明日の話してる」
「それ」
ももかが振り向く。
「ほんとそれ」
「昨日までは、“今日を終える”の話しかなかった」
えれなが言う。
「今は、“明日これどう見せる”がある」
「かなり大きい」
ジェシカが言った。
そこへ村長ドミニクがやって来た。
広場で動く人たちを見て、少しのあいだ何も言わない。
その目は厳しいままだ。
でも、昨日までの“まず止めるかどうかを考える目”ではない。
ちゃんと、見ている。
「……」
「村長さん」
るなが声をかける。
「はい」
「今の、どう」
「……」
ドミニクはしばらく黙ってから言った。
「静かですな」
「うん」
「でも」
「でも?」
「悪い静けさではない」
「……」
るなは、思わずみうたちと顔を見合わせた。
それは、この村の村長が今出せる、かなり最大級に近い前向きな言葉だった。
「それ、結構でかい」
ももかが小さく言う。
「同意」
えれなが言う。
「かなり」
ドミニクは広場の品を見ながら続ける。
「大きな祭りには見えません」
「うん」
るなが答える。
「それでいい」
「ええ」
村長は頷く。
「今のハイレン村には、このくらいがちょうどよいのでしょう」
「……」
「村長さん」
みうがやさしく言う。
「はい」
「ちょうどよい、って言ってくれてうれしいです」
「……」
ドミニクは少しだけ視線を逸らした。
「まだ終わっていません」
「うん」
「だから、気を抜かぬことです」
「はい」
「でも」
るなが少し笑う。
「今の“ちょうどよい”は、かなりうれしい」
「……」
村長は何も言わなかったが、その沈黙はもうだいぶやわらかくなっていた。
◆
夕方、空が少し赤くなり始めた頃。
広場には、仮置きではあるけれど“明日見せるもの”の輪郭がかなり整ってきていた。
焼き菓子。
果実の瓶。
豆。
葉物。
根菜。
布。
籠。
そして子どもたちが描いた札。
派手ではない。
でも、今のハイレン村には十分に、
“今年の村のもの”
に見えた。
るなたちは土手へ戻り、いつものように並んで座った。
「……今日もでかかった」
るなが言う。
「うん」
みうが頷く。
「かなり」
「広場の空気、完全に“準備の空気”だった」
ももかが言う。
「それ」
えれなが答える。
「準備って大事なんだよね」
「やっぱ好きでしょ」
るなが聞く。
「好き」
ももかは即答した。
「だって、まだ始まってないのに“明日のために動いてる”って、すごい希望じゃん」
「……」
「それ、今日のハイレン村にぴったり」
みうが言う。
「うん」
「“明日ちょっと楽しみ”が戻り始めてる」
「そう」
ジェシカが短く言った。
しばらく風の音だけが流れる。
畑は変わらず広い。
村も相変わらず静かだ。
でもその静けさの中に、今日はたしかに
“明日、これを見せる”
がある。
それは、この村にとってたぶん、すごく久しぶりのことだった。
「……よし」
るなが小さく言う。
「うん」
「次」
「次」
「たぶん、始まる」
「うん」
みうも静かに頷く。
「小さな収穫祭」
「祭りって言葉はまだ大きいけど」
えれなが言う。
「でも、実質はもうそれ」
「今の村の実りのお披露目」
ジェシカが言った。
「うん」
るなは深く頷く。
「ここまで来たら、ちゃんと始めたい」
夕暮れのハイレン村は、昨日までよりほんの少しだけやわらかかった。
それは大きな変化ではない。
でも、こういう小さな変化こそが、静かに痩せた場所には必要なのだと、五人はもう知っていた。




