第36話 次の風は、まだ地図の上にある
王女エリシアの部屋を辞したあとも、五人の空気はしばらくふわふわしていた。
王都へ戻ってきてからずっと、宮廷の空気だの、反発だの、報告だの、重たい言葉が周囲を飛んでいた。だからこそ、あの小さな部屋での時間は少し異質だったのだ。
セレストの話をして。
王女がそれを自分の言葉で受け止めて。
王妃が静かにそれを支えて。
そして最後に、貝の意匠のしおりを渡された。
たったそれだけなのに、胸の奥のどこかがちゃんと“帰ってきた”と感じた。
「……やばい」
ももかが廊下を歩きながら言う。
「なに」
えれなが聞く。
「王女さま報告会、普通に好き」
「正式名称みたいに言うな」
えれなが即座に返す。
「でも、わかる」
みうが少し笑った。
「今日の王女さま、前よりずっと自然だった」
「うん」
るなが頷く。
「しかも、自分からちゃんと感じたこと言ってた」
「“昔に戻るんじゃなくて、今の自分ができる形を見つける”」
ジェシカが小さく復唱する。
「……あれ、かなりよかった」
「ね!」
ももかが食いつく。
「めっちゃ刺さった」
「王女さま、どんどん強くなるね」
みうが言う。
「うん」
るなは手の中のしおりを見た。
小さな貝の飾りが、窓から差し込む光を受けて少しだけきらめく。
「セレストの風、ちゃんと届いてる感じした」
「王都の空気も、やっぱ変わってる」
えれなが静かに言う。
「よくも悪くも」
「そこね」
るなが少しだけ肩をすくめる。
「いい方だけじゃないのが、この世界っぽい」
「この世界っぽいって何」
ももかが聞く。
「空気が動くと、ちゃんとめんどくさいものも一緒に動くってこと」
「……それはそう」
えれなが頷いた。
王女の部屋のある区画を抜け、少し広めの回廊へ出ると、王城らしい静けさが戻ってくる。高い窓。磨かれた床。遠くで交差する侍女たちの足音。
でも、その静けさの中に今日の五人はもう、前ほど飲まれていなかった。
王都の空気は前のままじゃない。
そして自分たちも、もう“ただ巻き込まれた五人”ではなくなってきている。
その感覚が、良くも悪くも足元を強くしていた。
◆
その日の夕方近く、五人は再び王に呼ばれた。
「早くない?」
ももかが露骨に嫌そうな顔をする。
「セレスト帰り、働かせすぎでは?」
「でも、たぶん来ると思ってた」
るなが言う。
「来ると思ってたけど、思ったより早い」
「まあ」
えれながため息をつく。
「王女さまと王妃さまの部屋でひと息つけたから、その分“次”が来る気はしてた」
「嫌な読みだけ当たる」
ももかが言う。
「でも、今度は何だろ」
みうが少しだけ緊張した声で聞く。
「セレストの追加報告?」
「違うと思う」
ジェシカが短く言った。
「次の話」
「……」
その一言で、みんな少し黙る。
そうだ。
セレストで新しい風が起きた以上、それが次へつながらないわけがない。
王都へ戻った時点で、その予感はもう全員の中にあった。
通されたのは、前に何度か使われた地図のある会議室だった。
部屋へ入ると、王レオンハルト、王妃セレフィーナ、宰相リヒャルト、ガルドがすでに揃っていた。エリシアはいない。今回は少し“公”寄りの話らしい。
壁には王国の大きな地図。
王都、レフィア村、セレスト――そしてそれ以外の土地も、改めて見ると広い。
るなはその地図を見て、ふと当たり前のことに気づく。
自分たちが動いたのは、まだほんの一部だ。
この国にはまだ、見ていない場所がいくらでもある。
「座れ」
王が言う。
「はい」
るなが答える。
全員が席についたあと、王はしばらく五人を見ていた。
その顔は、以前より疲れているようにも見えるし、逆にどこか覚悟が定まってきたようにも見えた。
「セレストの件、改めて報告を整理させた」
王が口を開く。
「魚市場の見せ方の変化、宿屋街での小規模な継続、港と子どもたちの接触、広場の再活性化」
「……」
「大きな成果ではない。だが、無視できぬ」
「はい」
えれなが頷く。
リヒャルトがそこで補足する。
「宮廷内でも、既に評価が割れております」
「また?」
ももかが小さく言う。
「“また”です」
リヒャルトがきっぱり返す。
「支持する声も、警戒する声も、どちらも強くなっております」
「……」
「セレストの件は、“偶然ではない”と見られ始めている」
ガルドが低く言う。
「王都、レフィア村に続き、港町でも同様の変化が起きたからだ」
「うわ」
るなが言う。
「それ、だいぶ重い」
「重い」
王が即座に言った。
「だからこそ、次を軽々しく決めるわけにはいかぬ」
その言い回しに、ももかが少し眉を上げる。
「……次、あるんだ」
「ある」
王は言った。
「ただし、今すぐ出すとは限らぬ」
「え」
みうが少し驚く。
「今すぐじゃないんですか」
「お前たちを休ませる意味もある」
王は低く答える。
「同時に、王都内の整理も必要だ」
「整理」
えれなが聞き返す。
「反発の処理、支持の扱い、地方からの新たな打診」
リヒャルトが答える。
「今は、その全てが一気に動いている」
「うわあ」
ももかが天井を見る。
「めんどくさいが過ぎる」
「正確な評価だ」
王妃が穏やかに言った。
「でも、それだけではありません」
五人が王妃を見る。
「動き始めた町を、どう継続させるかも大事です」
「セレスト?」
みうが聞く。
「ええ」
王妃は頷いた。
「一度起きた風を“ただの一日”で終わらせないこと」
「……」
「それは、この国全体にとっても重要です」
るなは少しだけ前のめりになった。
「じゃあ、セレストにまた行く可能性もある?」
「ある」
王が答えた。
「ただし、今すぐかどうかは別だ」
「……」
「お前たちが動いた町は、その後どうなるかも含めて見なければならぬ」
「うん」
るなは頷いた。
「それ、大事」
「同時に」
ガルドが続ける。
「別の地域からも“見てほしい”という声が上がり始めている」
「……」
「レフィア村、セレストと続いたことで、“あの異界の娘たちは何をするのか”を確かめたい町が出てきた」
「うわ」
ももかが言う。
「とうとうそうなった」
「でも、それって」
みうが少し戸惑いながら言う。
「期待、ですよね」
「期待もある」
王が答える。
「だが、それだけではない。
“何ができるのか見極めたい”“自分たちの町にも同じことが通じるのか測りたい”という思惑も混ざる」
「……」
「つまり、次はもっと複雑になる」
ジェシカが静かに言った。
「そうだ」
王は頷く。
◆
王が地図の方へ歩み寄る。
王都。
レフィア村。
セレスト。
そしてその先の、まだ知らない土地へ視線が移る。
「今、候補として上がっているのは三つ」
その言葉に、五人の空気が少し変わる。
「三つも?」
ももかが言う。
「候補だ」
王が釘を刺す。
「決定ではない」
「どこ」
るなが聞く。
王は地図の一角を指す。
「一つは、内陸の中規模商業都市」
「商業都市」
えれなが繰り返す。
「人と物は集まるが、領主と商人の間に軋轢が強い」
「うわー、めんど」
ももかが言う。
「すでに面倒そう」
「二つ目」
王は別の場所を指す。
「王都近郊の農村地帯」
「農村?」
みうが少し意外そうに言う。
「食糧供給の要だが、魔族被害よりも“人のやる気の低下”が深刻になっている」
「……」
「三つ目」
さらに別の場所へ指が移る。
「南方の温泉街」
「え」
るなが目を丸くする。
「温泉街?」
「なにその急にちょっと気になるやつ」
ももかが言う。
「観光地だったが、旅人の減少で町そのものが縮んでいる」
王は淡々としている。
「ただし、セレストより距離がある」
五人は自然と顔を見合わせた。
商業都市。
農村地帯。
温泉街。
どれも今までとまた違う。
同じやり方が通じる保証はない。
むしろ、町ごとに“止まっている場所”が違うのだろう。
「……全部、空気違いそう」
るながぽつりと言う。
「そうだろうね」
えれなが頷く。
「王都、村、港町と来て、次がまた別種」
「でも、ちょっとわくわくする」
ももかが言う。
「そこ言うんだ」
「だって」
ももかは肩をすくめる。
「なんか、“どこも同じじゃない”の面白くない?」
「面白いって言い方はどうかと思うけど」
えれなが言う。
「でも、わかる」
みうが小さく笑った。
「私も少し」
「そこは本音なんだ」
るなが言う。
「うん」
みうは頷く。
「怖いけど、見てみたい」
「……」
王は、その会話を静かに見ていた。
「今すぐ決めさせはしない」
やがて言う。
「まずは、お前たち自身にも少し整理の時間が要る」
「整理」
るなが言う。
「はい」
「その間に、王都でもさらに情報を集める」
リヒャルトが続ける。
「どの土地が本当に今必要としているのか。
そして、どこが最も“ただ呼べばよい”では済まないか」
「……」
「それを見極める」
るなは地図を見ながら思う。
次の風は、まだ地図の上にある。
名前だけ。場所だけ。問題の輪郭だけ。
でも、そのどれかに、これから自分たちは向かうのだろう。
そして、王都、レフィア村、セレストで見つけたものが、次の場所でどう変わるのか。
“今あるものを前へ出す”というやり方が通じるのか。
それともまた、全然違う入り口を探さなきゃいけないのか。
それを考えると、怖さと同時に、確かな熱もある。
◆
会議の終わり際、王妃がやわらかく言った。
「ですから今日は、次の土地を決める日ではなく、“地図を見る日”にしましょう」
「地図を見る日」
みうが繰り返す。
「ええ」
王妃は微笑む。
「行った場所を胸にしまい、まだ見ぬ場所へ少しだけ目を向ける日」
「……」
「悪くない」
ジェシカが言った。
「うん」
るなも頷く。
「悪くない」
王は最後に、五人を一人ずつ見るようにして言った。
「お前たちは、もう“たまたまそこにいた者”ではない」
「……」
「この国の空気を動かすきっかけとして、見られ始めている」
「……」
「それを重いと感じるなら、そう感じてよい」
「感じる」
るなが正直に言う。
「重い」
「うん」
みうも頷く。
「かなり」
「でも」
ももかが言う。
「今さら“やめます”にもならない感じ」
「そこも正直ですね」
王妃が少し笑う。
「そういう性格なんで」
るなが言うと、王が小さく息を吐いた。
「だからこそ、次は選べ」
「……」
「勢いだけではなく、自分たちで」
「うん」
るなは頷いた。
「ちゃんと見る」
「よろしい」
◆
部屋を出たあとも、五人はしばらく無言で歩いていた。
商業都市。
農村地帯。
温泉街。
頭の中で、見たこともない町の空気をそれぞれ想像してしまう。
「……温泉街」
ももかが最初に言った。
「いや、そこから?」
えれなが振り向く。
「だって気になるじゃん」
「そこはわかる」
るなが言う。
「わかるんだ」
「でも、商業都市もだいぶ気になる」
「農村も」
みうが言う。
「“人のやる気の低下”って、どういう感じなんだろ」
「全部、しんどさの種類が違う」
ジェシカが言う。
「だから、選ぶの難しい」
「うん」
るなが頷く。
「でも、今の段階で一つ言える」
「なに」
「次、絶対また空気違う」
「それはそう」
えれなが言う。
「王都とも村ともセレストとも違う」
「だからまた最初から見るんだろうね」
みうが静かに言う。
「何があって、何が止まってて、何がまだ残ってるのか」
「うん」
るなが答える。
「それ、結構好きかも」
「またそういう」
えれなが呆れる。
「いや、だって」
るなは少しだけ笑う。
「同じやり方が通じないって、難しいけど面白いじゃん」
「面白いって言い方は危険」
ジェシカが言う。
「でも、本音」
「……まあ、それはそう」
えれなも否定しなかった。
窓の外では、夕方の王都の屋根が赤く染まり始めている。
王都はもう、前の空気じゃない。
セレストで生まれた風も、その中へ入ってきている。
そして次の風は、まだ地図の上にしかない。
るなは歩きながら、自分の中にある小さな高鳴りをちゃんと認めた。
怖い。
重い。
でも、次がある。
それを“しんどいだけ”じゃなく、少しでも“行ってみたい”と思っている自分たちがいる。
たぶん、それが今の五人の現在地だった。




