第35話 王女の部屋で、港町の話をしよう
王都へ戻った翌日の午後、五人は王女エリシアの私室近くの小さな控えの間へ呼ばれていた。
以前にも何度か通されたことのある部屋だ。大広間でも応接室でもない、王女が少し肩の力を抜ける場所。高い窓からは午後のやわらかな光が入っていて、白いレース越しの風が薄く揺れている。机の上には茶器が整えられ、小さな花瓶には淡い青の花が活けられていた。
最初にここへ来た頃のエリシアは、この部屋にいてもどこか緊張していた。
でも今、扉の向こうから聞こえてきた足音は、あの頃より少しだけ軽い。
「お待たせしました」
部屋へ入ってきた王女は、以前よりずっと自然な顔で微笑んだ。
「王女さま」
みうが立ち上がる。
「こんにちは」
「こんにちは」
エリシアは五人を順に見て、少しだけ目を細めた。
「本当に、戻られたのですね」
「戻ったよ」
るなが笑う。
「セレスト帰り」
「そのようですね」
王女は少しだけ首を傾ける。
「なんとなく、皆さまから潮の気配がします」
「うわ」
ももかが言う。
「王女さま、それわかるの?」
「なんとなく、です」
エリシアは少し照れたように微笑む。
「それに、表情も」
「表情?」
るなが聞き返す。
「はい。出発前とは少し違う気がします」
「……」
「何かを持ち帰ってきた方たちの顔です」
その言い方が、るなには少しだけくすぐったかった。
持ち帰ってきたもの。
魚でも、土産でもなく、空気や声や変化のことを、王女はちゃんとわかっているのだ。
「今日は」
エリシアが椅子へ腰掛けながら言う。
「ぜひ、お話を聞かせてください」
「王女さま報告会、開催」
ももかが言う。
「ももか」
えれなが小声でたしなめる。
「でも、そういう会でしょ?」
「まあ、そうだけど」
「……王女さま報告会」
エリシアがその言葉を小さく繰り返し、少し笑う。
「変なお名前です」
「でも、わかりやすい」
るなが言う。
「そうですね」
エリシアは頷いた。
「今日は、それで」
その一言に、部屋の空気がふわっとやわらぐ。
◆
最初に話し始めたのは、みうだった。
「セレストは、海の町でした」
「はい」
エリシアが頷く。
「本の中でも、そう書かれていました」
「でも」
みうは続ける。
「最初に見た時の印象は、“きれいなのに静かすぎる町”でした」
「静かすぎる」
「うん」
るなが引き取る。
「王都の静かさとも違うし、レフィア村の張りつめた感じとも違った」
「では、どんな」
エリシアが身を乗り出す。
「“元気だった記憶が残ってるのに、今はそこが抜けてる静かさ”」
ジェシカが静かに言った。
王女は、その言葉を受け止めるように少し黙る。
「……なるほど」
「うん」
るなが頷く。
「広場も、港も、宿屋街も、形はあるんだよ」
「でも、人の勢いだけ抜けてる」
えれなが補足する。
「魚はある。船もある。宿もある。
けれど、それぞれが“ただ残ってる”感じで、町としてつながっていなかった」
エリシアの目が、真剣にこちらを見ている。
以前の彼女なら、ここでただ静かに聞くだけだったかもしれない。
でも今は違う。ちゃんと、自分の中で理解しようとしている顔だ。
「魚があるのに、売れなかったんです」
みうが言う。
「それが、最初は不思議でした」
「なぜでしょう」
王女が問う。
「魚が足りないわけではないのですよね」
「そう」
えれなが頷く。
「足りないのは、そこから先を回す余裕と、“見せる力”」
「見せる力」
エリシアが繰り返す。
「うん」
ももかが言う。
「魚そのものは悪くないのに、売る側が“どうせ売れない”の顔になってると、台まで暗くなる」
「……」
「しかも宿屋もそう。港もそう。みんな“どうせ前みたいには戻らない”が先にある」
「それは、苦しいですね」
王女がぽつりと言う。
るなは、その言葉に小さく頷いた。
「苦しい」
「はい」
「子どもたちも、海を見てもはしゃがなかった」
「……」
エリシアの表情が揺れる。
「海を見ても?」
「うん」
みうが静かに言う。
「ノアちゃんたちっていう子がいたんだけど、“前は好きだった”って」
「前は……」
「今は、大人が疲れてるから、自分たちも静かにしてる感じだった」
「……」
王女は両手を膝の上でそっと重ねた。
その仕草を見て、るなは思う。
やっぱりこの人は、子どもの話に弱い。
いや、弱いというより、本気で受け止めるのだ。
「でも」
みうは少しだけ笑った。
「ちゃんと戻るのも早かったです」
「戻る?」
「“笑っていいかも”って空気が少しできると、子どもってすぐ反応するんです」
「……」
「絵を描いたり、港の道具を見たり、魚を見たり」
「また、絵を?」
エリシアの顔が少しだけやわらぐ。
「うん」
るなが笑う。
「セレストでも、子どもたちの絵が増えた」
「見たかったです」
「持ってる」
るながすぐに答える。
「え」
「ルクくんが魚の絵くれた」
るなが包みの中から大事そうに折れないようしまっていた紙を取り出すと、エリシアの目がぱっと明るくなる。
「……まあ」
王女は受け取るように少し身を寄せた。
「かわいい」
「でしょ」
ももかが言う。
「へんな魚だけど味ある」
「“味がある”は便利な言葉ですね」
エリシアが少し笑う。
「最近、ジェシがよく使う」
るなが言う。
「わたくしも覚えます」
「そこ覚えるんだ」
ももかが笑った。
◆
話が進むにつれて、王女の表情はどんどん動くようになった。
魚市場の話では眉を寄せる。
空き部屋の多い宿の話では、胸の前で手をぎゅっと組む。
広場に人が少しずつ集まった話では、目が少しだけ輝く。
そして子どもたちがまた走り出した話では、明らかにほっとした顔をした。
「……海鳴り祭」
エリシアがその名を小さく口にする。
「それが、町の真ん中だったのですね」
「うん」
るなが頷く。
「でも、昔のそのままを戻そうとすると、みんな苦しくなる」
「“届かなかった今”を見るから」
ジェシカが言った。
「……」
「だから、“今のセレストでできる形”にした」
「それが」
王女は少し前のめりになる。
「前におっしゃっていた、“今のセレスト版”ですか」
「そう」
るなが笑う。
「王女さま、覚えてた」
「覚えています」
エリシアは少し照れながらも頷く。
「とても印象的でしたから」
「うれし」
ももかが言う。
「王女さまに刺さってる」
えれなが冷静に整理する。
「要するに、“昔の祭りの再現”じゃなくて、“今あるものを少しずつ前へ出す場”にしたんです」
「魚市場は、見せ方を変えた」
「宿屋街は、少し味わえる料理を出した」
「港は、仕事を“見せるもの”にもした」
「子どもたちは、絵を描いて飾った」
四人の言葉が、少しずつ一枚の絵になるように積み上がる。
エリシアは、その全部を静かに聞いてから、小さく言った。
「……素敵です」
「え」
るなが目を丸くする。
「ほんとに?」
「はい」
王女はまっすぐ言う。
「昔に戻そうとするのではなく、今の町が持っているものを見つめるのは、とても素敵だと思います」
「……」
「それは、たぶん」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「わたくしにも、少し似ている気がします」
「王女さまに?」
みうがやさしく聞く。
「はい」
エリシアは頷いた。
「昔のわたくし、あるいは“あるべきとされていたわたくし”に戻るのではなく……今のわたくしができる形を、少しずつ見つけていく」
「……」
「そのお話を聞いていると、そういうことなのかもしれないと感じました」
るなたちは、一瞬言葉を失った。
そして、ももかが両手で口を押さえる。
「やば」
「ももか」
えれなが止める。
「いやでも今の、めっちゃいいこと言った」
「うん」
みうも本気で頷く。
「王女さま、それすごく大事」
「そう?」
るなが言う。
「いや、かなり核心」
「そう、でしょうか」
エリシアは少し不安そうに言う。
るなは首を横に振った。
「王女さま、今のめっちゃよかった」
「……」
「セレストも、王女さまも、“昔そのまま”じゃなくていいってことなんだと思う」
「うん」
みうも続ける。
「今の王女さまが、自分で選んで、自分で見たいって思って、自分で話そうとしてるの、すごくいいです」
「……ありがとうございます」
王女は少しだけ頬を染めた。
◆
そこへ、ノックの音がした。
扉の向こうから、王妃セレフィーナの声がする。
「入ってもよろしい?」
「お母さま」
エリシアが少しだけ顔を明るくする。
「どうぞ」
王妃が入ってくると、部屋の空気がまた少し変わる。
やわらかいのに、芯がある。
この人がいると場が整うのは、もう何度も見てきた。
「まあ」
王妃は五人と娘の顔を見て微笑む。
「よい時間を過ごしていたようですね」
「はい」
エリシアが素直に答える。
「セレストのお話を伺っていました」
「それはよかった」
王妃は椅子の横へ立ち、娘の肩へそっと手を置いた。
「どんな町でした?」
「苦しい町でした」
エリシアは言う。
「でも、まだ終わっていない町です」
「……」
「昔に戻るのではなく、今できる形で前を向こうとしていました」
「そう」
王妃はやわらかく頷く。
「それを、あなたはどう感じましたか」
「……」
エリシアは少し考えてから、はっきり言う。
「素敵だと思いました」
「ええ」
王妃は微笑んだ。
「わたくしも、そう思います」
その会話を聞いているだけで、るなは少しだけ胸がじんわりした。
王女はもう、誰かの言葉を借りずに、自分の感じたことを言えるようになってきている。
そして王妃は、それをちゃんと受け止めている。
王妃は五人へ向き直った。
「陛下も、セレストのお話をもう一度詳しく聞きたいと仰っていました」
「うわ」
るなが言う。
「また報告会?」
「“また”ではなく、“改めて”です」
王妃が微笑む。
「そこ、けっこう違う?」
ももかが聞く。
「違いますよ」
王妃はさらりと言う。
「宮廷内の空気も含めて、今は一つ一つの言葉が大事ですから」
「……」
「ですが、安心なさい。
少なくとも、セレストから持ち帰った風は、こちらにもちゃんと届いています」
「届いてる」
みうが小さく繰り返す。
「ええ」
王妃は頷く。
「城の中でも、昨日から皆どこか落ち着きませんもの」
「うわ」
ももかが言う。
「やっぱそうなんだ」
「それはまあ」
るなが笑う。
「王都、前の空気じゃなかったし」
「皆さんが戻るのを待っていたのですよ」
王妃は静かに言った。
その言葉が、るなにはとても嬉しかった。
◆
話の終わり際、エリシアがふと立ち上がった。
「少し、お待ちください」
そう言って隣の机から小さな箱を持ってくる。
「これ」
「え」
るなが言う。
「なに?」
「セレストのお話を聞かせていただいたお礼に」
「お礼?」
「はい。大したものではありませんが……」
箱の中には、しおりが五つ入っていた。
色はそれぞれ違う。
でも以前の組紐と同じように、ちゃんと五人に合わせて選ばれているのがわかる。
小さな貝の意匠がついていて、どう見てもセレストを意識したものだった。
「……うわ」
みうが目を細める。
「きれい」
「貝」
ももかが嬉しそうに言う。
「王女さま、わかってる」
「えへん」
と言いかけて、るなが慌てて咳払いする。
「何その反応」
「いや、なんかうれしくて」
「それは、よかったです」
エリシアは少しだけ照れながら言う。
「帰ってきた皆さまに、何か渡したくて」
「……」
「帰ってきた皆さま」
るながその言葉を繰り返す。
「はい」
「それ、かなりうれしい」
「よかった」
エリシアは本当に嬉しそうに笑った。
るなは貝のついたしおりを手にしながら、ふと思う。
王都に帰ってきた。
そして、こうして迎えてくれる人がいる。
セレストで見送ってくれた人たちもいる。
帰る場所が増えるって、こういうことなんだ。
異世界なのに。
まだ何も安定していないのに。
それでも、自分たちが戻ってきた時に話を聞きたいと言ってくれる人がいて、何かを渡したいと思ってくれる人がいる。
それだけで、世界は少しだけ自分たちのものになる。
「王女さま」
るながしおりを見ながら言う。
「なに?」
「次も、ちゃんと持って帰る」
「……はい」
「別の町の風とか、空気とか、そういうの」
「聞かせてください」
「うん」
るなは笑った。
「また、ここで」
エリシアも頷いた。
「はい」
その返事は、もう以前みたいにか細くなかった。
「お待ちしています」
午後の光が、五人と王女の間をやわらかく照らしている。
セレストの話をするはずの部屋で、るなはまたひとつ気づいた。
王都の空気は変わっている。
でも、それは反発や政治の重さだけじゃない。
ちゃんと、人と人の間のあたたかさも増えている。
それを確かめられたことが、この日のいちばん大きな収穫だったかもしれなかった。




