《魔女の痕跡》 1
六区――都市フレリス近郊。
なだらかな丘陵に囲まれたその村では、春を迎える前の静かな仕事が続いていた。村人たちは朝霧の中に腰を沈め、鎌を振るい、黄金色の穂先だけを丁寧に刈り取っていく。土を掘り返すことはない。根も、茎も、そのまま大地に還す。それが、この地に根付いた新しい農の形だった。
クロノリス麦。
第五次遠征の折、騎士団が持ち帰ったとされる、神の穀物。豊穣の神から簒奪されたと伝えられるそれは、土ではなく空気中の魔力を糧とし、一年草でありながら、穂先のみを刈り取れば残りは分解され、翌年の養分となる。耕さず、休ませずとも、大地は痩せない。
この麦のおかげで、飢えは過去のものになった。
村ではもう、飢饉という言葉を知る者の方が少ない。腹を空かせて眠る子供はいない。人は増え、家は増え、畑は広がった。四千ほどの人口を抱えるまでに成長したこの村も、かつては名もない寒村に過ぎなかったのだ。
その日も、変わらぬ収穫の朝だった。
鎌が穂を落とす乾いた音。麦を束ねる手の動き。子供たちの笑い声。春の光はやわらかく、空には雲ひとつなかった。
異変が起きたのは、昼を少し回った頃だった。
最初に気づいたのは、風だった。
吹いているはずなのに、動かない。衣服も、麦の穂も、空気だけがそこに張りついたように重く淀む。
次いで、光。
空が、歪んだ。
村の外縁から、淡く、しかし確かな光が立ち上がり、それは瞬く間に空へと広がっていく。幾何学的な線が重なり合い、円環を成し、複雑な文様を描く。村をすっぽりと覆うほどの、巨大な魔法陣だった。
誰かが悲鳴を上げた。
「……魔法だ」
それも、日常で目にするような術ではない。護符でも、加護でも、簡易魔法でもない。理解するより先に、本能が危険を告げていた。
村人たちは混乱した。逃げ場はない。畑の中で立ち尽くす者、家へ駆け戻る者、子供を抱き寄せる者。だが、その中で数人の若者が即座に動いた。
「都市へ行け! フレリスへ!」
「騎士様を呼べ!」
馬を引き、鞍を置き、必死に跨る。彼らは振り返らなかった。空に浮かぶ魔法陣を背に、都市へと続く街道を駆けていった。
それが、村を見た最後だった。
数刻後、若者たちは騎士を伴って戻ってきた。だが、そこにあるはずの村は、なかった。
畑は消えていた。クロノリス麦の穂先はおろか、根も、土の養分も残っていない。家屋も、道も、人も。すべてが、灰となっていた。
焼け落ちたのではない。崩れたのでもない。
存在そのものが、消去されたかのようだった。
騎士たちは言葉を失った。
四千の人間が暮らしていた痕跡が、一夜にして失われている。
この報せは、即座に六区の首都へと届けられた。
そして、さらにその先へ。
バベルの円卓。
人域全体を統べる意思決定の場に、この事件は議題として上がった。報告書が読み上げられ、魔力残滓の解析結果が示され、騎士団の見解が述べられる。
重い沈黙の中で、誰かが口を開いた。
「それだけの規模の術式……ただの魔法ではないな」
言わずとも、誰もが分かっていた。
その答えを確定させるように、灰髪の騎士が低く続ける。
「大魔法が、行使された」
報告は、その事実を物語っている。
大魔法。
それは、単なる破壊ではない。世界の法則に干渉する力。
人が扱うべきではない領域。
それが意味するものは、一つしかなかった。
――人域に、魔女が踏み入った。




