第3章第3話:裏切りの始まり
約束の日がついに到来した。エリザベートは朝から期待に胸を躍らせていた。今日、三人の協力者たちから中間報告を受け、調査の進捗を確認する。そして数日後には、すべての真実が明らかになるはずだ。
朝の光が差し込む寝室で、エリザベートは鏡に向かって身支度を整えていた。顔色は相変わらず青白く、目の下の隈も濃くなっているが、心には希望の炎が燃えている。
「お嬢様、今日は特別にお美しく見えます」
マリアが微笑みながら声をかけた。確かに、主人の表情には久しぶりに活力が宿っている。
「希望に満ちたお顔をされています」
「ええ。ついに光が見えてきました」
エリザベートは鏡の前で最後の身支度を整えながら答えた。体調は相変わらず優れず、時折軽いめまいに襲われるが、心は軽やかだった。
「今日の報告を聞けば、真相解明への道筋がはっきりするでしょう」
朝食の時間、エリザベートは食欲がないながらも、体力維持のため無理に食事を摂った。パンを一口食べるだけでも胃がもたれるが、今日という重要な日に体調を崩すわけにはいかない。
「お嬢様、無理をなさらないでください」
マリアが心配そうに見つめている。
「大丈夫です。今日を乗り切れば、きっと状況が好転します」
書斎で朝食を摂りながら、エリザベートは三人からの報告に備えて心の準備をしていた。セラスからは学術的な分析結果を、バルドールからは調査の中間報告を、ロイドからは情報収集の成果を聞くことになっている。
窓の外では、街の人々が日常の活動を始めている。彼らの多くが、まだエリザベートを疑いの目で見ているだろう。しかし、今日の報告次第では、その視線も変わるかもしれない。
「どのような結果が出ているのでしょうか」
エリザベートは窓の外を眺めながら呟いた。三人がそれぞれ異なる角度から調査を進めているため、必ず何らかの手がかりが見つかっているはずだ。
「きっと私の無実を証明してくれる証拠が見つかったでしょう」
しかし、そんな希望的な予想とは裏腹に、エリザベートの胸の奥に微かな不安が芽生えていた。前回の三人の態度に、何か微妙な変化を感じ取っていたからだ。
「いえ、きっと大丈夫」
エリザベートは不安を振り払うように首を振った。
「三人とも、私のために真剣に調査してくださっている。疑う理由はありません」
午前中、最初に現れたのはセラスだった。書斎のドアをノックする音が響いた時、エリザベートの心は期待で躍った。
「どうぞ、お入りください」
ドアが開き、セラスが姿を現した。しかし、今日の彼の表情には、これまでとは微妙に違う何かがあった。興奮はあるが、それに混じって複雑な感情も見て取れる。
「エリザベート様、中間報告をお持ちしました」
セラスの声音が、いつもより慎重だった。以前のような研究者特有の興奮した調子が、どこか影を潜めている。
「セラス様、お疲れ様でした」
エリザベートは椅子から立ち上がって迎えたが、軽いめまいで少しよろめいた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、少し疲れているだけです。それより、調査の結果をお聞かせください」
「どのような結果でしょうか?」
エリザベートは期待を込めて尋ねた。セラスの表情を注意深く観察すると、以前のような純粋な学術的関心とは異なる、何か計算的な輝きが目に宿っているように見えた。
「非常に興味深い発見がありました」
セラスは研究ノートを開いた。そのページには、細かな数式と図表が描かれている。文字の密度から、相当な時間をかけて研究したことがうかがえた。
「あなたの魔法的異常は、確かに既知の現象とは異なります」
「それは良いことですよね?新しい発見ということですから」
エリザベートの声に希望が込められている。
「ええ、学術的には極めて価値の高い現象です」
セラスの目に、研究者特有の興奮が宿っている。しかし、その奥に何か別の感情も混じっているようだった。功名心とでも言うべき、野心的な輝きが見え隠れしている。
「この発見は、私の研究者としてのキャリアにとって極めて重要です」
「それは素晴らしいことですね」
「ただし...」
セラスは突然声のトーンを変えた。
「ただし?」
エリザベートの期待が、一瞬で不安に変わった。
「この異常の性質について、もう少し詳しい分析が必要です」
セラスは少し言葉を濁した。研究ノートのページをめくりながら、視線をエリザベートから逸らしている。
「具体的には、どのような分析でしょうか?」
「より侵襲的な検査が必要になるかもしれません」
「侵襲的?」
エリザベートは聞き慣れない言葉に困惑した。その響きには、何か不吉なものが感じられる。
「あなたの魔法的異常を完全に解明するためには、より深い魔法的探査が必要です」
セラスの説明は学術的だが、どこか回りくどい印象があった。以前のような直接的で熱情的な説明とは大きく異なっている。
「それは危険なのですか?」
エリザベートの声に不安が滲んだ。
「適切に行えば安全です。ただし...」
セラスは再び言葉を濁した。その躊躇は、これまでの彼からは考えられないものだった。
「時間がかかるかもしれません。そして、その間は他の活動を控えていただく必要があります」
「どのくらいの時間でしょうか?」
「数週間、場合によっては数ヶ月...」
セラスの答えに、エリザベートは困惑した。そんなに長期間の検査が必要なのだろうか。
「なぜそれほど時間が必要なのですか?」
「この現象は非常に複雑で...」
セラスは専門用語を交えて説明を始めたが、その内容は以前より曖昧で、具体性に欠けていた。
エリザベートは、セラスの態度に微かな違和感を覚えた。しかし、研究の専門的な性質を考えれば、慎重になるのは当然だと自分を納得させた。
「詳細な計画は、後日お伝えします」
セラスは立ち上がった。以前なら、研究内容について何時間でも語り続けていたのに、今日は早々に切り上げようとしている。
「もう少し準備が必要ですから」
「わかりました。お忙しい中、ありがとうございます」
「いえいえ、私にとっても重要な研究ですから」
セラスの目に、一瞬、研究対象としてのエリザベートを見る冷たい視線が宿った。しかし、エリザベートはそれに気づかなかった。
セラスが帰った後、エリザベートは少し混乱していた。期待していたような明確な進展報告ではなかったが、研究が進んでいることは確かなようだ。
「お嬢様、いかがでしたか?」
マリアが心配そうに尋ねた。主人の表情が、来訪前ほど明るくないことに気づいている。
「セラス様の研究は順調に進んでいるようです。ただ、もう少し時間がかかるようですね」
「それは...良いことなのでしょうか?」
「詳細な研究をしてくださっているということでしょう。慎重なのは良いことです」
エリザベートはそう言いながらも、心の奥で小さな疑問符が点滅していた。なぜセラスの態度が変わったのだろうか。
窓の外を眺めながら、エリザベートは午後のバルドールとの面談に思いを馳せた。騎士らしい彼なら、きっと明確で力強い報告をしてくれるだろう。
午後、騎士団長バルドールが現れた。重い足音が廊下に響き、威厳に満ちた存在感が屋敷の空気を引き締める。
「エリザベート様」
書斎に入ってきたバルドールの表情は、これまでよりもさらに厳格だった。騎士としての威厳に、微妙な困惑が混じっているように見える。
「バルドール様、お疲れ様でした」
エリザベートは立ち上がって迎えた。バルドールの表情を見て、何か重要な発見があったのかもしれないと期待した。
「調査の中間報告をいたします」
バルドールの声に、微妙な距離感があった。以前のような親しみやすさが薄れ、より公式的な響きが強くなっている。
「お疲れ様です。どのような結果でしたでしょうか?」
エリザベートは椅子を勧めながら尋ねた。
バルドールは調査ノートを取り出したが、その動作がこれまでより慎重だった。ページをめくる手にも、どこか迷いがあるように見える。
「いくつかの重要な情報を得ることができました」
「それは素晴らしい」
エリザベートの目に希望の光が宿った。
「ただし...」
またしても、「ただし」という言葉。バルドールの表情が曇った。
「状況は予想以上に複雑なようです」
「複雑、と申しますと?」
エリザベートの期待が、再び不安に変わり始めた。
「複数の証言を照合した結果、いくつかの矛盾点が浮かび上がりました」
バルドールの目に、困惑の色が浮かんでいる。騎士らしい直截的な性格の彼が、このような曖昧な表現を使うのは珍しい。
「しかし、その矛盾点の解釈について、さらなる調査が必要です」
「具体的にはどのような矛盾でしょうか?」
エリザベートは身を乗り出した。
「それは...」
バルドールは言葉を選ぶように口ごもった。彼の目に迷いが見えるのが、エリザベートには不安だった。
「現段階では詳しく申し上げられません。もう少し確認したいことがあります」
バルドールの答えは、彼らしくない歯切れの悪さだった。以前なら、どんなに複雑な状況でも、騎士らしい明確な判断を示していたはずだ。
「証言者の中に...」
バルドールは一度口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「いえ、やはり現段階では申し上げられません」
エリザベートは、バルドールの歯切れの悪さに不安を感じた。これまでの彼なら、もっと明確に報告してくれたはずだ。
「何か問題があるのでしょうか?」
「いえ、問題というより...慎重に進めたいのです」
バルドールの正義感は変わらないが、その対象について迷いが生じているようだった。
「調査の過程で、予想していなかった情報が出てきまして」
「予想していなかった情報?」
「はい。それが事実なのか、それとも何らかの工作なのか...判断に困っているのです」
バルドールの困惑は深いようだった。白黒をはっきりさせたがる彼の性格にとって、この曖昧な状況は苦痛に違いない。
「もう数日、お時間をいただけますでしょうか」
「もちろんです」
「必ず明確な結論をお持ちします」
バルドールは立ち上がったが、その表情には以前のような確信が見られなかった。
「騎士として、真実を明らかにする義務があります」
その言葉には力があったが、どこか自分に言い聞かせているような響きもあった。
バルドールが帰った後、エリザベートの不安は深まった。二人続けて、はっきりしない報告だった。
「お嬢様...」
マリアが心配そうに声をかけた。
「何か、おかしくありませんか?」
「おかしい?」
「セラス様もバルドール様も、なんだか歯切れが悪いような...」
マリアの指摘に、エリザベートは自分の感じていた違和感が的確に言語化されたことを認識した。
「確かに...以前とは様子が違いますね」
「お二人とも、何か言いたいことがあるのに、言えずにいるような印象を受けました」
エリザベートは窓の外を眺めた。夕日が西に傾いているが、その美しさを味わう余裕はない。
「まさか...」
エリザベートの脳裏に、不吉な予感が浮かんだ。しかし、それを口にするのが怖かった。
「いえ、きっと私の考えすぎです」
夕方、情報屋ロイドが現れた時、エリザベートは最後の希望をかけていた。情報収集のプロフェッショナルである彼なら、きっと明確な結果を持参してくれるだろう。
「ロイド、お待ちしておりました」
書斎に入ってきたロイドの表情を見て、エリザベートは一瞬で事態の深刻さを悟った。
「エリザベート様」
ロイドの表情は、これまでにないほど複雑だった。職業的な冷静さは保っているが、どこか居心地の悪そうな様子だった。
「情報収集の結果をお聞かせください」
エリザベートの声には、もはや以前のような期待は込められていない。
「それについてですが...」
ロイドは椅子に座ったが、視線を合わせようとしない。これまでの彼なら、必ず依頼主の目を見て報告していたはずだ。
「少し複雑な状況になっております」
「複雑?」
エリザベートの心に不安が広がった。三人目も同じような表現を使っている。
「調査を進める過程で、予想外の情報を得ました」
ロイドの職業的な冷静さに、微妙な動揺が混じっている。
「どのような情報ですか?」
「それは...」
ロイドは明らかに言いづらそうにしていた。小さなノートを取り出したが、開こうとしない。
「あなたに関する情報の中に、確認が必要な内容があります」
「私に関する情報?」
エリザベートの声が震えている。
「はい。複数の情報源から得た内容なのですが...」
ロイドは職業的な習慣で、情報源の詳細を明かすことはない。しかし、その表情からは、相当に信頼性の高い情報であることがうかがえた。
「内容が一致しているため、無視するわけにはいかない状況です」
「それは私にとって不利な内容なのですか?」
エリザベートの声が震えている。三人全員が同じような態度を見せているということは...
「現段階では何とも申し上げられません」
ロイドの職業的な態度に、微妙な変化が見られた。以前のような依頼主への敬意が薄れ、より客観的で距離を置いた姿勢になっている。
「ただ、慎重に調査を続けさせていただきたいと思います」
「どのくらい時間がかかるでしょうか?」
「一週間ほどお時間をいただければ」
ロイドは立ち上がった。その動作に、以前のような親しみやすさはない。
「必ず結論をお持ちします」
「結論...」
エリザベートは、その言葉の重みを感じ取った。
三人全員から曖昧な報告を受けたエリザベートは、深い困惑に陥っていた。書斎に一人残され、沈黙が重くのしかかる。
「なぜ皆さん、はっきりしないのでしょう」
エリザベートはマリアに向かって呟いた。
「きっと慎重になっていらっしゃるのでしょう」
マリアは慰めようとしたが、その声にも不安が滲んでいた。
「でも、何か変です。皆さんの態度が微妙に変わっている気がします」
「私もそう思います」
マリアが同意したことで、エリザベートの不安は確信に変わった。
「三人とも、何か言いたいことがあるのに、言えずにいる様子でした」
「まるで、私に気を遣っているような...」
エリザベートは窓の外を眺めた。夕日が沈んでいくが、今日はその美しさを感じることができない。
「まさか...」
エリザベートの脳裏に、最も恐れていた可能性が浮かんだ。
「私に不利な証拠が見つかったのでしょうか」
その言葉を口にした瞬間、エリザベートは自分の心の奥底で、既にその可能性を受け入れ始めていることに気づいた。
「いえ、そんなはずはありません」
しかし、否定の言葉は空虚に響いた。三人の態度の変化は明らかで、何らかの重大な発見があったことは疑いようがない。
「明日...明日には、もう少しはっきりした報告があるでしょうか」
エリザベートの声は、希望よりも不安に満ちていた。
その夜、エリザベートは不安に苛まれながら眠りについた。体調の悪化も続いており、頭痛とめまいが断続的に襲ってくる。
三人の協力者たちの微妙な変化が、何を意味するのか。明日、さらなる展開が待っているのか。それとも、今日の曖昧な報告が続くのか。
エリザベートの心は、期待と不安の間で激しく揺れ動いていた。協力者たちへの信頼は変わらないが、彼らの態度の変化は否定できない事実だった。
「もしかして、私は間違っていたのでしょうか」
暗闇の中で、エリザベートは小さく呟いた。これまで信じてきた自分の無実に、初めて疑問を抱き始めていた。
「いえ、そんなことはありません」
しかし、その否定にも力がない。三人の協力者たちが同じような反応を見せているということは、何か決定的な証拠が見つかった可能性を示唆している。
三人の協力者たちは、それぞれ重大な決断を迫られていた。そして、その決断は間もなく、エリザベートの運命を大きく変えることになる。
今夜はまだ、最後の平穏な夜だった。嵐の前の静けさが、屋敷を包んでいる。
明日から始まる真の試練に向けて、エリザベートは知らず知らずのうちに心の準備をしていた。希望から絶望への転落が、もうすぐ始まろうとしていることを、薄々感じ取りながら。