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「ふむ、」


 隻眼の男性は、東国風の緩い服装――着流しと呼ぶらしい――で足の動きを隠し、中腰で腰の曲剣に手を添えた。

 隙など微塵も見えないその姿勢は、間合いに入ったものを全て切る、そんな覚悟を感じられる不退転の構え。


「あっぶなぁー……」

「あれを避けられるということは、よもやただの執事ではあるまいな」

「ただの執事でーす、って言っても信じてくれませんよね」

「ははっ、……面白い冗談だ」


 首の皮一枚――寸前のところで回避に成功した不可避の抜刀術。

 それは、キトゥ流の免許皆伝に至ったウィリアムですら、見てから回避することは出来ないほどの速度であった。


「あの、そこ通して貰いたいんですが」

「ここを通りたくば――」

「倒してから行けってことですか。うーん……」


 床から拾い上げたテーブルナイフを手に、一歩ずつ後ずさりしていくウィリアム。

 男――ツクヨミは、ウィリアムとの間合いを無理に詰めようとはしない。

リーチの差も、速度も差も一目瞭然、ならば待ちに徹するだけで勝てると、経験上分かっているからだ。


 ――さて、どうしてこんなことになったか。それは、10分ほど前に遡る。


「ごめんなさいね、急に頼んじゃって」

「いえいえ、お安い御用ですよクレア様。困った時はお互い様です」

「ふふ、今度はあなたの仕事もお手伝いしますからね」


 そんな談笑をしながら離宮を歩いている、二人の男女の姿があった。

 男は若く、恐らく執事見習いであろう真新しいバトラースーツを着込んでいる。

 女は年老いた、メイド長よりも更に年を取っているであろう、老婆に差し掛かったメイドである。


 王宮から離宮に届け物をしようとしていた老メイドを見かけた執事が、代わりに荷物を運んでいるところであった。

 老メイドは離宮で働いているわけではないが、50年近くも王宮に勤めているので、離宮を含めて顔馴染みはいくらでも居る。

 そんな老メイドが荷物を離宮に運び込む姿は皆見慣れたもので、離宮の玄関に立つ護衛騎士を顔パス、そして主の住まう寝室の近くまで差し掛かったところで――


「ちょいと、そこな御仁」

 後ろから声が掛けられた。


 二人が振り返ると、どこから現れたのか――東国風の衣服に身を包んだ、40を少し超えたくらいの男性の姿がある。

 どちらが呼び止められたのか分からず疑問の表情を浮かべた二人に、男性は指を向ける。――執事の方だ。


「ツクヨミ様、こちらは王宮に去年から務めている、ウィルさんですよ」

「ウィル、とな」

「はい。ウィル・バートンと申します。普段は王宮の厨で仕入れや在庫管理をしています」

「ふむ……」

 隻眼のツクヨミは、薄目を開け、鋭い眼光で()()()を見る。


 ――して、


 小さく「歩幅がな、」と呟くと同時に、ツクヨミが剣を抜いた。

 風を切るより、更に速く振り抜かれたその剣は、ウィルとその隣に立っていた老メイド、クレアごと世界を寸断せんとし――、虚空を切った。


「はぁっ!?」


 ギリギリで回避――、といってもクレアを突き飛ばすよう倒れ込んだウィルは、一瞬にして冷や汗を流していた。


「クレアさん、誰か分かんないけどこの人危ない! 逃げて!」

「は、はいっ!!」


 慌てて床を這いずるようにして逃げていくクレアを目だけで追っていたツクヨミは、ゆっくり立ち上がって後ずさりをしたウィルに視線を向けることすらなく――

 それどころか、剣に手を触れたことすらウィルに気付かせないほど自然な動作で、鞘に納めた曲剣を再び振り抜いた。

 今度は、ウィルを直接狙う角度かつ、先程より速く、光を置いていくほどの速度で――


「あっぶなぁー……」


 たった、一歩を踏み出されただけだ。

 それだけで、届かぬはずの距離は一瞬にして詰められた。

 ウィルが――()()()()()()得意とする抜刀術に少しだけ似た動作があったから、間合いをギリギリ読み、首の皮一枚分だけ回避出来たにすぎない。


 風圧で首が落ちそうな速度で振り抜かれた曲剣は、すぐに鞘に納められる。鞘に戻すという動きがマイナスに働かないということは、恐らく、鞘走りを使って速度を上げる性質の抜刀術だろうな、とウィリアムは結論付ける。


(それはそうとして、次は避けれないかな)


 恐らく、ツクヨミの抜刀は、首を落とそうとしたものではない。頸動脈か気管支か――最低限相手を殺し切る軌道を通っていた。

 だからこそ回避出来たのだ。だが、あれが首落としを狙って、足の指一本分でも前に踏み込まれていたら、今ここにウィリアムの命はなかった。


「あれを避けられるということは、よもやただの執事ではあるまいな」

「ただの執事でーす、って言っても信じてくれませんよね」

「ははっ、面白い冗談を言う」


 ツクヨミの抜刀術を回避出来る騎士は、近衛にもそう多くはないだろう。

 そもそも近衛騎士は大抵首元まで覆い隠す鎧を装着しているので、首狙いは基本的に無効である。鎧ごと切り裂けるなら別かもしれないが。


「あの、そこ通して貰いたいんですが……」


 後ろから声を掛けられたせいで、帰るにしてもツクヨミの横を通らなければならない。離宮は王宮とは比べ物にならないほど廊下が狭いので、剣の間合いを避けて走って逃げるのは恐らく不可能である。

 そのために、隠れていた部屋か廊下を通り過ぎてから声を掛けてきたのだろう。対峙するか先に進むか、二択しかない。

 「ははっ」と、どこか嬉しそうに笑うツクヨミは、きっとそれが言いたかったであろう、お決まりの台詞を口にした。


「ここを通りたくば――」

「倒してから行けってことですか。うーん……」

 先んじて言葉を続け、溜息を吐いた。


 ウィリアムは、普段から武器を持ち歩いているわけではない。

 当然、ペリドット――近衛騎士として城に居る時は帯剣しているが、メイドであるメイベルの時はスカートに隠せる短いナイフが数本だけ、ウィルとして執事に扮している時はナイフの一本すら持っていない。バトラースーツは生地が薄く、暗器くらいしか仕込めないが、ウィリアムが父から叩き込まれたキトゥ流に暗器術はないのだ。


「これくらいかぁ……」


 クレアが運んでいた、床に散らばった品の中には銀に煌めく美しき装飾が施されたテーブルナイフがあったので、拾い上げる。

 ナイフ術は一通り習っているが、いくらなんでも短すぎる。指二本で掴む程度のテーブルナイフで、あの曲剣を受けることなど不可能だろう。


「名は」

「ウィル・バートン」

「……ふむ、そういえば20年ほど前に、そんな姓の騎士が近衛に居たが――縁者かな」

「さぁね」


 なお、バートンは父の側近の一人の姓である。未婚で子は居ないが、ちょいと書類を偽造して子が居ることになっている。

 元近衛というのは事実なので、ツクヨミが知っているのは本人の可能性はあるが、田舎に移り住んでからのことは当然知らないはずだ。


「……違うな」

 だが、ツクヨミはすぐに否定し首を振った。


「骨格が違う、どちらかというとこれは――」

 おしゃべりはこれで終わりかと言わんばかりに、ツクヨミは剣を抜いた。


 中腰に構えてからの抜刀は、どこかキトゥ流に近いものがある。

 だが、力を込めるための脱力を主とするキトゥ流と、息をするのと同じくらい自然な動作で剣を抜くツクヨミの抜刀術は、その性質が大きく異なる。

 予備動作まで全て見えているというのに、全ての動きが自然すぎて剣を抜かれたとも意識出来ない――それがツクヨミの抜刀だ。


 ――が。


「ギリ、逸らせるか……」


 一歩も下がることなく、その剣は宙を切った。――いや、逸らされたのだ。

 テーブルナイフを逆手に握ったウィリアムが、アッパーカットのような動作で曲剣の軌道に刃を合わせ()()()()()――言ってしまえば、それだけである。

 ツクヨミの曲剣はウィリアムの頭髪を数本、切られたことすら気付かない速度で切り飛ばしたが、ウィリアム本人には傷一つない。


「ははっ、やはり、黒曜石(オブシディアン)と同じだなぁ!」


 抜刀を三度も外したというのに、どこか嬉しそうにツクヨミは笑った。

 『黒曜石(オブシディアン)』――それは、ウィリアムの父、エルドレッド・ハルフォードが近衛騎士団長だった頃の号である。

 キトゥ流の免許皆伝であるウィリアムは、確かに父から学んだ剣を、歩法を、呼吸を体得している。――が。


「こんだけで分かるとか狂ってるでしょ……」

「潜入ならもう少し素人らしさを出すものだぞ、若造」

「心に刻んでおきますよ。んで、逃がす気は?」

「あるとでも?」

「だよねぇ……」


 ウィリアムが剣を逸らすのに使ったテーブルナイフに視線をやると、鉛筆ほどに細く削れてしまっていた。ツクヨミの抜刀に刃を合わせて逸らすのに、テーブルナイフでは薄すぎたのだ。

 次は持たない。なら要らないなとぽいと放り投げたが、代わりに使えそうな刃物や手頃な金属は残念ながら落ちていない。


 故に、ウィリアムは。


 ――右手の拳を浅く握りまっすぐ前に伸ばし、左足を下げて半身に構える。

 拳法家のようなその特殊な構えを見たツクヨミは、嬉しそうに口角を上げた。大方、既に父が見せてしまっているのだろう。

 して、ツクヨミは無手のウィリアムに再び神速の抜刀を繰り出し――


 その刃が、ウィリアムの拳を寸断する、その直前。

 拳が開かれた。知覚より速く、思考より速く――、ほぼ無意識に動くその指先は、親指と人差し指の僅かな隙間を曲剣の軌道に合わせ――、


 ――()()()

 指先の握力一つで剣を止め、瞬きほどの動作で拳を引き戻したウィリアムは、溜めていた左足で前に出る。

 ウィリアムの左手がぐんと伸びる。ツクヨミが剣を握る、その右手に向かって。


 しかし、ツクヨミはその動きまで読んでいたか、ほんの半歩下がった。

 それにより剣と左手は宙を切り、刃先を握っていたウィリアムの右手から鮮血が飛び散った。


 ウィリアムが狙ったのは、キトゥ流極意――『白取り』。

 相手の剣を右手の指で受け止め、返しの左手で持ち手を狙う技である。


 ウィリアムはそれを、たった二本の指で、横なぎの抜刀術に対して行ったのだ。

 無手で相手の武器を奪う。無謀にも程がある技。しかし、キトゥ流においては、戦場で武器を失った時に使う、切り札として教えられる。

 ――ウィリアムがこの技をまともに使えたのは、今この瞬間が初めてであった。


「…………」

「…………」


 一瞬だけ、静寂が訪れる。

 過集中により、すぅっと鼻血が垂れるのをウィリアムは感じる。右手――剣に触れてしまった指先からはぽたぽたと血が流れた。

 太い血管に傷はついていないので、放っておいても治るだろう。だが、怪我をした以上、同じ技を二度使うわけにはいかない。


 ウィリアムは右手を下げると、今度は左手を前に出し、右足を下げた。

 ()()()()()()()と、そんな覚悟を見たツクヨミは、嬉しそうに口を開き――


 ――剣を、抜いた。

 

 ツクヨミは油断していたわけでも、手を抜いていたわけでもない。だがそれでも、これまでは全力ではなかった。

 相手はたかが執事――に扮した諜報員か何か。見知った流派の剣術を学んでいるようだが、武器すら持っていない。

 自分が殺せぬはずがない。そう思い込んでいたから、無意識のうちに力を抜いてしまっていた。殺し合いにはならぬと、意識のどこかを無傷での生存に置いてしまっていた。

 故に、先の白取りを無意識で避けたのだ。万が一にも武器を奪われてはいけないと、そう考えてしまった。――あのまま振り抜けば、仮に剣が奪われたとしても、少なくとも右手は奪えたはずなのに。


 ――だが、『白取り』を見たことで、それは勘違いだったと知る。

 それが、ウィリアムにとっては奇跡の成功だったにも関わらず――


 今度こそツクヨミは油断せず、慢心せず、本当の本当に、全力で首を落とす抜刀を披露した。

 途中で掴まれても、奪われても、何があろうと首を落とせる速度と角度で剣を振るった。


 ――そう、最速であるが故、

 最適な軌道を通るが故、

 その抜刀は、たとえツクヨミ本人であっても、止めることも、逸らすことも出来ぬもの。


 ――そして、

 最初から最適な軌道を通るのが分かっているのであれば、見えずとも、避けることが出来ずとも、()()()()()に当てることは容易である。


 ウィリアムは、ツクヨミの抜刀に合わせ、僅かに首を逸らし、足指で背を伸ばし、胸を持ち上げた。

 その勢いで左手を下げる。――最初から二度目の白取りをするつもりはなかったから。


 ――首を狙っていたツクヨミの剣が、ウィリアムの胸部を削ぐような軌道を通る。

 その刃は、胸筋があるはずの場所を――切った。

 宙に衣服が舞う。すっぱりと、バターのように切断されたバトラースーツの胸部が、地に落ちるその寸前。


 ツクヨミは、見た。

 剣を振り抜いた、スローにも感じる時間の中、

 ――つい先程まで衣服で強く圧し潰されていた()()、飛び出すのを。


「は?」


 声が漏れた。――その瞬間。

 胸を持ち上げる勢いで振りかぶられていたウィリアムの足先が、ツクヨミの顎を打った。

 すこーんと、完璧な角度で死角から顎に直撃した足先――なお鉄板入りの安全靴である――は、一瞬にしてツクヨミの意識を刈り取った。


「…………」


 そのまま数秒待つ。

 ツクヨミが動く気配がないことを確認し、ウィリアムは力尽きて床に倒れ込んだ。


「し、死ぬかと思ったぁ……」


 露出した胸を抑えることもなく、天井を眺める。まずはここで呼吸を整え――――


「ペリドット!?」


 ほんの数秒意識を失っていたウィリアムは、聞き覚えのある声を聞いて目を覚ます。

 倒れたまま声のした方向を見る――そこには、クリーヴランド王国の王太子、ノア・クリーヴランドと、老メイド、クレアの姿があった。

 恐らく、クレアが王宮に走り、ノアを呼んできてくれたのだろう。そこまで思考が思い当たっても、ここはノアの母、王妃リオノーラが住む離宮だ。ここには足も踏み入れたくないと以前語っていたが――


「え」

 しかし、ノアはウィリアムに近づくと、ぴたりと足を止めた。


 ――その視線が、胸部に向いていることに気付き、

 ウィリアムは、ようやく自分がどんな格好をしていたか、思い出す。

 ――――して。


「見るな変態」

「怒るならそんな堂々と見せるなよ……」


 ようやっと追いついたクレアが、ウィリアムの胸を拾った布で隠す。


「ウィル」

「……すみません、黙っていて」

「いえ」


 クレアは、怒るのではなく、優しい目でウィリアムを見る。

 腰の曲がった矮躯のどこにそんな力があるのか――お姫様抱っこのようにウィリアムを抱き上げたクレアは、そのまま離宮の外に向かって歩き出す。

 ――止めることは、誰にも出来なかった。


 そのまま離宮を出、王宮に入り、クレアが一人で使ってる使用人室まで連れて来られたウィリアムは、ようやく床に下ろされた。

 セドリックは少しだけ落ち着いたか、少しだけ紅潮した顔を、ぷいと背ける。


「あの、」

 ウィリアムはクレアに向かって、口を開く。――が、クレアはぷいと顔を逸らした。

「聞きません」

「……これまで、ありがとうございました」

「あら、()()()()辞めるの?」

「…………」

 クレアは、にっこりと笑いかける。


 まるで()()()()()()()()()()とでも言わんばかりの笑顔で、()()()()辞めるのかと、――そう問うたのだ。


「メイドを辞めるというのなら、私でなくメイド長に言ってくださいね。まぁ、執事としてはもうここに居られないでしょうから、ウィルの分は私が()()しておきます」

「処理……?」


 疑問に首を傾げたウィリアムに、クレアはポケットから小さな懐中時計を見せる。

 ――()が描かれたその懐中時計は、セドリックすら実物を見たことがなかったもの。


「「え、えぇー…………」」


 何も知らなかった二人の声が、仲良く重なる。

 ふふふと笑うクレアは、懐中時計をしまい、「あとは若い二人に」と告げると、そそくさと部屋を出て行った。

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