3-2
「クラルのやつ……レポート五枚つったのに、試用運転用の術式を渡しやがって」
ブツブツと小言を呟きながら校舎裏を歩くのはクラルの友人、ヴィンだ。
彼の手には、五通りの術式が書かれた用紙が握られており、紙の端には"エイベルト"の署名と、上から魔術研究会の判が押されている。
授業が終わり、一時教室に戻った際、「悪いけど、これでレポートの代わりにならないか」と受け取ったのが、この術式用紙だった。
中身を確認する前にクラルが日直で呼び出されてしまったため、断る隙がなかったのだ。
(まぁ、彼の解釈と擦り合わせする機会になるから別にいいが。なんせ、あいつは太ももでこっちはスカートだからな)
魔術が好きなところは意気投合する二人だが、魔術に対する姿勢はどうしてもそれぞれ異なる。
術式の方向性や意識の違いで意見が衝突することはもはや日常茶飯事、議論を交わす内に期限が迫ることはざらにあった。
より良い物を作るためには重要なことだが、限られた時間内で完成させるには予め方向性の擦り合わせをする必要があるのだ。
「さてと、ちゃちゃっと試してレポートを提出せねば」
気を取り直して歩みを進めた時だった。
校庭へと続く曲がり角の向こう側で、女子生徒の「わっ!?」と叫ぶ声が聞こえた。
なんだなんだ、と角を曲がると、そこには肩から下にかけてローブごと地面に埋まったユアの後ろ姿があった。
(……何故に彼女が埋まってんの?)
穴に落ちた、にしては、やけに不自然な埋まり方をしている。そして、微量に空中に残っている魔力、色、臭いから察するに、使われたのは恐らく対魔物用の足止めに多用される罠魔法――。
(嫌がらせ、か)
彼女が嫌がらせを受けるのは、もはや日常茶飯事のことだった。
多くの犠牲を出した数年前の魔物襲来事件。その引き金となった張本人となれば、当時の恨みを持つ者にとって目障りな存在であることは明白だ。
安全圏から攻撃をしかけ、それで溜飲が下がるのならば言うことなし、ユアが根負けして学園を去れば万々歳、といったところだろうか。
(たくっ、クラルのやつはどこでなにをして……)
いつもならユアを助けに颯爽と現れる頃合いなのだが――と思いながら、はたと気付く。
(あいつ、今日は日直当番だったか)
今頃、校庭の隅で魔法実技用の備品を片付けているところだろう。
校庭からここまでならそう遠くないはずだ、と地面から頭を出してもがいているユアに目を向ける。
(このまま手を貸すことくらい、なんてことはないだろう、が)
見えないところで友人の本命にちょっかいをかけるほど非常識ではない、と踵を返す。
(クラルのところまで行き、一言添えるだけで良い。それだけであいつは一直線にここへ向かうだろう。大丈夫、いつも通りだ――)
足早にその場から立ち去ろうとすると、ユアの居る方向からズボッと音がした。
「くぅっ、この……!」
(はっ?)
なんと彼女は、魔法も使わずに地面に埋まった左腕を抜き、同じ要領で右腕を引き抜くと、両腕の力だけでグリグリと地面から身を剥がしながら脱出したのだ。
(自力で出やがった)
肩で息をしながらローブに付いた泥や埃をパタパタと叩くユアの様子にヴィンは唖然とした。
(なんっつーか、クラルんとこの姫様は逞しいな)
魔法も使わず、助けも借りず、自力で困難を乗り越え、その顔には一切悲壮感というものを感じさせない。
ヴィンにとって、あまり出会ったことのない人種であることは確かだった――。
「どうしよう、こんなに砂だらけになってたらまたエイベルト様に疑われる」
なかなか落ちない汚れに焦りを浮かべていると、突然後ろから強い風が吹き付け、ユアの焦げ茶色の髪を掻き乱した。
「……!?」
その風はユアの体についた汚れを綺麗にさらっていき、仕上げに足元で一、二、三回転すると役目を終えたとばかりにフッと消えてしまった。
慌てて振り返ると、術式の用紙と充填式ペンを持った黒縁眼鏡の男子生徒が渋い顔で立っていた。
「あ、あのっ、今の……」
「風魔術を生かした簡易汚れ落とし。試用運転の実験台になってくれる人を探してたから」
決まり悪そうにペンと使用済みの用紙をローブの懐にしまうヴィンに、ユアは首を傾げながら口を開いた。
「ありがとうございま、す?」
(何故に疑問系?)
ユアに合わせてヴィンの首も傾く。
一体彼女はなにに戸惑っているのだろうか、と考え、ふと互いに初対面であることを思い出した。
(あー、余計なお世話だったか)
ヴィンにとってみれば、クラルから定期的にユアのことを聞いていたため随分前から知っているように錯覚していたが、彼女からすれば、突然現れて魔術を使ったかと思えば馴れ馴れしく話し掛けてきた変な人、という認識だろう。
そりゃそんな反応するわな、と反省していると、窺うように下から覗き込むユアと目が合った。
(サラサラとした髪に青い瞳……第一印象は清楚系、といったところだろうか。クラルのやつ、こういうのが趣味か)
「あの、お名前――」
友人の好みを勝手に想像して唸っていると、ユアの口が開かれた。
ふと我に返ったヴィンは、ユアの言葉を途中で遮るように歩き出し、ツカツカと彼女を通り越した。そして、
「勘弁してくれ、こちとら深淵に足を踏み入れる度胸なんてこれっぽっちもないんだわ」
彼女に聞こえるように呟きながら、振り向きもせずにそのまま歩みを進めた。
(なんだか思っていたよりも、悪い娘ではなかったな)
悪評通りの人間、とまではいかなくとも、これだけ周りから嫌われているのだから、心の中に闇の一つや二つ抱えているものだとばかり思っていた。
しかし、いざ蓋を開けてみれば、そこにいたのは悪意に屈しない、逆境をものともしない、強くて真っ直ぐな女の子だ。
「ほんと、噂ってあてにならんよな」
いつかの友人に抱いた感想と同じ言葉が口をつき、苦笑いを浮かべた時だった。
「……ん? うおっ!?」
ゴゴゴ……と低い地響きと共に地面が揺れ出した。
縦の揺れに転びそうになるところを足腰で踏ん張り、状況を確認していると、
「おいおい、マジかよ」
地面の亀裂から砂埃が巻き上がり、火災用スプリンクラーがホースをブン回しながら出てきた。
機体にほとばしる黒い火花、刻まれた術式の赤い点滅……ヴィンはこの症状に覚えがあった。
――魔力暴走だ。
「校内メンテナンス直後だろ!? 何故に魔力暴走なんか起こして……!」
魔術に長けているからこそ魔力暴走の対処を知っていたヴィンは、咄嗟に解除魔法を手に込めたが、
(駄目だ、間に合わない……!!)
魔力の供給に対して放出が追い付かず、膨れ上がったエネルギーはより暴走に拍車をかけ、人間の対応できる速度を超えた動きでヴィンに襲いかかった。
「くっ……!」
万事休す、とばかりに目を瞑った、その時。
突然後ろから閃光が走り、ヴィンを追い越すとスプリンクラーに向かって白い刃を振り下ろした。
振り返ると、恐ろしいほど引きつった形相で手をかざし魔力の手綱を引くユアの姿が目に映る。
(なっ……魔法使えないんじゃなかったのかよ!?)
そう思うのも束の間、一つ遅れて轟音が辺りに響き渡り、凄まじい風圧に負けてヴィンは尻餅をつく。
気付けば、目の前に魔力が抜けて微動だにしなくなったスプリンクラーの骸が煙を上げながら転がっていた。
「……はぁ……はぁ」
静寂の中、ユアの乱れた息だけが耳につく。徐々に状況を理解したヴィンの口から、気の抜けた溜め息が漏れ出た。
(一撃で吹き飛ばしたというのか)
魔力暴走というのは一度の解除魔法では効かないことが多い。
一瞬の無効化をついて、そこからゴリゴリと魔力を削り落としていき、ようやく沈静化することがほとんどだ。
だが先ほどユアが放ったのは、解除とは全く関係ないただの光魔法の塊だ。
たったそれだけで暴走した魔力を追い出し、一度でスプリンクラーの動きを止めてしまった。
「……ゴフッ!」
「お、おい大丈夫か」
突然首元に手を当て、湿った咳をしながらその場に膝をつくユアに、ヴィンは慌てて駆け寄った。
しかしユアは目尻に涙を浮かべながらも、これ以上近付けないように手で制した。
「げほっ……大、丈夫……構わない……で、くださ……ごほっ、ごほっ!」
(いや、無理だろこれ)
顔を真っ青にして激しく咳き込むユアの様子は、どう見ても大丈夫そうには見えない。
けれどこの嫌がり様は、無理に医務室へ連れていこうとしたところで大人しく運ばれてくれるかどうか。
「クラ……エイベルト氏を呼ぶ。君はそのまま楽な体制で――」
「駄目……」
「は?」
突然ローブの裾を掴まれ思わず振り返ると、よろよろと立ち上るユアと目が合った。
「けほっ……迷惑かけ、る……からっ、けほっ……言わないで……!」
「おい、こら待て」
震える膝をどうにか奮い立たせ、言いたいことだけ言うとユアは逃げるようにその場を走り去った。
取り残されたヴィンは、彼女が去っていった方向を呆然と見つめながら、目の前で起きたことを反芻した。
(爆発的な魔力量、魔力暴走を一撃で沈静化した――)
「……彼女は本当に、無害な人間なのか? クラル」
浮かんだ疑問が口をついて出ると、遠くからヴィンを呼ぶ声が微かに聞こえた。
「――ヴィン、これは一体」
「クラルか」
先ほどの大きな音を聞き付けてやってきたのだろう、息を切らせながらクラルが走ってきた。
目の前に横たわるスプリンクラーを見るなり眉間にシワを寄せる。
「魔力暴走……校内メンテナンスがあったばかりなのに?」
「すぐ学園に報告する。整備不届きで怪我人が出たらたまったもんじゃない」
「全くだ」と肯定し頷くクラルの様子に安堵を覚えた。立て続けに起こる異常事態によって気を張りすぎていたのかもしれない。
「こう言っちゃなんだけど、当たったのが対処できるヴィンで良かったのかもしれない。普通の人間なら確実に大怪我を負っていただろう」
まるで、全信頼を置いているような友人の発言に後ろめたさを感じたヴィンは「俺はなにも……」と返す。
しかし、ヴィンの呟きは届かなかったようで、クラルは腕組みをしながら横たわるスプリンクラーをまじまじと観察した。
「しかし、相当魔力を溜め込んでいたようだね。それをうっかり見逃してしまうとは。魔術を専攻する者としては、我が身と思ってしっかりと戒めない、と……」
「クラル?」
突然、クラルを纏う空気が変わった。
なにかを察知したように目を見開くと、口元に手を置き考え込む。
そして振り返ると、強い確信を持った視線をヴィンに向け、静かに口を開いた。
「――ヴィン、君の他にも誰かいた?」
クラルの言う"誰か"、が誰のことを指すのか、聞かなくとも分かる。しかし、つい先ほどまでこの場にいた少女のことを伝えようと口を開きかけた途端、
『言わないで』
彼女の言葉が脳裏を過った。
「別に、誰もいなかったさ」
一つの間を置き、出てきたのは彼女の意思を尊重した一言だった。
(本当のところはわからない、けれど彼女がそう願うなら、俺から言うことはなにもない)
ヴィンの言葉を聞いたクラルは「……そうか」と呟くと、いつもの表情に戻っていった。
(一瞬、ユアの強い魔力を感じた。けれど……いやまさか、そんなはずはないか)
再び口元に手の甲を戻して思考を巡らすクラルの様子に、ヴィンは腹の底から言い様のないモヤモヤとした感情が溢れてきた。
ユアの一件を伏せたのは自分だが、それでも普段のクラルなら違和感に気付いて核心に迫りそうなものなのに。
「……お前なぁ、やっぱり気が弛んでるだろ、この休みボケ野郎!」
「なんだよ、魔力暴走に当たったからって僕に八つ当たりしなくても――」
二人でぎゃあぎゃあとまくし立てている内に、異変に気付いた教師が数人を引き連れて現場に到着した、その頃――。
校舎地区と居住地区の間にある森の、木々に囲まれた茂みに隠れるように腰をおろしたユアは、破裂しそうな胸を押さえ必死に呼吸を宥めていた。
(肺が……痛い)
男子生徒を助けるために無理矢理練り上げ放った魔力は、想像以上の威力を見せた。それは、かつて神童と呼ばれていた頃の魔力と同等と呼べるほどの膨大な力だった。
けれど、その魔力は己の意図しない動きを見せはじめ、まるで破れた血管から吹き出る血のように溢れ出し、止まらなくなった。
辛うじて制御できたものの、暴れ狂う魔力の手綱を必死で握っている内に突然、肺が詰まったような感覚に襲われて、うまく息ができなくなった。
今までに体感したことのない感覚に戸惑い、クラルに迷惑をかけるかもしれない、という焦りから逃げるようにその場を去ってしまったのだが。
「……さっきのは、一体」
そう呟くと、少しずつ落ち着いてきた心拍の代わりに沸き起こる不安を抑えようと、両手で肩を抱き寄せてうずくまった。




