瞬殺の剣士
ヴォルテーヌ家の一人娘ラシェルは、家を継げる者と結婚しなければいけなかった。
それなりの家格の者と恋にでも落ちることができればよかったのだが、時に淡い恋心を抱いても自分からそれを口にすることもできない初な娘は、恋は憧れるだけにし、親の決めた相手と誠実に生きていくことを決めていた。
ラシェルが18歳になったある日、ラシェルの父エクトルは、娘の夫になり、ヴォルテーヌ伯爵家を継ぐ意欲のある者を募った。
条件は、もちろん独身であること。領地を経営する手腕を学んでいるか、経験のあること。
さらに剣の心得のある者という条件を加え、近く街で行われる聖剣祭で開催される闘剣会に必ず参加し、その順位の高い者から順に申し込み、ラシェル自身が決めることとした。
父エクトルはもちろん、ラシェル自身も剣の試合を見るのが好きだった。自身は剣を使えないが、幼い頃から父や叔父に連れられて剣の試合を見る機会が多く、剣を交え、火花を散らして戦う姿を恐れることなく、むしろ頼もしいと思い、明るく声援を送っていた。
十人ほどの若者から申し込みがあったが、中には既に婚約者のいる者や、領地経営の事など学んだこともない平民もいた。エクトルは申し込んだ者全てをそのまま選考対象にするのはやめ、うちの四人に絞った。
そのうち二人は最初から名を明かしたが、二人はエクトルにだけ名乗り、ラシェルにさえ名を伏せ、闘剣会の後に名乗るか、あるいは身を引く事になっていた。
最初から名がわかっていれば、闘剣会でその腕前を確認することができるのに、とラシェルは少し不満に思ったが、よくよく考えれば、闘剣会に出る人は知っている人が多い。知らない人だけを注意して見ればいいのだから、そんなに気にしたものでもないだろう、と思い直した。
剣に自信がないのかもしれず、あちこちに結婚の申し込みをしていることがわかれば、次の縁談に差し支えがあるのかもしれない。自分のような者にあえて申し込もうとしてくれているのだ。ラシェルは相手に名乗りを強いなかった。
名を明かしたうちの一人はノエル・マレシェル。子爵家の三男で、面識はなかった。恐らく、家督を継げる家の令嬢を探していたのだろう。剣の試合でも見たことはなかった。
もう一人は、アルベール・ラ・トゥール。ラ・トゥール伯爵家の次男で、幼い頃から家族ぐるみで付き合いがあった。
アルベールとは四才年が離れていたので、さほど一緒に遊んだ記憶もなかった。弟のユーグの方が話す機会も多く、今でも交流があるが、夫となると親しさよりも別の基準があるのだろう。
アルベールの剣の腕は確かだった。確か騎士団に所属していて、十指に入る腕前と聞いたことがある。
聖剣祭を前に、ラシェルはユーグに会う機会があり、アルベールのことを聞いてみた。
「剣の腕なら確かだよ。兄が選ばれたら、領地のことは君も関わらないといけないかもしれないね」
「それは大丈夫だけど…。恐い人? 領地のことは男に従えとか」
ちょっと警戒しながら聞くと、ユーグは笑って
「いや、多分今の仕事を続けて、領地のことは君に任せっぱなしになるんじゃないかな」
と答えた。
久々に兄の試合を見たいと言うので、闘剣会にはユーグと一緒に行くことにした。
昔から体が弱かったユーグは、人に酔ったから外で休む、と言って、侍従を連れて席を離れた。
ラシェルは今回の闘剣会はどうしてもしっかり見ておかなければいけない。ユーグもそのことをわかっていて、一人にして悪いけれど、ゆっくり見てまた話を聞かせて欲しい、と言った。席にラ・トゥール家の護衛をつけてくれていたのは、婚約者になるかもしれない者への配慮だろう。
祭の行事の一つでもある闘剣会は、お忍びで参加する者も多く、仮面をつけることも匿名で参加することも許されていた。
仮面姿の者が婚約者候補だった場合、どう判定したら良いのかわからないが、誰が「実は私でした」と言っても慌てないで済むくらいには、すごい人とその他大勢は見極めておこう、と考えていた。
ノエル・マレシャルはあまり剣がうまくなかった。勢いで突っ込み、当たって砕ける質のようで、冷静さも欠いている。恐らく、今回の婚約者選定に必要だから参加しただけで、本来こうした行事には出ることはないのだろう。弱さ以上に、試合に対する挑み方にあまり好感が持てなかった。
ユーグの兄、アルベールは、剣の扱いも慣れていて、なかなか慎重な剣さばきで重厚な剣を操っていた。順調に勝ち進んでいたが、準々決勝で他国の騎士に敗れた。
アルベールを打ち負かした、大柄で金色に輝く髪の男は、ラシェルの目を引いた剣士の一人でもあった。決断力があり、じっと相手の様子を伺った後に放つ一撃は、切れ味もよく、豪快だ。
ラシェルが気になったのは、この金の髪の男の他に二人いた。
一人は準決勝で敗退したのだが、小柄な体格を有効に使い、すばしっこく鋭さのある動きで相手を翻弄していた。恐らくまだ学生なのではないだろうか。
もう一人は、特異だった。何試合か見たが、気がつくと終わっている。ろくに相手と剣を交えることなく、あっという間に勝負をつけるのだ。見逃すまい、と意識していても、あまりの速攻と、確実な攻撃で、相手も自分が負けたことに納得がいかない様子だった。
何か事情があるのか、その人は仮面をつけていた。あまり大柄でもなく、どちらかといえば細い方だろう。ラシェルが見に行く剣の試合でも、今まで見たことがなく、他国の者か、まだデビューしていないほどに若いのかもしれない。
そして、その人があれほどまでに自信にあふれていた金髪の剣士をものの数秒もかけずにあっという間に倒してしまったのだ。
勝負を見逃した者も多く、金髪の剣士が自身の敗北を認めるにも時間が必要だった。
それ程までに剣が速く、突いた箇所は的確だった。真剣だったら、恐らく命はなかっただろう。
ラシェルはその剣技に思わず見とれてしまった。
優勝したのは、その瞬殺技で勝ち続けた剣士だった。
優勝した者は、祭の主役である剣の乙女から賞金を受け取り、その際には仮面を取らなければいけない習わしになっていた。
しかし、表彰式にその剣士は現れなかった。
賞金は宙に浮き、一週間経っても取りに来ない場合は、受け取る権利が剥奪されることになった。
賞金を目当てにしていた者達は、賞金を受け取らない勝者にいらだち、様々な悪口があちらこちらで語られたが、どれも信憑性はなかった。
ラシェルは瞬殺の剣士が誰かわからなかったことが残念だったが、実に見応えのある闘剣会を充分に満喫した。そのせいで、忘れていたのだ。体調が悪くなり、戻ってこなかったユーグのことを。
ユーグは馬車で待っていた。試合の間、馬車の中で横になっていたと言い、ラシェルを乗せるため、一旦馬車を降りたその顔は少し青ざめていた。
「無理しなくていいのよ」
そうは言っても、ラシェルに手も添えられないような無様な真似はできない、と無理に見せた笑みが少し痛々しかった。
兄アルベールの活躍を話して聞かせると、話に合わせるように小さく頷き、準々決勝で負けたことを残念がっていた。
それ以上にラシェルの口から出てくるのは、あの瞬殺の剣士のことだった。
「本当に試合運びが速くて、決着を見逃しちゃうなんて、これまでなかったのに。本当に速くて、正確で、足運びが一、二歩でもう試合終わりなんて、本当にすごいと思うわ」
「そういう奴に限って、長期戦は苦手なんだろうね」
「…そうかもしれない。競り合うところも見てみたかったな」
あまりに一方的すぎて、剣の試合から伝わってくる駆け引きも、息づかいも、そこからにじみ出る気質も、何もわからないまま。まるで魔法にかけられたかのような、不思議な試合をする剣士だった。
「アルベール様と戦ったら、面白い試合になったかもね」
「兄さんは、粘るのが好きだからね」
背もたれに頭をもたれかけて、ゆっくりと話すユーグは、少し息が乱れていた。
「…せっかく同行したのに、ごめんね。今日はありがとう」
ラシェルを家まで送り届けると、済まなそうに詫びの言葉を残してユーグは去って行った。
翌日、名乗っていなかったうちの一人、ミシェル・ミエルが正式に断りを入れてきた。
「このたびは、ラシェル嬢の婚約者候補に親が勝手に申し込み、大変申し訳ないことをしました。…実は自分には将来を誓う仲の者がいます。親に反対されており、このような事態になってしまいました。闘剣会にも参加しなかったので、その資格は既にないのですが、申し込んでおきながら黙って知らぬ振りで済ませるのも失礼かと思い、謝罪に来た次第です」
そのままにしても候補から外れるところを、わざわざ謝りに来たミシェルは、芯の強そうな好青年だった。
エクトルとラシェルは、その詫びを受け入れ、ミシェルとその思い人がうまくいくことを祈った。ミシェルは深々と頭を下げた。
もう一人は未だ名を明かさなかったが、その期限は闘剣会の賞金の受け取りと同じく一週間後になっていた。
もちろん、エクトルはその人を知っていたが、どうもその人に申し込みの最優先権があるらしいことをほのめかされた。なので、その人が名乗るか、権利を失うまでは、婚約者候補選びは保留となっていた。
アルベールよりも優先権があるということは、準決勝に残った四名のうちの誰かと言うことになる。その人、アルベール、ノエル。この三人から、婚約者を選ぶのは、ラシェルだ。
第三の人物が誰なのか、気になった。
ユーグはやはり無理をしていたらしく、ラシェルを家まで送り届けた後、寝込んでしまったらしい。
お見舞いに行くと、婚約者候補でもある兄のアルベールがいて、出迎えてくれた。
今まであまり相手にされたことがなかったのもあって、まるで婚約者に決まったかのように自分を丁寧に扱うアルベールはちょっとぎこちなく、違和感を覚えた。しかしアルベールが自分の婚約者になる可能性は高い。第三の人物がこのまま名乗り出なければ、アルベールか、ノエルか、と言われれば、アルベールの方だろう。
ユーグはベッドの上に座り、本を読んでいた。二日間寝込み、ようやく熱が引いたところらしい。
あまり食欲はなかったようだが、ラシェルが持参したリンゴを自らむいて渡すと、一切れではあったが口にした。残りはアルベールが食べていた。
家の者に呼ばれてアルベールが部屋を出ると、
「兄さん、ちょっと浮かれてるみたいだ」
とユーグが笑っていた。
「ああ見えて、女性と付き合ったことがないんだ。いろいろと不器用なところがあるけど、悪い人間じゃないよ」
こちらも、もう兄がラシェルの婚約者になったかのように話している。ラ・トゥール家ではもう決定事項になっているのかもしれない。しかし、まだラシェルの気持ちは固まっている訳ではなかった。
それを見透かしたかのように、
「兄さんでは、何か足りない?」
と、ユーグが聞いてきた。
「別に…そういう訳でもないんだけど。何だか実感がわかなくて」
髪を自分の指に巻きながら、戸惑いをそのまま口にすると、
「君が剣が強い男が好きだから、闘剣会出場を必須条件にしたってヴォルテーヌ伯から聞いたよ。…兄は強いよ。剣の腕も一流だし、体力もある。勉強は苦手とは言え、領地経営だって学んでる。他に何が必要?」
選択肢は限られているとは言え、自分は選ぶことができる立場だ。選んだ人にも、選ばなかった人にも、誠実であるべきだろう。そう思うのに、どこか腑に落ちない。
「そうね。…伯爵家の跡取りとして、できればそこそこ仲良く、末永く一緒にいられればそれでいいと思わなければね…」
そう言った時、ユーグの顔が曇ったように見えた。
何かおかしな事を言った? そう思ったものの、心当たりがない。
「そう、だね。末永く一緒に。でないと、結婚する意味がないからね」
とり繕ったような笑顔が、しばらく頭から離れなかった。
その翌日、闘剣会の優勝者を名乗る男が現れ、噂はすぐに街中に広がった。
本物の優勝者かどうか見極めるため、翌日、公開審査会が行われることになった。
あの瞬殺の剣士の素顔が見られるかもしれない。
多くの者と同じく、ラシェルもまた興味を持っていた。
家の者には内緒で見に行こうとしたラシェルだったが、いつものようにユーグにはばれていた。
「明日は兄さんは勤務だし。…僕がついて行くから、一人では行かないように」
まだ体調も完全ではないだろうに、ユーグは同行するといって譲らなかった。
「僕も見てみたいんだ。君が心を奪われるほどの剣士をね」
そう言えば、帰りの馬車で瞬殺の剣士をべた褒めしていたことを思い出した。
ユーグが剣に興味があるとは知らなかったが、互いに「無理はしないこと」を条件に、お忍びで公開審査会が行われる街の広場まで向かうことになった。
男はエドモン・レジスと名乗り、あの時、優勝した剣士がつけていたものと同じ仮面を持っていた。
手にしているレイピアは、試合の日のものより少し長いように感じたが、剣士なら複数の剣を持っているだろう。
試合を受けることになったのは、街では少し名の知れた剣士、ドニだった。
構えるやいなや、速攻で攻め入り、わずかな打ち合いの後、突きを決めていた。
ドニは尻を地面に着け、
「ま、参った」
と自らの敗北を認めた。
見事に決まった速攻に、
「おまえが優勝者だと認めるよ」
とドニは苦笑いを見せた。エドモンは何度か頷くと、手を引いてドニを起こし、そのままいい笑顔で握手を交わした。
周りの者はよくわからないといった様子で半信半疑だったが、次第に湧き上がってくる拍手が広がり、承認されたムードになっていた。
しかし、
「変ね…」
ラシェルは握った手を顎に当て、首をかしげていた。
「剣士様の技はもっと速くて、見逃すほどだったのに。…それに、試合の決め手は必ず三突きだったわ」
すぐ近くにいた審査員の一人が
「そう、私も印象が違うと思っていたところだよ」
とラシェルに話しかけてきた。
それを耳にした者が拍手をやめると、次第に拍手をしているのが限られた者だという事がわかってきた。
審査員達が集まり、その場にいた、当日準決勝に残っていた騎士団のロベールが呼び出された。
エドモンは、ロベールと剣を合わせると、速攻が効かず、攻め合ううちに剣を跳ね上げられ、敗北を期した。
「おまえがあの時の男とは思えないな…」
ロベールの言葉に、エドモンは優勝者とは認められず、賞金を手に入れることはできなかった。
「早く帰った方がいいかもしれない」
ユーグは少し周りを警戒しながら、ラシェルを馬車に乗せ、広場から去った。
少し寂れた街を抜ける途中、ユーグが緊張した面持ちで警戒を緩めることなく窓の外を見ていた。
病弱で頼りないユーグからは想像もできない顔つきだった。
その意味はすぐにわかった。
三匹の馬が後方から迫り、うちの一匹にまたがる者が馬車の前に飛び出すと馭者に襲いかかったのだ。
馬車が止まると、馬から下りた男が強引に馬車のドアを開けた。
そこにいたのは、さっき瞬殺の騎士を騙った、エドモンだった。
「ははは、さっき広場にいた上玉だ。ずいぶん華奢な男を連れていると思ったが…。こら、とっとと出てこい!」
ユーグを突き飛ばし、ラシェルへと手を伸ばした直後、ラシェルは自分の体が後ろへと強く突き飛ばされるのを感じた。馬車の座席の一番奥に体が当たり、痛みと驚きの中、
「ぎゃあああっ」
と言う男の悲鳴が聞こえた。
ラシェルへと伸ばしていたエドモンの掌に穴が開き、血が吹き出ていた。
痛みに悲鳴を上げる男に隙を与えることなく、続けて胸、首へと三度の突き、心臓を突いたその穴から勢いよく吹き出した血と共に、エドモンは馬車の外へと倒れていった。
ラシェルの目の前には、片膝を突き、スモールソードを構えたユーグがいた。
外の仲間も、突然倒れたエドモンに何が起きたのかわかっていなかった。
馬から下りて駆け付けた別の男が続いて馬車に乗り込もうとしたが、足をかけただけでそのまま後ろに倒れた。
同じように胸と首を突かれ、目をむいて仰向けに倒れていく仲間に、馭者を襲っていた男が慌てて駆け寄ってきた。
馬車から身を乗り出すユーグ。
大きく振りかぶった剣に、ユーグは素早くかがみ、相手が振り下ろすより速く、敵の顎から剣を突き上げた。
剣を抜いたユーグは、そのまま剣を手から落とし、息を荒げてその場にうずくまった。
顔を歪めて胸を押さえ、馬車に同乗していた従者が駆け付けた時、顔は蒼白となり、ほぼ意識はなかった。
「ユーグ様、しっかり、しっかりなさってください!」
通りすがりの馬車が事態に気付き、即座に元いた街の警備隊が呼び出された。ユーグとラシェルはそのままラ・トゥール家に戻ると、ユーグはすぐに医師の診察を受けた。
ユーグの状態はあまりよくないことを聞かされたが、ラシェルにはどうすることもできず、ラ・トゥール家の馬車で家へと戻った。
馬車を襲ったエドモンらは手配中の強盗で、時に貴族の子供を誘拐して身代金を要求することもあった。三人は皆心臓や頸椎、脳幹を突かれ、死んでいた。
優勝者と見極めるために試合をしたドニは、エドモンに買収され、負けを装う代わりに手に入れた賞金の一部をもらう段取りがついていた。
あの場にいて率先して拍手をした者も、多かれ少なかれ金を受け取っていたことがわかった。
優勝賞金を狙いながら、集まっていた野次馬の中から家柄の良さそうな者にも狙いをつけていた。賞金を手に入れるのに失敗したことから、即座に強盗へと切り替え、いかにも貴族の令嬢で、同行していた男が弱そうだったラシェルがターゲットになったのだ。
ラシェルにはもうわかっていた。
瞬殺の剣士の正体は、ユーグだ。
静かな構え、開始の合図と同時の速攻、突きは連続で三度。
その技は正確で、残忍なほどに急所を的確に狙っていた。
その理由も明らかだ。
ユーグには、怯む時間がない。
最初に攻撃し、一撃で敵を倒さなければ、体が持たないからだ。
走ることも、打ち合うこともできない剣士。
ユーグが剣を使えることなど、ラシェルは知りもしなかった。
ユーグと会えるようになるには一週間以上の時間が必要だった。
久々に会ったユーグは、青白い顔をますますやつれさせ、笑顔もはかなげで、今にも消えてしまうのではないかと思わせるほどだった。
「ユーグ。あなたが、瞬殺の剣士様だったのね」
ユーグは口許に柔らかく笑みを浮かべはしたが、頷くことはなかった。
「父にも聞いたわ。あなたが名乗らない婚約者候補だって」
「…寝過ごして、期限に間に合わなかったね。…残念だ」
言葉とは裏腹に、ユーグは少しも残念がってはいなかった。そして、自分に言い聞かせるかのように、
「君を助けられたから、いいんだ」
と言った。
今にも泣き出しそうな顔で、目を伏せたラシェルに、ユーグはゆっくりと手を伸ばした。ラシェルはその手を両手で掴んだ。
「僕は心臓の病を抱え、激しい運動も、心の動揺も避けて暮らすことを言われてきた。でも、それって面白くないんだ。体は辛くなくても、何も感じずに命を延ばしていって、何になるんだろう」
「…どうして、剣を学んだの?」
「君が、強い男が好きだったからね」
ラシェルは剣の強い人が好きだと公言していた。しかし、自分のために剣を学ぶ人がいようとは、思いもしなかった。
「開始早々に攻撃すると、僕より反応の早い人はまずいなかった。人を本当に殺めたのは今回が初めてだったけど、いつだって殺る気で挑んでいた。急所を外せば確実に負ける。僕の正体がわかれば、対策なんてすぐにとれる。近寄らず、1分も構えて様子を見れば、僕は自滅する。そんな僕は、剣士としては最弱なんだ」
「最弱じゃない。最強よ。…優勝したじゃない。どうして、優勝した時、名乗らなかったの?」
「…試合は、多分2試合が限度だった。でも、どうしても勝ちたくて。一度勝てば、もっと勝ちたくなって、決勝にたどり着いた時は、もう限界だった。でも、君に勝利を捧げたくて、無理をして、…試合の後すぐに倒れたんだ。情けないよね」
「勝ったのに、どうして婚約者候補だって言わなかったの?」
「僕は、…君と末永く生きることは、できないから…」
ラシェルは、あの時の自分の言葉が、自分のために勝利をつかんだユーグを打ちのめしたのだと気がついた。
末永く一緒にいられれば。
ごく当たり前だと思っていた言葉が、それが当たり前ではないユーグから希望を奪っていたのだ。
目を伏せたラシェルに
「君が悪いんじゃないよ。駄目なのは僕の体だ。…兄は体が丈夫だから、大丈夫だよ。優しい人だ。きっとずっと一緒にいてくれる。君を幸せに」
「駄目なの」
ラシェルはユーグの首に手を回し、その肩に顔を埋めた。
「一番強い人に優先権があるから…。他の人は、みんな、お断りしたわ」
「えっ?」
「あの日、ユーグが瞬殺の剣士様だってわかった日に、あなたが私の婚約者候補だって教えてもらって、すぐに父に言ったの。ユーグがいいって。一番強い人だから。私のために一番になってくれたから。だから、他の人は皆お断りしてもらったの」
「に、兄さんも?」
頷いたラシェルに、
「駄目だ。僕はそんなに長く生きられない。君を悲しませる日が来る」
「私は、あなたがいなかったら、あの日死んでたわ」
ラシェルのユーグを掴む手に力が入った。
「どんなに元気でも、ある日突然死んでしまうかもしれないのよ。ずっと一緒なんて、いつまで一緒にいられるかなんて、どんな人だってわからない。あなたがいなければ、私は死んでた。あなたが守ってくれた命だから、あなたのそばで生きていきたいの」
ラシェルの思いに答えるように、ユーグはラシェルの肩に手を回し、その手に力がこもった。しかし、言葉は出ない。
「あなたが断ったら、私、今日があなたに悲しまされた日になるから。私が悲しむ日が、今日よりも一日でも長いなら、きっと幸せになれる。…駄目?」
ゆっくりと、肩から顔を離し、ユーグの目を見つめた。
ユーグは顔を赤らめて、
「…こんなに動揺させて。君は心臓に悪い人だ。…でもこれで死んだら、僕は世界一幸せな死に方をしたことになるな」
ラシェルを抱きしめると、鼓動が大きくなった。それなのに心は落ち着いて、安らかな気持ちになれた。
例え、末永くは無理でも、できるだけ長く。せめてもう一日長く。
ラシェルとユーグはその後すぐに婚約し、体調が落ち着くのを待って早々に結婚した。
ユーグは比較的小康状態が続き、家族と過ごしながら、体調のいい時は領地まで足を向け、時にベッドの上で家や領地の運営を考え、現伯爵であるエクトルを補佐した。剣だけはもう持つなと言われたが、こっそり隠し持ち、いざというときに家族を守れるよう備えていた。
ラシェルの父に、跡継ぎを自分ではなく二人の子供達に託し、二人が成長するまで見守って欲しいと願いながら一足先にこの世を去った。
その日悲しませるより、一日でも長く。
そう願った生活は、十二年に及び、欲張ればもっと長くあることを望んだかもしれないが、思ったよりもずっと長く、楽しい日々だったと、自信を持って言えた。
自分に幸せをくれた夫に感謝を込めて、ラシェルはその最期を笑顔で見送った。
お読みいただき、ありがとうございました。
この話を書きながら、同じ設定で別の話が思い浮かび、異世界(恋愛)ではなく、ハイファンタジーとしてアップしました。
恋愛要素はありますが、あまりハッピーエンドではないです。
こっちが言葉の駆け引きと二人のつながりを重視したのに対して、もう一方は自分重視で起こった事件もちょっとえげつない系の話になってます。
(本格的えげつない系には及びませんが…)
瞬殺の剣士 (ダークサイド)
https://ncode.syosetu.com/n2541hp/
後書きには直にhtml埋め込めないようなので、
この下にリンクなるものをつけてみんとす。