第四十四話「コイの始まり」
香ばしい香りに気付き、エミルは作業の手を止めた。柱時計を見ると、昼食の時間である。
出かけていたルカが、玄関から戻ってきた所だった。
「ご主人。グリュックス・ベッカライで、新作が出ていましたよ」と、彼は嬉しそうに報告する。
ルカが腕に抱えている紙袋には、パンを包んだ油紙が入って居た。
「これが、新しいプレッツェル」と言って、ルカは手の平大の袋を、差し出す。
エミルは、「ありがとう」と、パンの包みを受け取った。
パンに目玉焼きを添えて、カップに林檎のジュースを注いだ。
何時も通りの、ありあわせの物で作った昼食だが、ルカから文句が出たことはない。
エミル達は、夫々の持ち場の近くで食事を摂る。
今後、もし、大きなテーブルを買ったとしても、仕事場で食卓を囲むのは、少し気恥しいだろう。
エミルは、あまり他人の外見に興味がない。衣服の造形には、とても興味があるが、反対に、それを着ている人が、どんな姿をしているか、あまり注視した事が無いのだ。
その彼でも、ルカは相当、「女性に好まれる外見と物腰」をしているのだと、気づき始めた。
実際、ルカを受付係にしてから、女性客が増えた。
衣服の修繕以上の、長話をしようとする者も増えた。
妙齢の夫人だけではなく、白髪で背中のまがった老婆から、親についてきた三歳のレディまで、ルカを見ると目尻が下がって、手を振りたくなるようだ。
ファルベも、時々ルカを相手に、受付で「内緒話」をしている。
もしや、うちの受付係が、彼女の初恋の人になるのか? と、エミルは少し期待していた。
ファルベから、ルカへの気持ちを伝えられた、どんな反応をしよう。
兄貴分として、笑顔で「おめでとう」と祝福すべきか。いや、そうだろう。
そんな事を考えていると、不思議と口角が上がってくる。
「何か楽しい事が?」と、ルカが新しい依頼品を、作業室に持って来た。
エミルは、「君は……」と、聞きかけたが、頬を手の平で叩き、表情を引き締めた。
「ご主人は、青色がお好きなんですか?」と、休憩時間にルカに聞かれた。
「嫌いではないね」と、エミルは答える。
ルカはそれから、エミルに幾つかの質問をして、それをメモに取っていた。
この頃、ファルベとルカの、動向が怪しい。ファルベが、夕刻の間際まで店に居座り、ルカが夜道を送って行く事が増えた。
これは、ルカとファルベに、一言言わねばならないだろうか。
正式に交際を始めるまで、越えてはいけない一線はあるのだ、と。




