表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

未来も過去も、そして……

 時間の流れなんて、あっという間。今日ほど強くそう思った日は他にはない。

 もうすっかり葉が落ちてしまった2月のイチョウ並木。私たちはここで出会い、笑い合って、喧嘩もした。私たちの思い出のすべてが詰まっているといっても良いくらいに大切な場所。

 私はイチョウ並木から続く学校の校門に立ち、彼が来るのを待つ。早く会いたい。けれど、それは別れの始まり。だから、なるべく遅れてきてほしい。――気持ちは矛盾してばかりだ。

 今日、この時間にこのイチョウ並木を指定してきたのは、樹のほうだった。私は空港まで見送りに行くと言い張ったのだけれど、気を使わせたくないからとやんわり断られてしまった。そういうところは頑固というか何というか、彼は譲らなかった。最後なのだからそれくらい聞いてあげよう、とその時は私もすんなり折れた。けれど、彼といられる時間が少し短くなってしまうのはやっぱり寂しい。空港までついて行くと、わがままを言っておけば良かったかもしれない。


「今さら、何考えてるんだか」


 ため息まじりに見上げたイチョウの木は、数か月前までは鮮やかな黄色で輝いていたというのに、今ではすっかり葉を落とし、頼りない枝だけが冷たい風に揺れている。あと1か月もすれば青々とした葉がが顔をだすだろう。けれど、このイチョウが緑にしげる頃には、私も彼もここにはいないのだ。私は他県の大学へ、彼はもっと遠くの異国へと行ってしまう。

 そうか。これが彼と二人で見られる最後のイチョウなのだ。それを思うと、無性に寂しさがこみあげてくる。

 ――遠距離恋愛。

 実はそれも考えた。友人達にもそれを薦められた。ネット環境の整った今時、そんなに難しいことではないって、みんなそう言ってくれた。でもやっぱり、私には、私達にはそれは出来ないと思う。

 まあ、無理矢理やってみれば出来ないことはないのだろう。お互いに好きなら物理的な距離なんて関係ないという言い分もわかる。

 でも、それをしてしまうと、きっとあの人の夢も何もかも中途半端になってしまうような気がして……。彼には余計なことを考えることなく、音楽の道を、夢への道を歩いていって欲しい。そのためには私が足かせになってはいけない。否、なりたくないのだ。

 そんな強がりばかり言って、こっちに一人残って、私はどうするんだろう。寂しくなったらどうすればいい……?


「本当、困っちゃうよね……」


 分かってはいたけれど、イチョウに話しかけても何も返っては来なかった。

 それでも、思い出の分だけ押し寄せてくる寂しさを心のうちに押し込めるようにかぶりを振って、私は一人笑顔を作る。

 笑って送り出してあげよう。そう思ってきたのだから。

 私はイチョウから目を離し、後ろを振り返った。


「遅い。待ちくたびれちゃった」


 スーツケース片手にこちらに向かってきた彼は、一度腕時計に目を落とし顔を上げてはにかんだ。

 どうしてだろう。とても緊張する。いつもの彼なのに、今日はとても遠い人に見えてしまう。気のせいだろうか。


「ごめん。準備が長引いた」

「良いけど……あれ? 荷物はそれで全部なの? ずいぶん少ないように見えるけど」


 緊張を隠すかのように、私の口から出たのはそんな何げない問いかけ。

 何を聞いてるんだか。もっと話したいことはたくさんあるのに。


「ああ。これはすぐに必要な分で、あとは郵送なんだ」

「そっか……」


 その先は、上手く言葉が出てこなかった。話したいことはあるのに、何を話せばいいのか分からない。口を開こうとすると、その話したいことがいっぺんに出てこようとして言葉にならないのだ。

 やがて、彼は私のもとに辿り着くと、スーツケースを立てて立ち止まった。


「…………」

「…………」


 会話が続かない。会ったばかりの頃でももう少しましな会話が成り立っただろうに。彼も彼で思うところがあるのだろうか。二人向き合っているはずなのに、目が合わない。

 暫くそのまま時間が流れたが、先に口を開いたのは彼の方だった。


「俺さ、もう一度だけ亜沙美とここを歩きたかったんだ」


 彼は今は散ってしまった(さび)れたイチョウを見上げて言う。

 そして、どちらからともなく歩き出す私たち。毎日のように歩いてきた並木道だというのに、気持ちの問題なのだろうか、いつもと違って感じられる。


「何ていうか、特別な場所だろう、ここって。毎日飽きるくらいに歩いたってのに変な話だけど。あ、いや、これは俺だけかもしれないけどさ」


 私は何も言わずに、首を横に振るだけで返答した。私も同じようなことを考えていたからこそ、今日のこの待ち合わせにも素直に――後々後悔したのだけれど――同意したのだ。

 

「だからさ……」


 ――だから。


「ここを歩き終えるまで、俺の彼女でいてくれる?」

「あそこまで行ったら、お別れでしょう?」


 二人同時に出た言葉は、言い方は違えど意味は同じ。良かった。同じことを考えていたんだ、なんて、妙に安堵してしまう。私たちはクスリと笑い合い、自然に互いの手を握った。

 そうしている間にも、もう並木の三分の一は過ぎてしまっている。こんなに短いものだっただろうか。学校に遅刻しそうな日は、長すぎるくらいに感じながら走ったというのに。

 それでも私たちは歩みを止めない。


「あっちでは、上手くやっていけそう?」

「どうだろう。言ってみないと分からないけれど、とにかく頑張るよ。せっかくのチャンスだし、多少のことじゃあへこたれないよ」


 そう。それでいい。あなたには前を見ていてほしい。


「あら、頼もしくて何よりだわ。ここまできて弱音の一つでも口にされたらどうしてやろうかと思ってたんだから。偉い偉い」

「うわ、すごい上から目線」

「当たり前でしょう。だって私の方が樹よりも2か月年上なんだから」

「はいはい。そうでした。亜沙美お姉さま」


 いつもの他愛ないやり取りに、顔を合わせて小さく笑う。これも今日で、今この瞬間が最後だと思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。いつもだとか、日常だとか、そういう言葉がこんなにも愛おしいなんて思いもしなかった。

 それでも、それを彼に悟られたくはない。実際は気づかれてしまっていたとしても、それを表面に出すことだけはしたくなかった。だから私は、右手に彼のぬくもりを感じながら、精一杯の笑顔を作る。


「あと、少しだ……」


 会話の合間、ぽつりと彼が呟く。それまでよりも少しだけ、陰りを含んだ彼の声。それは、小さな声だったけれど、確かに私の耳に届いた。

 彼の言葉につられて、ふと道の先を見やると、並木道も折り返し地点。半分を過ぎようかというあたりまで来てしまっていた。


「じゃあここからは、少し真剣な話、してもいい?」

「……うん」


 私がゆっくりと頷くと、彼の手に少し力がこもったのが分かった。


「本当は、俺。留学するの、ずっと不安で不安でたまらなかったんだ。決まった時は、あんなにはしゃいでたのに馬鹿みたいだろう。ははは……知ってた?」

「ううん」


 嘘。知ってたよ。あなたは、とっても正直だから、隠していたって私にはわかるもの。

 でも、ここで私が頷くと、きっとあなたは耳まで顔を真っ赤にして恥ずかしがるだろう。知ってたのかよ、ってマフラーに顔をうずめてしまいそうだから。


「だって留学したら、その先何年……下手すると何十年、これは言いすぎかな。まあ、いつ帰ってこられるかなんてのは分からないわけだろう。いや、それはあっちで成功すればの話だけど、俺は俺の実力でもって成功させるつもりでいるから。だからいつになるかなんて、本当に分からないんだ。と、いうことはさ……」


 彼は一呼吸置いて、私の方に顔を向けた。


「夢を掴めば掴むほど、沢山のものを手放さなければならないわけだ。例えば、友達だとかそういうもの。勿論、連絡を取ったりはできるけど、やっぱり今まで通りの関係でいられるかっていわれたら、それは不可能だから……さ。でも、その中でも一番、俺の中で引っ掛かったものがあったんだ」


 私がわざわざ気を使っても無駄だったようだ。彼の顔は心なしか赤くなり、目だってきょろきょろと宙をさまよっていた。自分自信の言葉でこうも動揺するなんて、少し可笑しい。

 けれど、今度は私が顔を赤くする番だった。彼は決心したように前を向いたまま、


「亜沙美だよ」


 と、だけ言ってマフラーで顔を隠してしまった。

 ずるい。この状況で黙らないでよ。そんなにストレートに言われてしまったら、私の方が恥ずかしいんだから。

 でも――


「う……嬉しい、です」


 自分の大切な夢が叶いそうな時に、私なんかのことを考えてくれていたなんて、正直言って嬉しかった。少なくとも彼にとって私という存在が、小さなものでなかったことだけは分かる。だけど、やっぱりそれじゃ、いけないんだ。それじゃあ、私は彼の足かせ。ただのお荷物じゃないの。


「でも、駄目。嬉しいけど嬉しくない」

「分かってるよ。でも、やっぱり俺にとって一緒に過ごした時間はかけがえのない大切なもので、亜沙美は何よりも大切な存在になっていた。夢を取れば、亜沙美とは離れ離れにならないといけない。そんなの考えられなくて。だから、すごく悩んだ。悩んで悩んで、それでもただ時間が過ぎていくだけで、答えなんて出なかった。そのうち、演奏にも気持ちが入らなくなって。……まったく細い神経だよな」


 泣いている……? 話す彼の口調は単調にも感じられるけれど、それは感情を出さないように食い止めているだけなんだろう。涙声になっているのが、逆に強調されてしまっているのに彼は気づいていないのかもしれない。

 私は彼の顔を極力見ないようにした。


「でも、わかったんだ。立ち止まってちゃいけないんだって。っていっても、これも亜沙美のおかげなんだけど。コンクールの日、あの日。実は頭の中がぐちゃぐちゃでもう駄目かもって思ってたんだ。だけど、あそこで亜沙美に貰ったカード見てさ。今までぐるぐる思いつめてたことが一気に消し飛んだんだ。何であんなに悩んでたのかわかんなくなるくらいに」

「私、そんなたいしたことしてない。あの日だって間に合わなかったし、それに待ってる間に寝ちゃって、その後の予定もくるっちゃうし……」


 あのカードだって、差出人を忘れるという大失態をおかしたではないか。樹が気づいてくれたからいいものの、そのまま気づかれずに捨てられていたとしたら? 考えただけで冷や汗が出てくる。

 本当にそんなにたいしたこと……。私の力なんて小さすぎて、何の役にも立てない。


「確かに……」

「む……」


 素直に肯定されると、微妙に腹が立った。

 私は分かりやすい態度で彼を見上げる。泣いていないかと少々不安に思ったが、彼の顔はもういつもの優しい笑い顔に戻っていた。


「嘘だよ嘘」

「もうっ」


 真剣な話の途中にからかわれてしまった。私はわざとあさっての方向に顔をやる。

 そうしてふと気が付くともう並木の終わりの目前。そらした私の顔から一瞬笑みが消えた。いけない、笑っていようって決めたのに。


「ごめん。話がそれた。とにかく、俺にとって亜沙美は夢と同じくらいに大切でかけがえのないもので。……だけど、だけどさ。このまま亜沙美に背中を押されるだけじゃいけないんだと思った」


 違うよ。背中を押されてるのは、勇気をもらってるのは私のほう。あなたが前を向いているから、私も頑張れる。


「だから、俺、絶対成功してみせるから。もう迷ったりしない」

「うん」


 私はただ小さく返事をしてうつむくことしかできない。口を開いて話そうとすれば、声が震えてしまいそうだ。

 一歩一歩並木道の終わりに近づくたびに、鼻の奥がつんと痛む。もうすぐ彼は遠くへ行ってしまう。そう思うと、もう笑顔でいることすら難しくなってくる。

 

 そして――


「好きだよ、亜沙美」

「……うん」


 私たちは足を止めた。

 イチョウ並木の終わり。握ったこの手を離し、一歩ここから出た瞬間、私たちは新しいスタートきるのだ。そこからは私の隣に彼はいない。勿論、彼の隣に私はいない。

 こみ上げてくる涙を必死に我慢して力を振り絞り、私は彼の顔を見上げようとした。しかし、そうしなくともすぐに彼と目があう。それくらいに彼が距離を詰めていたからだ。

 いつの間にか、頭一つ分も背の高い彼の顔は、私の目線の高さに合わせるようにして目の前あった。

 そして、彼の空いた方の手が私の肩にそっと置かれ、私はそれに任せて目を閉じる。

 これも最後の――


 しかし、その瞬間はいつまでたっても訪れなかった。

 じれったさに目を開けると、至近距離で彼と視線が絡み合う。彼の瞳は澄んでいて、綺麗だった。


「樹……?」

「やめた。……できないや」


 彼は体を戻しながら、そう言って微笑む。けれど、私にはそれがとても寂しそうに映り、無性に悲しくなる。


「すると、行きたくなくなるだろう?」

「そうだね……」


 私も行ってほしくなくなる。いってらっしゃい、と素直に言えなくなりそうだ。

 そうして数秒間。私たちは立ち止まったまま、動けなくなってしまった。あと一歩踏み出して、並木道から出るだけでことは済むと分かっているのに、それがなかなかできない。


 イチョウの枝が寒風に静かに揺れた。いたたまれなくなって私はその枝先に目をそらす。

 そこには小さな、本当に小さな膨らみ。ああ、こんなに寒いのに、もう新芽が準備を始めているんだ。

 私は一度、目をつぶって大きく深呼吸をした。私たちも、こんなところで立ち止まっていてはいけない。前を、これから先を見なければ。

 

「行って。私、見送るから」


 私は上手く笑えているだろうか。……大丈夫。きっと大丈夫。

 絡み合っていた手を私の方から引き離す。それだけでもう胸が一杯だったけれど、歯を食いしばって向かい合った彼の肩を両手で押した。後ろに体を傾けて、彼は私に困惑のまなざしを向ける。

 もう、仕方がないんだから。


「こらこら、自信満々にいったそばからそんな顔しないの。いい? これからは音楽のことだけを見ていられるんだから、幸せだと思いなさい。……ね?」


 精一杯の明るさでもって言うと、少しすっきりとした気分になった。

 初めはぽかんと(ほう)けている様子だった彼も、やがていつもの優しい笑顔で頷いた。


「わかった。ありがとう、亜沙美。行くよ」

「うん。……元気でね」

「亜沙美も」


 軽く手を振って、彼は私に背を向けて一人歩き出した。

 私はイチョウ並木の片隅で、彼の背中に向け手を振り続ける。


「……さよなら」 

 

 小さくなっていく彼の背中が、次第にゆらゆらと(かす)み出す。

 もう少し、もう少しだから。樹の背中が見えなくなるまでの辛抱だから。そしたら我慢しなくても良いから。

 きっと彼はもう振り返らないだろう。けれど、私は自分にそう言い聞かせて奥歯を噛みしめる。


「……うぅ……っ」


 しかし、どんなに頑張っても涙が溢れ出てきて止められない。両手で押さえても尚、嗚咽が漏れだす。

 どうして? あともう少しじゃないか。彼は次の角で曲がるのだから、もう少しなんだから。


 ――ああ、私は彼のことがこんなにも好きだったんだ。

 ピアノを弾く時の真剣なまなざし。私の背に合わせて腰を折って話してくれるさりげない優しさ。時々私をからかういたずらな表情も。

 笑った顔も、怒った顔も、何もかも……。

 

 思い出せば、思い出すほどに、涙はとめどなく溢れる。もう、涙で彼の姿なんて見えなくなっていた。

 こんなに好きなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。

 大丈夫、大丈夫と彼にも自分にも言い聞かせてきたけれど、全然そんなことはなかった。私は、そんなに強くはなかった。

 彼と私の夢見る先が、行く先が同じだったら良かったのに……。


「……で、いっ……ないで」


 行かないで。

 本当はずっとそう言いたかったんだ。でも、それは私のわがままだから、絶対に言えなかった。彼の足を引っ張りたくなんてなかった。

 それは私にとって絶対に許せないことだったから。

 

 でも、もういいよね。本当のことを言っても。彼はもうここにはいないから。彼は行ってしまったから――

 

「……っ!?」


 そう、考えがよぎったその時だった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 衝撃と驚きで、息が詰まる。気が付くと私は、誰かの腕の中にいた。誰かなんて、こんな状況で考えるまでもなかったけれど。

 背の高い体に正面からきつく抱きしめられて、背伸びの状態でほとんど地面に足なんてついていない。それでも気にせず私はその体に体重を預ける。


「い……つき…………」

「ごめん、亜沙美。でも……」


 顔のすぐ横、耳元で声がする。絞り出すような、苦しげな彼の声。


「いってきます」


 そうして、彼の体は私からそっと離れて行った。 


「……いってらっしゃい」


 今度は素直にそれが言えた。


 


*****




「お母さーん!」


 暖かな日差しに包まれた昼下がりの午後、私は息子の裕貴の声で目を覚ました。いけない。いつの間に寝てしまったのだろう。おまけに昔の夢まで見てしまった。

 突っ伏していたテーブルから顔を上げると、つけっぱなしになってとっくに番組が変ってしまったテレビが目に入った。


「お母さん。お母さん」

「ん……。なあに?」


 裕貴は私を呼びながら、玄関の方から元気良く駆け寄ってくる。先程遊びに出たはずなのにもう帰ってきたのだろうか。

 まだ覚醒しきらない頭で首をかしげていると、両手のひらを顔の前で合わせた裕貴が危なっかしい足取りでリビングへとはいってきた。


「見て見て。お母さんの好きなお花、持ってきてあげた」

「あら、嬉しい。どれどれ、見せて」

「はい。どうぞ」


 裕貴は、誇らしげに私の鼻先へ手を出した。そして小さな手の中から現れたのは、手の平いっぱいの鮮やかな黄色。花ではないけれど、それは私の大好きなものには違いなかった。


「まあ、ありがとう。あれ?でも、遊びに行ったんじゃなかったの?お友達との約束は?」

「うん。一回行ったんだけど、これ見つけたから帰ってきた」


 わざわざ帰ってきてまで届けてくれたなんてなんと微笑ましい。その気持ちがとても嬉しい。


「そうなの。じゃあ、これは枯れちゃわないように押し花にしようかな」

「うん!」


 裕貴は、ふふんと得意げな笑顔を見せると、テーブルの上にそれを広げてバタバタと再び玄関に向かって駆けていった。まったく忙しい子である。


「今度こそいってらっしゃい」

「はーい。いってきまーす」

「車に気をつけるのよ。それと、暗くなる前には帰ってくること」

「はいはーい」


 分かっているのかいないのか、いいかげんに返事をした裕貴は外へと出ていってしまった。

 小学校に上がってからというものの、友達に息子を取られてしまったようで寂しい気がしなくもない。こうやって親からだんだんと離れていくんだな、と思うと少し面白くない気分になってしまう。子離れしないといけないのに、まだ当分の間は無理そうだ。

 私は他に誰もいないことを良いことに大あくびを一つした。まあ、そんなこと考えていても仕方がない。


「イチョウか……」


 テーブルの上に広げられたイチョウの葉。その中の一片(ひとひら)を拾い上げ、葉先を持ちくるくると(もてあそ)ぶ。

 ――そういえば、あの人は今、どうしているだろうか。

 留学後、海外で生活しているという話を人づてに聞いたのは、たしか5、6年前。結局、彼とは10数年前の冬の日から、一度も会っていない。

 もう今では、あの頃は若かったなあ、と少しくすぐったくも綺麗な思い出となっている。

 

 もしもあの時、別れずにいたらどうなっていたのだろう。そうしたら今頃、私の隣に彼はいただろうか。


「……ううん」


 私は首を振って、ふと浮かんできた考えを否定した。

 やはり、あの選択は間違っていなかった。今でもそう思える。後悔なんてしていない。

 それは、今、私が幸せだからだろうか。


 部屋の壁かけ時計に目をやると、時計の針はもうすぐ3時になることを告げていた。

 昔の夢なんて見たからだろうか。それともイチョウのせいかしら。久しぶりに学生の頃の淡い思い出に浸ってしまった。


「さ、そろそろ夕飯の買い物にでも行こうかな」


 私は手にしたイチョウをテーブルの上の山に戻して立ち上がった。

 帰ったら、裕貴と一緒に押し花を作って、お友達の話、学校の話、それから沢山。話をしよう。

と、いうことで完結です。

なんだかんだで4話になってしまいましたが、私的には満足です。

終わりよければ……ということで。ね?


読んでくださった方、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ