第8話アc手ト忘却
「誰だ!! ここから出せ!!」
私は鉄格子を力いっぱい掴み、喉が裂けんばかりの声を張り上げた。
だが、老婆は白濁した目を細め、ただヒッヒッヒと骨の軋むような声で嗤うだけだ。
「出せ、とはご挨拶だねぇ。お前さんの方から、わざわざ迷い込んできたというのに」
「質問に答えろ! ここはどこだ! 私に幻術をかけて、何を企んでいる!」
「幻術? ヒッヒッ……地上の泥に塗れると、天の理すらも見えなくなるのかえ? ここは『ただの隙間』さね。神様が目を逸らした、ほんの小さな綻び……」
要領を得ない戯言ばかりだ。言葉を交わせば交わすほど、脳髄にウジ虫が這い回るような強烈な不快感が増していく。これ以上、この狂人にかかずらわっていても時間の無駄だ。
「ふん……そんなの知るか! 私は別で脱出方法を考える」
私は老婆から顔を背け、忌々しげに吐き捨てた。
「天界へ帰るための貴重な時間を、こんなカビ臭い地下で浪費するわけにはいかないからな」
そう言い放ち、私は来た道を戻ろうと、踵を返して「後ろ」を振り向いた。
――その瞬間、私の思考は完全に停止した。
後ろを向いたはずだった。そこには、私が降りてきた長い石造りの階段があるはずだった。
だが、私の目の前にあったのは。
丸く縮こまった、見窄らしい『老婆の背中』だった。
そして、老婆の背中のさらに奥には、先ほどまで私が外側から掴んでいたはずの錆びた鉄格子が見える。
「……は?」
意味が、理解できなかった。
私は檻の「外」にいて、老婆は檻の「中」にいたはずだ。
だというのに、百八十度振り向いた私の目の前には老婆の背中があり、さらにその向こうに鉄格子がある。
つまり、私はいつの間にか、老婆の背後――檻の『中』に立っていたのだ。
空間が、一切の前触れもなく切り取られ、デタラメに縫い合わされていた。
「あれぇ……?」
老婆が、ゆっくりと首だけを後ろに回し、背後にいる私を見た。
「背後を取られるとは、私も歳かな……」
ヒッ、と喉の奥で嗤う、すっとぼけたような声。
「なっ……!」
私は心臓が破裂しそうなほどの驚愕に後ずさりし、反射的に右手の小指を突き出した。
異常だ。こいつは絶対に、この世に存在してはいけない化け物だ!
老婆は突き出された私の小指を見ると、白濁した目をこれ以上ないほどにひん剥いた。
「ほぉ……ほおほおほおほほほお……?」
狂ったように喉を鳴らし、シワだらけの顔を歓喜に歪める。
「『プレリュード(豊穣)』……久しいねぇ」
その言葉に、私の背筋に決定的な悪寒が走った。
なぜ、このバグのような老婆が、あのソロモンが私に押し付けた権力の本来の名を知っている!?
「消えろッ!!」
私は極限の恐怖を振り払うように、全力で小指から光弾を放った。
パシュッ!
淡い緑色の燐光が、至近距離にいる老婆の胸元へと吸い込まれる。
――直後。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
鼓膜を劈くような、幼い少女の絶叫が広大な牢獄に響き渡った。
「……え?」
老婆ではない。
私が撃ち抜いたのは、シワだらけの化け物ではなく――。
「なんで……!? なんで撃ったの、アザゼルちゃん!?」
そこに立っていたのは、ボロボロのワンピースを着た、裏都市の少女。
ド・ガンの工房に預けてきたはずの、マリィだった。
「な、マリィ……!? なぜ、お前がここに……ッ!?」
私は混乱のあまり、自分の声すら遠くに聞こえた。
さっきまで、間違いなく老婆だった。老婆の目を見て、私は光弾を撃ったのだ。
それに、なんだこの威力は。
光弾を撃ち込まれたマリィの胸元から、恐ろしい速度で『腐敗』が広がっていた。
私の小指の権力は、鉄のサビを落としたり、せいぜい擦り傷を治す程度の微弱な力しかないはずだ。人間を一瞬でドロドロに腐らせるほどの強力な力など、絶対に持っていない! ただの威嚇のつもりだったのに!
「いたい……いたいよぉ……アザゼルちゃん……なんで……っ!」
マリィが、腐り落ちていく両手を私に向かって伸ばしながら、ふらふらと近づいてくる。
「違う……私じゃない! 私はお前を撃ったんじゃない!」
私は恐怖とパニックで顔をひきつらせ、這いずるように後ずさりした。
だが、マリィの崩壊は止まらない。
ズルリ、と。
酷く嫌な水音が響いた。マリィの愛らしい顔の皮膚が、熱せられた泥のように滑り落ちる。眼球がこぼれ落ち、小さな顎の骨が外れてぶら下がった。
「あ……あ……ぁ……」
声にならない、空気が血泡を抜けるような湿った音だけを発しながら。
マリィの身体は完全に形を失い、私の目の前で、赤黒く腐臭を放つ肉と泥の塊となって崩れ落ちた。
「ああ……あぁぁぁ……ッ」
私は自分の両手を見つめ、胃液を吐き出しそうになりながら絶望に震えた。
私が、殺したのか? ただ自分に懐いてくれただけの、あの無邪気な子供を。この忌まわしい手で?
理解が追いつかない。空間も、能力の威力も、目の前の現実も、すべてが狂い果てている。
「ヒッヒッヒ……」
不意に、鉄格子の『外』から声がした。
私がゆっくりと顔を上げると。
血だまりと化したマリィの肉塊の向こう側。私が閉じ込められている牢屋の外に、あの老婆が立っていた。
彼女は、狂気と絶望に染まる私を鉄格子越しに見下ろし、まるで極上の喜劇でも見ているかのように、顔中をシワだらけにして嗤っていた。
「今一度聞こう、天界の眷属よ……」
鉄格子の向こう側から、地獄の底を這うような重低音が響いた。
老婆の丸く縮こまっていた身体が、メリ、メキメキッ……と、不気味な骨の軋む音を立てて異常な変形を始めた。
シワだらけの皮膚が引き伸ばされ、手足が異様な長さに伸びていく。ほんの数秒の間に、老婆の背丈は鉄格子の天井に届くほどに巨大化していた。
私は、圧倒的な質量の変化に息を呑み、その異形の姿を完全に見上げる形になった。
――瞬きをした、その一瞬だった。
「……ッ!?」
私の目の前にいたはずの巨大な影が、掻き消えた。
背後に気配を感じて振り返る。
私が閉じ込められている檻の、通路を挟んだ「向かいの牢の中」。
そこに、先ほどまで私の目の前にいたはずの巨大な老婆が、いつの間にか座っていた。鉄格子すら開閉した音はない。空間そのものを無視して「転移」したとしか思えなかった。
「貴様……天界に戻りたくはないのか?」
暗闇の中から、重く、底知れない声が響く。
「な……にを……」
私が困惑に言葉を詰まらせると、老婆は虚空を見つめたまま、意味不明な言葉を呪文のように紡ぎ始めた。
「光は影を産み落とし、影はまた自らを食らう。歯車の欠けた時計盤では、神の裁きすら逆回転するのだよ。螺旋の果てに待つのは、白紙の羊皮紙か、それともただの血の染みか……。沈む月を釣り上げるには、銀の糸ではなく、狂った星の瞬きが必要だ……」
「何を言っている……! 意味が分からない!」
私は耳を塞ぎたくなるような不快感に顔を歪めた。単なる狂人の戯言ではない。その言葉の一つ一つが、私の脳髄に直接書き込まれるような、抗いがたい呪力を帯びていた。
『てんは、まばたきをくりかえし……』
不意に。
私の視界の端、薄暗い通路の奥から、パタパタと軽い足音が近づいてきた。
向かいの牢にいる巨大な老婆とは「別」の存在。
それは、私が完全に見下ろすほど小さな、3歳ほどの「幼児」だった。
だが、その顔つき、纏っている不吉な空気、すべてが間違いなく老婆そのものだった。幼児の老婆は、無邪気に笑いながら舌足らずな声で歌うように歩いてくる。
『かみさまは、おっこちるの……』
「ひっ……!」
同じ存在が、同時に違う姿で現れる。神の理を根底から破壊する光景に、私の心は完全に許容量を超えかけていた。
――ガコンッ!!
唐突に、世界がひっくり返った。
上下の重力が完全に反転する。私は悲鳴を上げる間もなく「天井」へと叩きつけられた。
「がはッ……!?」
肺から空気が吐き出される。
だが、天井に落ちた私が顔を上げると、そこは元通りの石の床だった。いや、空間全体がルービックキューブのように無茶苦茶に回転しているのだ。
そして、「上」――つまり本来の床だった場所から、軽やかな笑い声が降ってきた。
「あははっ! 無様ね、元天使さん!」
見上げると、重力を無視して逆さまに立つ女がいた。
艶やかな黒髪、透き通るような肌。20代ほどの、若く美しい女性の姿。
だが、彼女もまた「あの老婆」だった。若々しい声で、彼女は両手を広げて逆さまのままステップを踏む。
「ねえ、世界がただのガラス玉だとしたら、私達はヒビの間のホコリよ! 神様がハンマーを振り下ろす前に、数字のないカレンダーを燃やさなくちゃ! 踊りましょう? 弦の切れたハープで、存在しないワルツをさ!」
若き老婆が指を鳴らした瞬間。
巨大な牢獄全体が、まるで濡れた雑巾を両手で力いっぱい絞るように、ぐにゃりと捻じ曲がった。
鉄格子が飴細工のように螺旋状に歪み、石の壁が悲鳴を上げて砕け散る。空間そのものが渦を巻き、視界がスクリューのように回転する。
その歪みきった空間の奥。すべての螺旋の終着点に、再びキアリクが立っていた。
彼女は、まるで劇場の舞台に立つ女優のように、ゆっくりと両手を広げた。
その直後。
虚空から、四つの人影がボトボトとゴミのように吐き出された。
「……え?」
ザント。リド。マリィ。そして巨漢のド・ガン。
私と出会い、そして自分と会った仲間たちだった。彼らは虚ろな目で宙に浮かび、手足をだらりと垂らしている。
老婆が、ニィッと口角を吊り上げた。
――プツンッ。
四人の首から、同時に噴水のような鮮血が噴き出した。
悲鳴すらない。彼らの首は皮一枚を残して半ばから切断され、大量の血飛沫を撒き散らしながら、重い音を立てて床に崩れ落ちた。
「ああ……あああ……ッ!!」
私は発狂しそうになりながら、後ずさりした。
靴の裏で、ピチャリと重い水音が鳴る。
いつの間にか、足元は足首まで浸かるほどの「血の海」と化していた。
ただの血ではない。真っ赤な水面には、裏都市の住人たちの死体が、無数にプカプカと浮かんでいた。最初に私を襲おうとしたチンピラたちも、白目を剥いて血の海を漂い、私に恨めしげな視線を向けている。
「ヒャハハハハハハハッ!!」
世界が壊れるような、けたたましい老婆の笑い声が全方位から響き渡った。
「命なんて、ただのインクの染みさね! 塗り潰せば消える! 神のシナリオの隅っこで、無様に溺れて死ぬがいいさぁ!」
パカッ、パカッ、パカッ!!
瞬きをするたびに、部屋が異常な速度で変わり始めた。
業火に包まれた教会。
巨大な歯車が噛み合うだけの無機質な空間。
壁も床もすべてが赤黒い「肉」で構成された臓物の部屋。
そして、眩しすぎる白亜の正義の国――。
一秒にも満たない速度で、無数のパラレルワールドの光景がストロボのようにフラッシュし、私の脳細胞を暴力的に破壊していく。
「や、やめろ……やめろぉぉぉぉぉッ……!!」
私は頭を抱え、絶叫した。
高潔な天使としてのプライドも、クールな振る舞いも、完全に砕け散っていた。
足の力が完全に抜け、私は血の海の中にへたり込んだ。腰を抜かし、ガタガタと全身を痙攣させながら、ただただ涙と鼻水を流してすがりつくように後ずさりすることしかできない。
フラッシュが止んだ。
静寂が戻った、薄暗い牢獄の血の海。
怯えきった私の目の前に。
まるで初めからそこに立っていたかのように、長身の異形と化した老婆が現れた。
――ぬっ……。
長すぎる手足を折り曲げ、老婆はゆっくりと腰を下ろした。
そして、白濁した瞳を見開き、私の鼻先が触れ合うほどの至近距離まで、シワだらけの顔を近づけてきた。
鼻先が触れるほどの至近距離。
白濁した眼球がギョロリと動き、数百年も発酵した泥水のような、酷く生臭い息が私の顔に吹きかかった。
私を見下ろし、異形の化け物は、不意に、ひどく間の抜けた平坦な声を出した。
「そこで……だ」
パチン、と。老婆が指を鳴らした。
瞬間、足元を満たしていた夥しい血の海も、水面に浮かぶ無数の死体も、捻じ曲がった鉄格子も、明滅する狂気の世界も、すべてが幻のように掻き消えた。
残ったのは、静寂に包まれた薄暗い、ただの冷たい石造りの牢獄。私の服もブーツも、一滴の血にも濡れてはいなかった。
「私と、協力しないかな?」
「…………は?」
限界まで張り詰めていた恐怖の糸が、あまりの唐突な言葉にプツンと切れた。私はへたり込んだまま、ひゅっと間抜けな声を漏らした。
私を狂気で発狂寸前まで追い込み、仲間が惨殺される幻覚を見せつけておいて、今、こいつは何と言った?
「キョウリョク……?」
「そうさね。何も難しい話じゃない。協力は、とっても簡単なことだ」
巨大化していたはずの老婆の身体は、いつの間にか元の丸く縮こまった老婆の姿に戻っていた。彼女は私の目の前にしゃがみ込み、飄々とした態度でニコリと笑う。シワだらけの顔がくしゃりと歪んだ。
そして、カサカサに乾いた、枯れ枝のような右手を私の目の前にスッと差し出した。
「私と、手を繋いでくれぬか?」
まるで、迷子になった可哀想な子供に手を差し伸べるような、穏やかで優しいトーンだった。
だが、私はその不気味な手を睨みつけ、ギリッと奥歯を強く噛み締めた。
恐怖はまだ細胞の奥底にこびりついている。胃の腑は不快感で裏返りそうだ。それでも、私の中にある「元天使」としての、そして「アザゼル」としての消え残ったプライドが、この理不尽極まりない悪意への服従を、全力で拒絶していた。
「……嫌だ」
私は血の気の引いた唇を震わせながら、明確な拒絶を口にした。
「誰が……貴様のような気味の悪い化け物と……手を繋ぐものか……ッ!」
その言葉を聞いた瞬間。
老婆はピタリと動きを止め、差し出した手を空中で静止させた。
激昂するのか。それとも、再びあの血の海と狂気の世界へ私を引きずり込むのか。私は身構え、強く目を閉じた。
だが――
「ほぉ……」
老婆の口から漏れたのは、怒りではなく、ひどく感心したような吐息だった。
「ふむ。これだけ極上の恐怖を与えてやれば、泣き喚いてすがりつき、何でも言うことを聞くかと思ったが……貴様、ちと頑固らしいな」
老婆は差し出していた手を引っ込め、やれやれと肩をすくめた。その瞳には、自分の想定を裏切る面白い玩具を見つけた子供のような、無邪気な喜びが浮かんでいる。
「仕方がないねぇ。……じゃあ、商談の『先払い』みたいな情報をあげようか」
「情報……だと?」
「そう。お前さんが、喉から手が出るほど欲しがっているものさね」
老婆は再び顔を近づけ、私の耳元にシワだらけの唇を寄せた。
そして、毒蛇が這いずるような声で、こう囁いた。
「この正義の国、ドロステ王国にはな…天界へ行くための『直通階段』があるんだよ」
ドクン、と。
恐怖で凍りついていた私の心臓が、まったく別の熱を帯びて大きく跳ねた。
天界へ行くための、直通階段。
私の翼を毟り取った、あの忌まわしいソロモンの喉笛を食いちぎるための、絶対的な道標。
「……なんだと?」
私は恐怖を忘れ、虚を突かれたように顔を上げた。
老婆の白濁した瞳が、食いついた私を嘲笑うように、三日月の形に細められていた。
「天界へ行くための、直通階段……」
私はその言葉を反芻し、生唾を飲み込んだ。
恐怖で震えていた身体に、カッと熱い血が巡るのを感じる。あの傲慢なソロモンがいる天界へ、この憎き地上から再び舞い戻るための道。
「……本当か? それは、どこにある!」
私は前のめりになり、這いつくばるような姿勢のまま老婆に問い詰めた。
老婆は満足げにヒッヒッヒと喉を鳴らし、天井――遥か上層の王都がある方角をしゃがれた指で指し示した。
「女王エノクが隠し持っているのさ。この眩しすぎる白亜の王城、その最上層……光の届かぬ『免罪の天球の間』。あそこに鎮座する巨大な天秤の裏側に、神の目を盗んで作られた空へと続く不可視の階段が眠っている」
女王エノク。正義の権力を束ねる、この王国の絶対的頂点。
その女が、天界への扉を隠し持っているというのか。
私は血の気が戻った唇を舐めた。天球の間に行き、その階段を上りさえすれば、私はソロモンに復讐を果たすことができる。
希望の光が見えた。そうだ、ただ逃げ隠れするだけじゃない。王城の最上階に乗り込めばいいのだ。
だが、私の決意をへし折るように、老婆は「でもねぇ……」と意地悪く三日月の笑みを浮かべた。
「今の貴様には、ひどく高いハードルだ。……なんせ貴様は今、何故かこの国で『超一級のお尋ね者』になっているからねぇ」
「なっ……お尋ね者だと!?」
私は目を丸くした。
王都に来たばかりだぞ? 角砂糖とハチミツを少々失敬したくらいで、超一級の犯罪者扱いされるいわれはない!
「さあて、理由は知らないがね。白亜の騎士たちが血眼になって『堕ちた天使』を探し回っているのは事実さね」
老婆はわざとらしくため息をつき、首を振ってみせた。
「お尋ね者じゃなければ……貴様、普通に王城の門を叩いて、エノクに直接頼み込んで天界へ行けたかもしれないのにねぇ。惜しいことをした」
「頼み込む……だと?」
「そうさ。この国の『正義の女王』エノクは、世間が思っているよりもずっと、意外と優しいのさ。困っている哀れな迷子がお行儀よく頭を下げれば、慈悲深く階段を貸してくれたかもしれない。……でも、もう手遅れだ。今の貴様が顔を出せば、階段を上る前に首と胴体がサヨナラさね」
老婆の言葉には、明確な嘲笑が混じっていた。
お前はもう詰んでいるのだと、そう言わんばかりに。
だが。
「……ふん」
私は冷たく鼻を鳴らし、血の海にへたり込んでいた両膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
泥だらけのボロ服を払い、老婆の濁った瞳を真っ向から睨みつける。
「勘違いするな、化け物」
「おや?」
「私は高潔なる元天使、アザゼルだ。仮にお尋ね者でなかったとしても、下等生物である人間の王ごときに、この私が『お行儀よく頭を下げる』だと? ……笑わせるな。そんな屈辱を味わうくらいなら、舌を噛み切って死んだ方がマシだ」
私は右手の小指を突き出し、瞳に確かな殺意と野心を宿した。
「話し合いが通じないなら好都合だ。女王だろうが、聖騎士団だろうが関係ない。立ち塞がるというのなら……『武力行使』も厭わない。邪魔する正義は、すべてこの手で粉砕し、天界への階段を力ずくで奪い取ってやる」
虚勢でも何でもない。私の誇りが、そう宣言させていた。
たとえ力は小指の先にしか宿っていなくとも、私は決して折れはしない。
その私の不遜極まりない宣言を聞いて。
老婆は一瞬だけ目を丸くした後――。
「アッハハハハハハハハハハッ!!」
腹を抱え、涙を流さんばかりの爆笑を薄暗い牢獄に響かせた。
「ヒッヒッヒ!アハハハ!武力行使!あの小指の豆鉄砲でかい!いい、すごくいいよお前さん!極上の馬鹿だ!最高に傲慢で、滑稽で、美しい!」
老婆は狂ったように笑い転げながら、シワだらけの手でパチパチと拍手をした。ひとしきり笑い終えると、彼女は目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、再び私の目の前へとしゃがみ込んだ。
「じゃあ……手を、繋ぐかな?」
先ほどと同じように、枯れ枝のような右手をスッと差し出してくる。
私はその気味の悪い手を見つめ、一つ深呼吸をしてから口を開いた。
「……その前に」
「ん?」
「名前を聞きたい」
私が真っ直ぐに見据えてそう告げると、老婆は首を傾げ、呆れたように鼻で笑った。
「名前? 名前なんてどうでもよくないか? どうせ、すぐに忘れるさね」
「いや、聞きたい」
私は譲らなかった。得体の知れない化け物とはいえ、天界への有力な情報を握っている存在だ。ただの「老婆」として認識しておくのは癪だった。
私が頑として譲らない姿勢を見せると、老婆は「やれやれ」と肩をすくめた。
「キアリク……これでいいかな?」
「キアリクか……忘れない」
私はその奇妙な響きを脳裏に刻み込み、差し出された手を取ろうと、無意識に左手を伸ばした。
「ああ、待ってくれ」
キアリクがピシャリと制止の声を上げた。
「右手で掴んでくれ。右手で」
右手を指定されたことに、私は微かに眉をひそめた。私の右手――その小指の先には、ソロモンから押し付けられた『豊穣』の権力が宿っている。それを知っての要求か。
「ふん……注文の多い化け物だ」
私は伸ばしかけた左手を引っ込め、代わりに右手を差し出した。
私はキアリクの冷たく乾いた右手へと、自分の右手を重ね、しっかりと握りしめた。
――その瞬間だった。
キィィィィィンッ……!!
脳髄を直接揺らすような、甲高い耳鳴りが鳴り響いた。
繋いだ右手から、爆発的な「共鳴」が起きたのだ。
私の小指の先に宿る、神の微弱な『豊穣』の光。それと、キアリクの内に渦巻く絶対的な『異物』としての闇の波動。
決して交わるはずのない二つの理が、触れ合った瞬間に激しく反発し、同時に狂った歯車のように無理やり噛み合ったような、強烈なショックが全身を駆け抜けた。
「な、なんだこれは……ッ!?」
繋いだ手が離れない。視界が真っ白に明滅し、広大な牢獄の風景が、熱を持った泥のようにドロドロと溶け落ちていく。
崩壊していく世界の中で、キアリクだけが鮮明に姿を保ち、私を見てニィッと笑った。
「ヒッヒッ……これで少しは、運命がバグるかねぇ。……せいぜい足掻いておくれ、迷子のアブちゃん」
直後。
私の視界は、圧倒的な「光」に完全に包み込まれた。
* * *
「……おい、アザゼル!どうした?」
ハッとして目を開けると。
そこは、カビ臭い地下の牢獄でも、血の海でもなかった。
眩しいほどの白亜の光に満ちた、大理石の床。
私は王都の貴族邸の「厨房」に立っていた。片手には、先ほど棚から取り出した王族専用のハチミツの瓶がしっかりと握りしめられている。
「え……?」
目の前には、パンパンに膨らんだ麻袋を抱えたリドが、怪訝な顔で私を覗き込んでいた。その後ろでは、ザントがジャラジャラと鎖を鳴らしながら「早く行こうぜー」と欠伸をしている。
彼らは私を無視していない。私を通り抜けてもいない。
私の存在は、確かにこの世界にしっかりと固定されていた。
「おい、どうしたんだよ。ぼーっと突っ立って。メイドに見つかる前にずらかるぞ」
リドに急かされ、私はハッと我に返った。
「あ……いや……さっき……」
私は、自分がつい数秒前まで体験していた狂気の出来事を説明しようと口を開いた。
真っ暗な階段。地下の牢獄。もう一人の私。血の海。
そして、名前を聞いたはずの、あの奇妙な老婆のことを。
「さっき、地下で……えっと……」
言葉が、出ない。
喉元まで出かかっているのに、それを音声に変換しようとした瞬間、脳に靄がかかったように記憶がスッと抜け落ちていく。
天界の情報を話そうとした時にかかる、あの忌まわしい制限とよく似た感覚だった。
(あれ……私は、誰と話していた? 誰の手を、握った……?)
手のひらには、確かに誰かの冷たく乾いた手を強く握りしめた感触だけが、じんわりと残っている。
だが、その顔も、名前も、すべてが砂のように指の間からこぼれ落ちてしまった。
「……アザゼル?」
リドが心配そうに眉を寄せる。
「…………いや、何でもない」
私は首を振り、ハチミツの瓶を自分の麻袋に乱暴に突っ込んだ。
気のせいだ。ただの白昼夢か、脳の疲労が引き起こした幻覚だろう。
今はそんなことよりも、この眩しすぎる街から無事に抜け出すことの方が先決だ。
(まあ……いいか……)
私は麻袋を抱え直し、リドたちと共に厨房を後にした。
右手の小指が、ほんの僅かに、熱を帯びて脈打っていることには気づかないまま。
私たちが足早に去った後。
白亜の光に包まれた大理石の厨房には、再び完璧な静寂が降りていた。
誰もいないはずの、清潔すぎる空間。
だが、先ほどまで私が立ち尽くしていた厨房の机の上に、いつの間にか一人の人物が腰掛けていた。
艶やかな黒髪に、透き通るような肌。二十代ほどの、若く美しい女だった。
しかし、彼女が纏う空気は、この正義の国には到底そぐわない、泥のように淀んだ絶対的な「異物感」を放っている。先ほどの狂気の世界で、重力を無視して逆さまに笑っていた――若き日の姿のキアリクだった。
女は机に座ったまま、両足を宙でぶらぶらと遊ばせ、私が消えた廊下の奥を見つめていた。
そして、その若く美しい容姿からは想像もつかない、何百年も生き永らえた老婆とまったく同じ、ひどく掠れた声で呟いた。
「せいぜい頑張るさね」
クスクスと、悪戯を成功させた子供のように肩を揺らして笑う。
すべては彼女の掌の上。あの傲慢で高潔な堕天使が、自分の与えた餌にどう食いつき、この退屈な世界をどう掻き回してくれるのか。それが楽しみで仕方がないという顔だった。
ふと、女は笑いを止め、視線を天井――天界があるとされる遥か上空へと向けた。
艶やかな唇にスッと人差し指を当て、不思議そうに小首を傾げる。
「天界への直通階段ねぇ……」
白亜の厨房に、女のひどく楽しげで、底知れぬほど空虚な呟きが溶けていく。
「……はて……なんだったっけな、それって」




